私小説

檸檬

407と溶ける影ー実話ベース

ファミレスの店内。人知れず僕はそこにいた。学生がたまり出すにはやや早く、家族連れが来るには少し遅い。そんな半端な時間だ。 夜の暗闇を紛らわす、暖色の蛍光灯。その光は僕のまだ空の胃袋の中で反射していた。数少ない客の談笑の声が耳に纏わり付く。それをかき消すように場違いなクラシック音楽も今は不愉快だ。死にたい。僕は稚拙ながらこう思った。


僕は文化祭の実行委員を任された。学年の始まりの、まだ互いのことを何も知らない時期。僕はクラスの中心だった。皆が僕の席に集まり、笑い、話した。だが、それも長くは続かなかった。ノンデリカシーな発言が原因か、それともそれ以外か、それは定かではないが、次第に僕の周りからは音が消えていった。 そんな状態で始まった文化祭準備。僕には誰もついてこない。ほとんどの仕切りをペアに任せ、僕はただ事務的作業だけを行っていた。するとクラスメイトの新田君が僕のかわりに仕切り役をしてくれた。彼は無口だが優秀で、いつも自分の芯を持っている。僕と同じ隣県から来た者同士だが、その差は歴然だった。新田君が仕切り始めて、文化祭準備は劇的に良く進んだ。だがそれは同時に、僕の人望と、立ち場を奪うことでもあった。僕は実行委員という形だけの居場所さえも、ここで失った。喉笛が疼き、罪悪感と疎外感が、僕の心の中で膨らんでいく。それらで膨れ上がった心が衝動的に行った行動。それは逃避だった。僕は4限の授業が終わるなり、カバンも置いて外へ出て、学校から逃げ出した。もうすぐあの時間が来る。そう思った途端、足は勝手に動き出したのだ。


 「ごゆっくりお楽しみください」事務的で無機質なその声は、僕の頭を唐突に叩いた。注文のハンバーグ。ナイフで切り分けた途端肉汁があふれ、ソースが跳ねる音が頭に響く。肉の香りが鼻腔に流れ込んだ。だが、そのいずれも今の僕の心を切り替えるには全く至らなかった。切り分けた一欠片を口に運ぶ、加工肉の粘りの無い感覚が口に広がり、肉は砂のように解けていく。その砂粒のような肉をオレンジ色の液体と一緒に喉奥へと流し込んだ。


ファミレスの呼び鈴が鳴った。女が数人。彼女らの笑い声はどこか聞き覚えがある気がした。目を凝らしてみるがよく見えない。それは若いようにも老いているようにも見えた。


僕は咄嗟にトイレへと逃げ込む。同級生の顔が僕の脳裏に去来した。個室に籠もり、ひたすらに自問自答する。死にたいーなぜこうなったーこれからどうするー明日なんてもうー どのくらいの時間が経っただろう。時計はすでに18時を指していた。

換気扇の回る音が、冷めた手先から僕の体に染み込む。通知は来ない。誰も居ない。一人。僕はふっと息を吐き呟いた。「帰ろう」


コートの隙間から冷たい風が入り込む。ファミレスを通り抜ける様に僕は外へ出た。彼女らは何だったのだろう。今はただ、帰らなくてはという衝動だけが心にあった。 暗い夜道を車のライトが照らす。闇のすき間から見え隠れする風景に、クラスメイトが映らないことを僕は切に願った。


その時、不相応に明るい効果音がポケットから漏れた。ラインの通知音。実行委員のペアからのラインだ。僕は心臓の音が大きくなるのを感じた。画面へと視線が集まり、周りが見えなくなる。二口分程のハンバーグが胃の中でぐるぐると蠢く。 それは鋼鉄のように冷たい文だった。グループラインに所定の文を送る。僕はもう指示に従う他なかった。空っぽな返事をして、グループラインを開く。非通知にしていたそこには新田君の文があった。「残り3日ですが、進捗度が悪いです。あと少しなので気を引き締めて頑張りましょう」その文には多くのリアクションがあった。人望の差。その言葉を痛いほど感じた。


街灯は増えているのに。帰り道が一段と暗くなった気がする。足も重くなってきた。革靴の重みが実に憎らしい。


僕はこの寂寥を紛らわすため、コンビニへと立ち寄った。先の暖色とは対照的な冷たい光。これは僕を照らす光ではない。それでも明るいだけ、幾らかマシだった。おにぎりとココア、チョコレートを買ってトイレに駆け込む。心を守る殻に僕はまだ閉じこもった。重くなった胸の荷を降ろし、整頓する。するとだんだん、自分の心の全貌がつかめてきた。僕は新田君が嫌いな訳でも、クラスメイトに好かれたいわけでもなかった。ただ、新田君に謝りたい。クラスメイトとまた目を合わせて会話したいだけなのだ。そう思うと、腹にたまった何かがほんの少し解けて、空腹を感じられた。


学生寮まではあと500m程。いつもなら30分で帰れる道を、僕は1時間半もかけて歩いていた。先程よりわずかに軽い足で歩く。相変わらず冷たい風も、ココアを飲んでやり過ごした。そして気付けば学生寮の前に立っていた。誰もいない部屋の電気を付けると、そこには慣れたベットがあった。几帳面に整えられた中に、自分の痕跡があり、それが僕を確かに癒した。


癒され、冷静になった僕の心は新田君と会いたい。そう嘆いていた。乾いた電気に照らされながらコソコソと寮のなかを移動する。

407号室。それが彼の部屋だった。震える指が彼の部屋の扉を叩く。骨に響いたその振動は、そのまま僕の心臓まで届き、その鼓動を大きくした。ゆっくりと扉が開く。そこから出てきたのはいつもと変わらぬ、彼の姿だった。大きな二重の目。短い髪。少し低い身長からは考えられないほど大きく見えるその雰囲気。彼は僕に言った。「そういえば聞きたいことがー」僕は被せてこういった。「新田君。僕ずっと君に謝りたくて、かわりずっとやってくれて、僕使えなくて」しどろもどろになりながら、なんとか単語を繋ぐ。心もバラバラになり、心臓の音だけがぐるぐると頭を駆け巡る。「分かった。大丈夫だから早く寝な。ひどい顔色だよ」彼は言ってくれたのだ。今思えば彼は僕を頼りに何か聞こうとしてくれた。パッと晴れた脳味噌は場違いにそんな事を一瞬考えた。だがそんなこともすぐに吹き飛び、僕は彼に向かい一言「ありがとう」そう言って踵を返した。


良いやつすぎるだろう。そんな幼稚な考えとは裏腹に、僕は笑っていた。誰かに頼られることが嬉しかったのだ。新田君はまだ僕を実行委員としてみてくれていた。そのことが嬉しかった。きっと僕は今、天井が崩れかければ目を閉じて死を受け入れるだろう。でも今すぐここで首をつろうと言った厭世的な考えはすっかり頭から抜け落ちていた。

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私小説 檸檬 @Amasaka_Remon

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