二 彼らの世界で葉は何色にも染まる

 抜けるような色をした青空が、木々の上に広がっている。

 空気は澄み、葉と土の薫りはすこやかだ。枝にとまる鳥の声と、静かな渓流のせせらぎに耳を傾ける。


 腕に抱いたタヌキはふわふわであたたかく、かすかに獣臭い寝息を立てて眠っていた。


「思ったより傾斜きつないし、天気はいいし、歩いてたら汗ばんでくるくらいや。はじめは嫌やったけど来てよかったぁ。登山最高~、その二文字で胸がときめく~。ねっ、八雲せん──」


 満面の笑みで振り返ると、幻想文学作家はいつもの無表情に青ざめた顔色をして、短い息を漏らしている。コウが貸してくれた木刀を杖のかわりにして歩いているような状態だった。


「うわ、死にそう!! 自分が行くって言いだしたくせに、真っ先にへばらんといてもらえます!?」


 頂上まで二時間弱と聞いていたが、八雲を連れていては倍近くかかりそうである。


「──虚弱というわけではないのですが、体力には自信がありません」

「部屋に引きこもっとるからでしょ! あと、飯もちゃんと食べてくださいよ~。不健康小説家やなぁ……」


 高尾山そのものは、決して前人未踏の地ではない。

 中腹には千年の歴史を持つ寺院が建ち、天狗伝説や山伏の修行地として名高い霊山である。

 寺院周辺であれば道も多少整備されているが、タカオ邸は山を回り込んで人里と離れた場所にあるのだ。その裏庭からまっすぐ登ってきたのだから、ほとんど獣道といった有様だった。


 散歩という名目のはずなのに、アンナ・カレヱニナは道中一度も目を覚ましていない。八雲は体力が限界なので、しかたなく虎丸が抱いて歩いていた。


「タヌキの生態はよう知りませんけど、アンナは猫みたいにずうっと寝てますよねぇ。うりゃ、おまえの散歩に来てんのやぞ~」


 気の抜けた寝顔を晒しているタヌキの頬を指でぐいぐい押すと、気持ちよさそうに腕の中で寝返りをうった。


「彼女は途方もないほど長い年月を生きていますので。起きていると次々に記憶が蓄積していき、処理しきれないのですよ」

「タヌキってそんな寿命長いんかー。そういや、八雲さんっていくつなんです?」

「二十四ですが」

「うーん、とくに驚きがなくて、逆になんとも返しづらい……。思ったより年上やなぁくらいで、ツッコミどころなしですわぁ」

「個人情報にまで種は仕込めません」


 まともな山道でなくとも、続いているならまだいい。途中、道が途切れて沢に入らなければ進めなくなった。


「浅いから石の上を渡って行けると思いますけど、濡れたら冷えるんで踏み外さんといてくださいよ~。ここ越えたらちょっと休憩しましょか」


 年は上でも生きる能力となると八雲は頼りないので、つい面倒見がよくなる虎丸である。

 沢をどうにか渡り、ぬかるみのない場所で一息つくことにした。


 アンナを降ろし、木の幹に背を預けて腕を伸ばす。

 八雲を見ると、地面の上だというのにきちんと正座していた。袂から刻み煙草と煙管キセルを取り出して火をつけ、音もなく吸って細い煙を吐いている。


 もう十一月も下旬だ。世間ではそろそろ紅葉が終わる時期だが、高尾山は今が最盛で柔らかい赤と黄の色が景色を覆っていた。


 青年作家の背後に並び立った、血色に染まったイロハモミジの葉がはらはらと落ちる。

 舞う紅葉の下で女物の煙管キセルを傾ける男は、なんとまぁ絵になるものだろうと虎丸は同性ながら惚れ惚れと眺めた。


「山で吸う煙草は、美味いですからね」


 虎丸の視線に気づくと、そう言って横顔でふっと笑った。


「大人っぽくてかっこええ……。オレも丁年ハタチなったら吸おかな。どうせなら舶来品のパイプがええなぁ。口髭も生やそ。ダンデェ……」

「髭は似合わないと思いますよ」

「うっ」


 冷えた竹筒の水を、温めながら少しずつ飲み下す。もう頂上は近いが念のため沢に戻り、綺麗な水で満たした。


「木刀の汚れも帰るまでに落としとかな、杖がわりにしたってバレたら怒られそうや……」


 紅に借りた木刀は使われた形跡のない新品だ。その分、泥の汚れがひどく目立つ。

 汚したのは八雲だが、虎丸が借りたものである。怒られるのは嫌なので、文字を『形容化』する力でどうにかならないものかと尋ねてみた。


「前に『鋼』やら『皮』で刀を作ったじゃないですか。あんな感じで『木』って書いたら木刀出てきませんかねぇ。あ、その次んときは『村正』でしたけど、書く文字は原料でも完成品でもどっちでもいいもんなんです?」

「言葉として意味を成せばどちらでも。細部まで指定するか大筋か、描写の細やかさが違うだけです」

「ふうん。ようわからへんけど、八雲さんたちの使う不思議な文字なら何だってできそうですよね」


 虎丸にそう言われ、八雲は黙って懐からインクとペンを出した。

 虚空にいくつもの『紫』の字を書き、息を吹きかけて煙草の白い煙といっしょに散らす。

 八雲の後ろにある木と、周りを舞っていた紅い葉が、一斉に淡い紫色へと染まった。


「うお、紫になった!!」


 藤の花に似た色の葉は不自然で、だが、神秘的だ。

 まるで極楽浄土にでも迷いこんだかのような、この世のものざる美しい景色──


 なのだが、虎丸の頭にはついつい即物的な感想が浮かぶ。


「この木の枝を持ち帰って、挿し木にして増やして売ったら、儲かるんじゃ……」

「残念ながら、緑と赤の葉しかつかないでしょうね。この色もいずれ消えます」

「えーそうなんか。文字は消えてしまうもんやから、かなぁ。ほんなら木刀もすぐ消えてダメですね」

「と、いうよりも──」


 とん、と灰を地面に落とす。


「作家にとって、小説は自由な世界です。紫の葉が降ったと書けば、紫の葉は降ります。ただし、あくまで虚構は虚構なのです。私たちの力も同じです。小説家は、虚構を魅せているのですから」

「んーと……手品ってこと?」

「似たようなものかもしれませんね。しかし、根本が虚構だとしても──小説によって生じる人の感情は本物です。発露した感情はあなたを脅かし、傷つけることができる。どうか、それを忘れないでください」

「はーい……?」



 ***



 登山を再開して、およそ一時間。

 二人はようやく頂上に到着した。


「おお、絶景やなー!? 青い空、連なる山々! オレの好きな幻想文学作家の伊志川化鳥いしかわかちょうも山が出てくる短編をいくつも書いてましたけど、人を惹きつけるもんがあるんですねぇ。お弁当食べたいわぁ」

「弁当はありませんが、出がけに使用人が水と一緒にこれを持たせてくれました」


 差し出された箱には見覚えがあった。

 ほんの子供の頃に父親に買ってもらったことがある。独り立ちしてからは、弱小出版社の少ない給料で高級菓子に手を出す機会はなかった。


「風月堂の貯古齢糖チョコレエト! こんなええもん隠してはったんですかぁ。使用人さん、八雲せんせより気ィ利きますねぇ」

「彼らに人格はありませんが、操觚者そうこしゃの思考パタァンを多少受け継ぎますので、操っている者の気が私より回るのです」

「おっ、皮肉っぽい。めずらしい反応や」


 今のところ、ごく普通のハイキングである。

 紅のやたらと嬉しそうな様子からまた怪奇現象が起こるのではと疑っていたが、執筆の合間に気分転換でもしたかったのだろうか。

 と、虎丸は期待するが、もちろんそうもいかなかった。


 見晴らしのいい頂上部を越えて反対側に少し下り、背の高いカゴノキが群生した林の奥へと入っていく。


「石……?」


 八雲が身をかがめて膝をついた場所には、古い石があった。

 苔生こけむして相当な年月が経っていそうだが、何の変哲もない石である。虎丸は八雲の背中を眺め、首をかしげた。


 長年の雨で滑らかに削れた石の前で、青年作家は冊子を開いた。

 『新世界』と書かれた第一巻。まだ他の部員がおらず、作家が八雲だけだった初期のものである。

 開いたページから文字が溢れでて、名前が宙に浮かぶ。


 八雲は前を向いたまま、虎丸に話しはじめた。


「私たち『操觚者そうこしゃ』は、共通して書くことができる文字の力の他に、それぞれ固有の能力を持っています」

「その人だけ使える特別な技みたいな?」

「はい。例えば紅であれば『他人の形容化した文字の強制解除』、花魁の朝雲を消滅させた炎の力ですね。そして私の場合は『物語に書き起こした物の怪を使い魔として使役』することができます」

「物の怪って、まさか……」


 虎丸は自分の腕の中で眠るチョコレート色の獣を、恐る恐る見下ろした。


「通称、高尾姫たかおのひめ。平安の時代に生まれた貴族の姫君です。高尾山周辺の歴史にも伝承にも、彼女の名は残っていません。ちょうど四年ほど前になるでしょうか、私が同人雑誌『新世界』で最初に書いたのは、彼女の物語でした」


 アンナ・カレヱニナを虎丸から受けとって胸に強く抱き、八雲は囁いた。

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