理知的な私は恋を知らない?
朝の校舎は、まだ春の冷気をわずかに残していた。
昇降口のガラスに射す光が白くて、少し眩しい。
私、花空リチは靴を履き替えながら、ふっと息を吐いた。
――昨日、あの人と話した議論。
理屈じゃない、と笑った自分に、あの冷静な目がほんの少しだけ揺れた。
あれを思い出すたび、胸のどこかがくすぐったいような、むず痒いような感じがする。
話しててわかったのはあの人は優しい人ってことだ。
実はあのあとの夜に少しSNSで話してみた。ロジカル部のrainグループがあって、昨日加入してみたからなんとなく友達追加しておいたのだ。
彼から来た、ちょっと意外な一言。
『俺はよく周りに語句がキツイと言われることがあります』
『今回の議論で、俺が 怒っていると誤解させていたらごめんなさい。俺は理屈で説明できないものは嫌いですが、それを信じてる人を貶したいわけじゃないし、むしろその信じる形には興味があるので明日からもぜひロジカル部で議論し合いましょう。』
綾辻くん。あの感じでちょっと心配してくれてたのかな?なんて考えると、それこそギャップで心が躍る。
あれ?噂をすればってやつだね
「おはよう、綾辻くん」
反射的に声をかけていた。
彼は昇降口にて、整った姿勢で靴を履き替えていた。
朝の光を背にして立つその横顔が、妙に静かで――だからつい、ね。
「おはようございます」
その声がいつも通り淡々としているのに、どこか穏やかだった。
「昨日、ちゃんと寝れた?なんか顔色悪くない?」
「大丈夫ですよ。あなたこそ、遅くまで外にいたのでは?」
「ちょっとね。帰り道で考え事してた」
「考え事?」
「うん、“本当の自分”ってどこまでが自分なんだろうなって」
言いながら、自分でも少し笑ってしまった。
昨日の議論の余韻がまだ残っている。
この人と話すと、つい難しいことを考えたくなる。
「……結論は出ましたか」
「出ない。出たら面白くないじゃん」
いつもなら軽口で終わるやり取りなのに、綾辻くんは少しだけ目を細めた。
その表情に、ほんのわずかな“温度”を感じた気がして、胸の奥がくすぐったくなる。
「あなたは、矛盾を抱えたまま楽しめる人ですね」
「それ、褒めてる?」
「少なくとも、俺にはできない芸当です」
あぁ、やっぱりこの人はずるい。
誉めてるのか貶してるのかわからない言い方で、でも、ちゃんと認めてくれる。
“理解”とは少し違う、“受け止める”という感じ。
「そうかな」
そう言って笑うと、綾辻くんもほんの少しだけ口元を緩めた。
廊下を歩く足音が響く。
教室のドアを開けると、まだ半分ほどの席しか埋まっていない。
リチは自分の席に鞄を置き、振り返って言った。
「ねえ、今日もロジカル部行く?」
「もちろん。あなたは?」
「うん。昨日の議論、途中だった気がするし」
「途中?」
「“本当の自分”の話。あれってさ、突き詰めると“善悪”の話にもつながると思うんだよね」
「善悪、ですか」
「うん。“本当の自分”が正しいとは限らないでしょ?
人を傷つけることを“自分らしさ”だと思う人もいる。
じゃあ、どこまでが“許される自分”なのか――それを考えてみたい」
そう言いながら、リチは彼の反応をうかがっていた。
この人の目に映る“興味の灯”を見るのが、最近のちょっとした楽しみだ。
カサネは少しだけ目を細めたあと、静かに頷いた。
「……いいテーマですね。では、放課後にまた議論をしましょう」
「決まりだね」
笑うと、彼も小さく笑った。
昨日よりも、その表情がやわらかくなっている。
その瞬間、窓の外で桜の花びらが風に舞った。
――春って、こんなにあたたかかったっけ。
そう思いながら、リチは少し背筋を伸ばした。
季節が、ゆっくりと動き出す。
そして、自分の中の“何か”も、確かに動き始めていた。
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