【議論開始】[信仰について]
空気が沈んだまま、ユカ先輩は笑みを消さなかった。
その表情は美しく、どこか“祈りを見下ろす神”のようでもあった。
「ねえ、カサネくん。だったら“宗教”って、何のためにあると思う?」
カサネが少し考え、答える。
「人が説明できないことを、説明したいから……ですかね」
「説明?」
「はい。たとえば、“なぜ生きるのか”とか、“なぜ死ぬのか”。論理では答えが出ないから、神や宗教が必要になる」
「つまり、宗教は“論理の穴埋め”ってこと?」
「ええ。合理的に考えるなら」
リチがすぐに口を挟む。
「でも、それだけじゃ寂しくない?
“信じる”って、説明を超えた願いだと思う」
「願い?」ユカ先輩が微笑む。先ほどの氷のような笑みとは違う、温かい陽光のような笑み。
「うん。人間が“説明できない”とき、絶望するんじゃなくて、
“それでも意味がある”って思おうとする力。私、それが信仰の正体だと思う」
「……いい言葉ね」ユカ先輩が言った。
だがその声には、少し棘があった。
「でもね、リチちゃん。その“願い”が戦争を起こすこともあるのよ。
神の名のもとに人が殺される。
それでも“意味がある”と思える?」
リチは息を詰めた。
俺は静かに手を組んで言う。
「――それは、“信仰”を持つ人間の問題です。神が悪いわけではない」
「じゃあ問うわ。“神が存在しない”なら?」
「それは………」
「その神は政府が作った虚像であり、国の士気を挙げるためのお人形でしかないとしましょう。教徒は幸せでしょうね。神に認められてる気になれるから。それでも、あなたは宗教を“美しいもの”と呼べる?」
ユカの声は静かだった。
それがかえって、場の空気を張りつめさせた。
「……俺は、美しいとは思えません」
カサネの声は穏やかだったが、確信に満ちていた。
「人が人を操るために“神”を持ち出すのは、欺瞞です。神を理由にすれば、どんな行為も正当化できてしまう」
「たとえば?」ユカが問い返す。
「戦争、殺人、差別――。
結局、“神”というのは、都合のいい免罪符に過ぎないのかもしれない。」
リチがカサネを見た。
その眼差しは、いつもより鋭い。
「でも、だからこそ“祈り”は尊いんじゃない? 誰かに利用されるくらい、誰かに必要とされてるってことだから」
「花空さん、それは……少し危ういですよ」
「危ういかもしれないけれど、真実じゃない?」
リチは一歩前に出る。
「人間って、弱い生き物だよ。
論理だけで生きられたら、宗教なんて生まれてない。
“弱い”ことを肯定するための形が、宗教なんじゃない?」
ユカ先輩はそれを聞いて、ゆっくりと頷いた。
「……なるほど。
“弱さの肯定”。いい視点だね」
「そう思いませんか?」リチが言う。
「思うわ。でも、同時に怖い」
「怖い?」
「“弱さを信じる人間”は、強くなれない。
ずっと“救われたい”って祈り続けて、
結局、誰にも救われない。――それが宗教の残酷さよ」
「まぁ、『信じていたものが嘘だって知らないまま死ぬ事』を、幸福と捉えるかはまた別の話だけれど」
ユカの声が、少し低く落ちた。
その響きに、リチが言葉を飲む。
沈黙の中で、俺は口を開く。
「……でも、それでも人は祈る」
「なぜ?」ユカ先輩が興味深そうに問う。
「それが“理屈にならない希望”だからです」
その言葉に、ユカは一瞬、表情を止めた。
笑みが薄れて、瞳が揺れる。
「あなたも、“信じる側”なの?」
「いえ」カサネは小さく首を振った。
「僕は信じません。
ただ、“信じたいと願う気持ち”を否定できないだけです」
ユカはしばらく彼を見つめ、そしてふっと笑った。
「なるほどね。……理知的で、優しい。危ないことだけれども、ね。」
トコ先輩がその横で、静かにペンを走らせながら呟いた。
「信仰とは、理性を越えてもなお、理性を求める行為――」
「詩的ですね」
ナツメ副部長が微笑んだ。
「ロジカル部のくせに」
皮肉のような笑いがナツメ副部長の顔に浮かんだ。
その笑いは、どこか不思議な緊張の中に漂っていた。
ユカ先輩が立ち上がり、紙コップを手にした。
「――やっぱり、いい部ね!ロジカル部!
こうして話してると、自分の心の底が覗けそうになるわ!」
先程までの張り詰めた空気が、静かに緩んでいくのを感じる。
「覗くの、怖くないですか?」
つい、俺はユカ先輩に聞きたくなってしまった。
「怖いけど……快感よ」
………うん。議論中ですでに分かっていたけれど、ヤバイ人だ。
ユカ先輩が妖艶に笑う。
その笑顔には、知性と危うさが同居していた。
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