【議論開始】[善悪について]
放課後。
ロジカル部の部室には、少し遅めの春の光が差し込んでいた。
窓の外の桜が、まだかすかに色を残している。
その中で、今日も丸いテーブルを囲む。
部長の琴乃シオリが手を叩いた。
「まさか新入部員がテーマをいきなり持ってくるなんて!最高だな!」
昨日の議論中の穏やかな声が嘘だったみたいにデカい声だ。
「今日のテーマは――『善と悪の定義について』!」
その一言で、空気が引き締まる。
成海トコがペンを持ち、静かにノートを開いた。
副部長の繋場ナツメは湯呑を手にしながら、いつもの落ち着いた表情。
そして新入生二人――綾辻カサネと花空リチが、向かい合って座っていた。
「じゃ、まず最初に意見を出してもらおうかな」
シオリが言うと、すぐにカサネが手を挙げた。
「“善悪”の定義とは、状況によって変化するものだと思います。
たとえば、戦争において人を殺す行為。
一般的には“悪”ですが、国家を守るという大義のもとでは“英雄”とされる。
つまり、善悪は立場による相対的な概念です」
ナツメが静かに頷いた。
「相対主義的観点ですね。
しかし、それでは“絶対的な悪”は存在しないことになります」
「そうですね。
だからこそ、私は“できるだけ誰も死なない”道を探すことが、
倫理の、善悪の根底にあるべきだと思います」
リチが指を組んで、机の上に肘を置いた。
「でもさ、それって綺麗事じゃない?」
声は穏やかだが、芯があった。
「たとえば、一人の犯罪者を殺さないと三人が死ぬ。
そのとき、“誰も死なない方法”を探してる間に三人が死んだら、
それは“善”なの? “無力な正義”じゃない?」
「無力ではありません。
ただ、“可能性を放棄しない選択”です」
「でも現実には、そんな時間ないことも多いよ。
理想だけじゃ救えない人もいる」
言葉がぶつかり、空気がわずかに張りつめる。
そこでシオリが口を挟んだ。
「じゃあさ、リチはどう思うんだ?
“人を殺すのは悪か?”」
リチは少しだけ考えてから言った。
「私は、“悪い”と思う。
でも同時に、“そうせざるを得ない人”を責めきれないとも思う。
たとえば、国を守る兵士。彼らは“命令”と“生存”の板挟みの中で動く。
それを完全な悪と決めつけるのは、簡単すぎる」
「それはつまり、あなたも状況次第では殺人を容認する立場ということですか?」
カサネの声がわずかに硬くなる。
「ううん。容認じゃない。
“悪を理解する努力”って言った方が近いかな。
悪を理解しようとすることは、善にも繋がると思うの」
そこにナツメがゆるやかに口を挟む。
「興味深い考えですね。
私の見解では、“悪”とは自己中心的な選択のことです。
善とは、“他者の幸福を想定した行動”のこと。
だから、戦争で人を殺すのは、“他者の幸福”を奪うという意味で悪です」
「でも」
成海トコが小さく呟いた。
ノートから顔を上げ、淡々と続ける。
「その“他者”が、敵国の人間が、すでに多くの人を殺していたら?
“自国民の幸福”を守るために戦うのは、やっぱり悪なのかな」
沈黙。
ナツメがわずかに目を細める。
「……その問いには、答えるのが怖いですね」
シオリが笑って手を打った。
「ほら、面白くなってきた!
じゃあ、“どこまでが善で、どこからが悪か”を明確にできる人、いるか?」
誰もすぐには答えない。
その沈黙の中、カサネが静かに息をついた。
「――結局、“正義”とは、選ばなかった道の罪を背負う覚悟だと思います」
全員が視線を向ける。
「僕は、誰も死なない道を探す。
けれど、もし選択の瞬間に誰かを救えなかったなら、
その責任を受け入れる覚悟も持ちたい。
それが“善”であるかどうかは、後から決まることです」
部室の空気が静まった。
言葉の熱だけが残る。
リチが口を開く。
「……優しいんだね」
「優しい?」
「うん。そんなの、理屈じゃなくて“祈り”に近いよ」
リチの瞳が少しだけ柔らかくなる。
「理屈の外側を、あなたも少し信じようとしてるんじゃない?」
カサネは答えなかった。
ただ、その言葉を胸のどこかで反芻した。
理屈の外にあるもの――
それが、彼女の言葉と同じ場所から聞こえたような気がした。
部室が静かになる。それぞれが自分の考えを、周りの考えを頭で整理している時間。
「よし!いい具合に話ができたな!」
シオリの軽快な声が部室に広がる。
「私たちがやっているのは正解を見つけることじゃない。考えることに最大の価値があるんだ。無知の知を念頭置いて考え、話し合うことが大事だ。」
「どうだ?行き詰まったならテーマを変えてみたり、それとももっとこの話題で話したいか?」
カサネは、シオリ先輩の議題長としての振る舞いに、昨日の時点でなかなか憧れを抱いている。
皆の顔に光が灯り直した時だった。
「では、ひとつ。私から提案してもよろしいですか」
お淑やかな仕草で湯呑を置き、姿勢を正す。
「“殺人未遂者は死刑にすべきかどうか”。
次のテーマとしては、いかがでしょう」
空気が少し動いた。
リチがわずかに眉を上げ、シオリが「おお、いきなり重いな」と笑った。「だが面白い。先ほどまでは殺人が罪になるかの議論。今回は殺人未遂が重い罪になるかの議論ってことか。」
しかしナツメの表情は静かだ。まるでお茶会の話題でも出したような落ち着き。
「私は、“死刑にすべき”派です」
その言葉に、一瞬の沈黙。
カサネが慎重に口を開いた。
「……失礼ですが、その理由を伺っても?」
「はい」
ナツメは穏やかに頷いた。
「未遂というのは、**“たまたま成功しなかった殺人”**です。
つまり、意志としては“人を殺そうとした”段階で完成している。
行為が未遂であろうと、心の構造は殺人者と同じ。
ならば、法の下で区別する理由はないと考えます」
「……でも」
リチがゆっくり反論する。
「人って、感情で動くものじゃない?
瞬間的な怒りとか、衝動とか。
“その一瞬”で全人生を断罪するのは、やりすぎじゃない?」
ナツメは静かに微笑んだ。
「花空さん。
“衝動で人を殺そうとする人間”を、その一瞬で誰かの全人生を断ち切ろうとした人間を、あなたはこの社会の中に置いておけますか?」
「……それは、」
「私は、置けません。“後悔したから許される”という構造そのものが、社会の倫理を甘くする。
悪意を持って刃物を握った時点で、人間としての境界を越えているのです」
部室の空気が少し重くなる。
カサネはノートに指を置いたまま、ゆっくり息を吐いた。
「しかし、副部長。もし“境界を越えた瞬間”で裁くなら、人は誰も無垢ではいられません」
「……と申しますと?」
「怒りや憎しみを抱いたことのない人間など、いないでしょう。
殺意というのは、極端な形になって初めて“罪”と呼ばれる。
内心で一瞬でも“殺してやりたい”と思った時点で罪になるなら、
社会の全員が死刑になります」
ナツメは微笑を絶やさず、ゆっくり首を振った。
「いいえ。違います。
“思う”ことと“実行する”ことのあいだには、倫理的な壁があります。
その壁を壊した時点で、もう戻れない。
だから私は、その瞬間に線を引きたいのです」
成海トコが、初めて顔を上げた。
「……でも、未遂って、結局“止まった”人たちでしょ。
壊れたけど、まだギリギリで踏みとどまった。
そこに救いを見ない社会って、息苦しくないですか」
シオリが腕を組んで唸った。
「たしかにな。
ナツメ、お前の言うことは筋通ってるけど……
“罰”で社会を守るって発想自体が、もう人間不信なんじゃないか?」
ナツメは、ほんの少しだけ目を細めた。
「そうかもしれません。
けれど、“信じる”という言葉の前提には、“裏切られない”という保証が必要です。
私は、保証のない希望を、正義と呼びたくはありません」
静寂。
その言葉の冷たさと正確さに、誰もすぐには言葉を返せなかった。
まるで淡い笑顔の奥に、氷の刃が見えるようだった。
沈黙を破ったのは、リチだった。
「……ねえ、ナツメ先輩」
「はい?」
「あなたって、“人間を信じたい”人なんじゃないですか?」
ナツメの手が一瞬止まる。
「だって、完全に信じてなかったら、そんなに線なんて引かない。
“信じたいけど、怖い”人の理屈だと思う」
ナツメはゆっくりと視線を落とし、微笑んだ。
「……怖い、ですか」
「うん。でも、正直でいいと思います」
そのとき、カサネは気づいた。
ナツメの思想は、恐ろしく冷静で、それでいて人間を恐れる優しさの裏返しだった。
その時ナツメの言葉が、カサネの耳の奥に残っていた。
――保証のない希望を、正義と呼びたくはありません。
その冷たい響きが、なぜか美しく思えた。
まるで、氷のように透き通った理性だった。
カサネは強く悩んでいた。彼のトラウマが、この議題によって少しずつ想起させられるような、そんな気がしていた。
部室に、沈黙が落ちた。
ナツメの言葉が残響のように空気を支配している。
誰もが何かを考えている顔をしていた。
そのとき——成海トコが、ペンの先を止めた。
「……性悪説、ってさ」
小さな声だった。けれど、誰もが自然と耳を向けた。
「罰とか、法律とか、そういう制度そのものが、
“人間は根本的に悪い”っていう前提で作られてる気がする。
もし本当にみんなが善人なら、最初からルールなんていらない。
つまり、“社会”っていうのは、人間が“自分たちを信じきれなかった”証明なんじゃないかな」
その言葉に、シオリが一拍置いて笑った。
「トコ、ズバッと時々出す意見が素晴らしいな!」
嬉しそうに背中を叩くが、トコは小さく肩をすくめるだけだった。
だが、部室の空気はもう一段、深みに入っていた。
カサネが静かに応じる。
「たしかに……“罰”という仕組みは、
人間が完全に善ではいられないことを、最初から織り込んでますね」
ナツメが目を細めた。
「性悪説的前提を、社会が共有しているということですか」
「ええ。でも、それは同時に、“信じたいけれど信じられない”という矛盾の証拠でもある。
つまり、社会は“絶望の上に成り立つ希望”なんです」
「……詩的ですね。ロジカル部ですけど。」
ナツメが微かに微笑む。
「ですが、それならなおさら、罰は必要でしょう。
“性悪説の自覚”があってこそ、人は自制できる」
リチが口を挟む。
「でも、それってつまり、“恐怖で秩序を作る”ってことでしょ?
それは“信頼による秩序”とは違う」
「秩序を守るのに“信頼”が必要だと?」
ナツメが問う。
「うん。
“信頼”は形にならないけど、
“恐怖”で作る秩序よりずっと長く続くと思う。
恐怖で守られた正義は、誰かが怖がらなくなった瞬間に崩れるから」
カサネが静かに頷いた。
「……花空さんの言う通りです。
“罰”は短期的な抑止にしかならない。
でも、信頼には“回復”の力がある。
たとえ壊れても、もう一度築ける」
「甘いですよ」
ナツメの声は、まるで凛とした刃のように響く。
「信頼を一度でも裏切った者が、“もう一度築ける”などと。
それは、倫理ではなく感傷です」
「感傷でも、いいじゃないですか」
リチが即座に返す。
「理屈でしか救えない世界なんて、きっと窮屈すぎる。
“人間が信じられない”から法律があるんだとしたら、
“それでも信じたい”って気持ちは、
きっと理屈よりも大事な善だと思う」
ナツメの視線が、リチに向かう。
冷静で、けれどどこか遠い。
カサネは二人の間の空気を見ていた。
理屈と祈り。どちらも正しい。
でも、どちらも孤独だった。
シオリがその張りつめた空気を見て、笑った。
「いやー、やっぱり面白いな。
“性悪説”から“信頼”までいくとは、今日の部は哲学部顔負けだぞ!」
だがトコが小さく呟いた。
「……怖いのは、“どっちも正しい”ってことだよ」
全員の視線が彼女に集まる。
「性悪説も、性善説も、どっちも“人間を信じる”形なんだよね。
“悪を前提に罰を作る”のも、“善を信じて赦す”のも、
結局どっちも、“人間を理解しようとしてる”」
その言葉に、ナツメの表情がほんのわずかに揺れた。
カサネも、リチも、黙って頷く。
――信じたいけど、信じきれない。
それでも、信じようとする。
その矛盾こそが、人間の「理性」の証なのかもしれなかった。
外では、日が沈み、窓ガラスに橙の残光が映っていた。
シオリが立ち上がり、手を叩いた。
「よーし! 今日も濃かったな! 次回のテーマは――“正義と赦し”とかどうだ?」
部室の中に、少しだけ柔らかな空気が戻る。
だが、誰もがまだ思考の中にいた。
ナツメは湯呑を見つめ、
カサネはペンの先で机を軽く叩きながら、
リチは窓の外に目をやっていた。
誰も言葉にしなかったけれど、
その日の議論は、新入部員が入ったロジカル部に初めて“火”を灯した瞬間だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます