第四幕 予見の姫君

一 その山、霊山につき

「本日は高尾山に登ります」

「へっ?」


 タヌキのアンナ・カレヱニナを胸に抱え、めずらしく朝食の席に現れた幻想文学作家・八来町八雲やらいちょうやくもは、前置きもなく告げた。


 そのとき食堂にいたのは大阪から来た新人編集者・本郷ほんごう虎丸とらまる。そしてタカオ邸に住む作家のひとり・千代田ちよだコウ。無言で行き来する人格を持たない使用人たち。紅の弟であるメイドの茜はすでに学校に行っていた。



 ──何を言い出すねん、この人は。藪から棒に。



 虎丸がタカオ邸にやってきてから、はや一週間が過ぎていた。最初の数日こそいろいろな出来事があったが、今は怪奇現象と無関係の比較的穏やかな洋館生活を送っていたところだ。


 もちろん休暇中というわけではないので、大阪の会社から電報や電話で仕事の指示は飛んでくる。まだまだ新人の虎丸に命じられるのは、東京府内の出版社や作家宅を回る雑務である。


 朝一番の乗合バスで八王子駅まで行き、郵便局で手紙と電報を受け取る。公衆電話じどうでんわで詳細を確認する。鉄道を使って市内を移動し、用件を済ませる。

 そして午後のバスでタカオ邸に戻り、夕方から夜は手紙を書いたり文書を作成したりと、それなりに忙しく充実した日々を過ごしていたのだ。

 受け持ちの仕事が一段落したので今日は八雲に約束の原稿をせっつこう、などと考えていた矢先だった。


「高尾山て、裏の山ですよね? 登山ってことですか?」

「はい」

「それはそれは、大変ですねぇ。東京の山っていうても、そこそこ険しいって話やないですか。八雲せんせは見るからにひ弱なんやし、遭難せんようにしてくださいよ~。あっ、最近神隠し事件が起こってるって新聞で読みましたわ。消えるのは政治家とか偉い人って話ですけど、気をつけるに越したことないですからねぇ~」

「何を他人事のように言っているのですか。あなたも一緒ですよ」


 予感はしていたが、どうにかして避けるために深く追求しないふりをしていたというのに。残念ながら流すことは失敗したようだ。

 であれば断固拒否するしかないと、虎丸は抗議を始めた。


「嫌ですよぉ! 剣術の稽古で体動かすんは好きですけどね、持久走とか登山とか、じんわりしんどいのは専門外です!」

「おかしいですね。脳みそが筋肉の御仁は登山と聞けば喜ぶと教わりました」

「脳みそが筋肉の御仁て、丁寧かと思えば失礼か! だいたいオレ、インテリ青年やのに〜。もぉ、どこでそんなデマ仕入れたんですか」

「学生時代、山岳部の方々が言っていたのです。登山という二文字のみで心が躍ると」

「そら山岳部ですからね! てか、八雲せんせに学生時代があるんですか!? ぜんっぜん想像できへんなぁ……」


 うーん、と虎丸は顎に手を添える。

 大阪を発つとき編集長に正体不明と聞かされていたせいで、謎に包まれた人物という印象は強い。

 人目を避けながら小説を書いて暮らす隠者や、または世捨て人のような作家を思い描いていたのだ。


 なんとなく自分や紅よりは年上だろうとは予想しているが、年齢もよくわからない。ずっと今の姿のまま生きていそうである。

 八雲のまとう雰囲気や身の回りに起こる怪奇現象を思えば、隠者の印象はあながち間違いではない気もする。


 このタカオ邸自体、童話かそれこそ幻想文学にでも登場しそうな建物だ。

 人里から離れた山の麓。人ではない使用人が働き、謎の無名作家たちが暮らす洋館。持ち主は目的のわからない大金持ち。並べ立てるだけでも現実感に欠けた場所である。


「同人雑誌『新世界』は、東京帝国大学の文芸部──いわゆる文学同好会ですが、元々は私がそこで作った小冊子なのです」

「へぇ~! 信じられんことに、まともな経緯で生まれたんやなぁ……。大学の文芸部かぁ。あ、それで新世界派は作家仲間を部長、部員って呼び方してるんですね」

「はい。名残というやつです。紅のように大学と無関係の部員もおりますが」

「ふうん、まぁ、そうかぁ」


 帝国大学には男子しか入学できないので当然なのだが、虎丸は曖昧に返事をする。


 茜に話を聞いて、性別不詳だった紅がはっきり女子だと判明したので、つい意識してしまうのだ。

 男だとか女だとかこだわる必要はないと殊勝なことを言った手前、あまり騒ぎ立てるわけにはいかない。だが、それはそれとして同世代の異性であれば気になる年頃である。

 気持ちに嘘はなくても、八雲のように興味がないとは言い切れそうもない。


「あかん、あかん。あんまり考えんとこ」

「はい?」

「いや、こっちの話です。ていうか帝大出身って。八雲先生、さらっとエリィトやないですか!」

「中途退学ですよ」

「え、なんかやらかしたんです?」

「やらかしました」

「……真顔で肯定されると怖くて聞かれへーん」


 また少しタカオ邸の彼らについて知れたのは、虎丸にとって嬉しいことだ。


 しかし、である。

 話を戻すと、とにかく今日はどうしても登山らしい。


 八雲の言うことなのでわかりにくい冗談の可能性もあるかと思ったが、どうやら本気のようで使用人に水と防寒具を頼んでいた。


「えーと、なんでいきなり登山なんです?」

「アンナ・カレヱニナの散歩ですよ。恒例行事なので」

「いやいやいや。タヌキが運動不足なんはデブやし見たらわかりますけど~、庭に転がしとくんじゃダメなんですか」

「ダメです。虎丸君、あなたは私の担当編集なのでしょう? 編集は影のように作家に付き添い、原稿があがるまで根性と忍耐と気合いで待つとかなんとか、言っていませんでしたか」

「うっ」


 痛い部分をつかれてしまった。



 ──登山がはたして編集者の仕事に入るんか、相当怪しい線やけど……。宣言したからには、二言があっては信頼関係に響いてしまう。それはあかん。



 という虎丸の思考回路は八雲にバレバレである。

 鉄が冷えないうちにとばかりに「では、早速出発しましょうか」と押し進められ、かくして登山が確定した。


「うう、まだぎりぎり秋とはいえ、寒そうやなぁ。紅ちゃんは行かへんの?」


 朝から食欲旺盛な紅は、八雲と虎丸が話している間ずっとオムレツやらスープやらを口に運び続けていた。


「ぜってーやだよ。手足冷えるし、むくむじゃん。山は蛇いるから嫌いなんだよ。あと、今日は追っかけ活動で忙しーの。宝塚少女歌劇養成会の記事が載ってる雑誌の発売日だから。あーあ、東京にも公演来ねーかなぁ」


 意外と女の子らしい理由だ。そして、ミーハーである。


「二時間ありゃ頂上には着くけど、迷子になるなよな。探しに行くのめんどくせーから。アンナがタカオ邸までの帰り道をちゃんと覚えてるから、まっ大丈夫だよ」

「アンナのほうかー……」


 つまり、八雲は頼りにならないのだ。

 むしろ不安が増す情報だが──もはや拒否できないと知っている虎丸は、飼い主の代わりに人間用の椅子に座っている太ったタヌキの額を撫でた。



 ***



 紅は珈琲を飲み終わると、ナフキンで口の周りのケチャップを拭きながら言った。


「ごちそーさま! んじゃ、おれは本屋行こっと。そういや八雲部長、こないだあいちゃん迎えに行ったんだっけ?」

「ええ、田町遊郭で一悶着があった日ですね。まぁ、相変わらずです。他の部員にも七高しちたかの件を知らせたいのですが、なにぶん所在不明で」

「学生組なら大学で捕まんじゃね? ちゃんと講義出てればだけど。おれ、日本橋の丸善に行くからついでに帝大も寄ってくるよ。ぶちょ、なんか買うもんある?」

「では、新刊の洋書を何冊か頼みます。紙に一覧を書きますので待ってください」


 ぴくぴく、と虎丸の耳が反応した。

 八雲が遊郭で会った人物といえば、間違いなくあの『白梅の君』である。


「アイさん……。名前がすでに色っぽい……」

 

 顔も知らぬ遊女を想像して、虎丸は一人で頷いている。

 その様子を、八雲と紅が冷めた表情で眺めていた。


「虎丸君は、ただの女好きでしょうかね。惚れっぽいですし」

「そう呼べるほど女に慣れちゃいねーよ。ただのむっつりだろ。ほっとこうぜ」

「名前だけであらぬ期待をしているようで、何も知らないとは哀れなことです」


 散々な言われようだが、夢想中の彼に声は届いていない。


「さぁ、アンナ・カレヱニナ。いつもの散歩に行きますよ」

「アンナ歩いてへんやん! 散歩なんやから、抱っこしてたらダメでしょう!? 甘やかすからデブなんです!」


 準備が終わって紅とともに三人で玄関を出る。八雲はいつものようにタヌキを胸に抱いていた。


「虎丸、木刀貸しといてやるよ。八雲部長は武器関係弱いしな。おれは二度とごめんだから、オマエが付き添ってくれるなら助かるぜ。なにしろ担当編集だもんな! んじゃ、健闘を祈る!」


 そう言って紅は笑顔で駅のほうへ去っていった。

 満面の笑みは、追っかけ活動がよほど楽しみなのだろうか。できればそうであってほしいものである。


「ぜったい、ただの散歩ちゃうやつや、これ……」


 一方的に渡された木刀を腰にぶら下げ、借りものの襟巻をした姿で、虎丸は呆然とつぶやいた。

 諦めに近い表情を浮かべ、先に歩き出した八雲の後ろをついていくのだった。

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