三 姫君は自らの死を予見した
「今日は太陰暦で数えたアンナ・カレヱニナの命日です。十日夜から三日経過した頃を目安に年一度、私は彼女の無念を鎮めるため高尾山に登っているのです」
八雲が懐から出した同人雑誌『新世界』の第一巻を開くと、爽やかな風が吹いていた山上の風景は突如暗転し、どんよりとした雲が空に立ち込めた。
「はい、どうぞ。一から作るよりも、付け足したほうがまだ上手くいく気がします」
と、杖がわりにしていた木刀を差し出される。渡されたのでつい受け取ってしまったが、つまりこれから使うということだ。
「へいへい、怪奇現象が起こって闘うっちゅうことですね」
「聞き分けがよろしいことで。半ば騙して連れてきたのでごねるかと思いました」
「騙しかたが雑すぎてとっくに諦めてました~。せめて強い文字書いてくださいよ! オレも炎とか派手なんがええなぁ」
「このミッションには、毎回決まった言葉を使います。どれ──」
虎丸が掲げた木刀に、八雲が文字を書く。
文字は切っ先のあたりに浮いているが、木刀そのものに特別な変化はない。
「うーん……地味やな。見た目が」
「人の命には限りがあり、誰しもいずれは必ず死ぬという意味の言葉です。無限のものに、有限を与えるのですよ。なにしろあなたがこれから闘う相手は、死霊の類ですから」
「げっ」
死霊とは──つまり、お化け。
女郎蜘蛛のように誰かが書き起こした怪物であれば、現実離れしすぎていて所詮は創作と言い聞かせることもできる。『番町皿屋敷』ではあるまいし、死んだ人間のお化けなど嫌なものである。
気がつけば盛大に色づいていたはずの木々は枯れていた。
というよりも、燃え尽きたような跡がある。植物はすべて真っ黒な炭と化して、広い範囲が見渡せるようになった。
視界に入る情景はあまりに陰鬱だ。草さえ残っていない荒れた地面、血の混じる沢、空は灰色に澱み、赤黒い瘴気をまとった風が絶えず流れる。
地獄、奈落、黄泉國、思いつく名称はいくつもあるが、つまりはこの世の終わりを迎えたかのような景色であった。
古めかしい鎧を着た武士がぽつりぽつりと沸いて出てきて、やがて結構な人数にまで増えた。
「……情景描写ですよね? こないだの花魁道中みたいな、触れへんやつ」
「いいえ。風景はそうですが、彼らは感情の端切れ──アンナ・カレヱニナの記憶が作り出した死霊です。世間で霊と呼ばれるのは、なにも死んだ本人の遺恨とは限らない。誰かの強い感情が、他人に視認できる形で出現したものなのです」
「あとからあとから、めちゃくちゃ出てきてますけど!」
武士の霊は広範囲に渡って、次々と姿を現している。眼孔に黒い穴の開いた彼らは何かを探してふらふらとさまよっているが、その動きは妙に規則的で各自に意思や自主性は感じられない。
「この国で最初に武士と呼ばれた人々の死霊、彼らをすべて倒してほしいのです。数はアンナが認識できる百体ほどで上限となります。彼女の恐怖の感情から産まれているので、根源を絶たない限りいくらでも出てきますが、先ほど書いた言葉の効果で今この場にいる死霊は消滅させることができます。いつも紅に頼んでいましたが、蛇が出るのであまり乗り気ではなくて」
「そら、そうでしょうねぇ……」
紅の笑顔はこれか、と虎丸はようやく理解した。
やること自体は百人組手だが、景色が怪談めいていて凄惨すぎる。あれは虎丸と交代できた嬉しさ、もしくはホラー嫌いの虎丸に対するからかい半分の笑顔だったのだ。
「謝礼として
「助かるのは八雲さんの懐かい! オレにも特別手当くださいよぉ」
「先ほどのチョコレイトでは」
「もう腹におさまったんで無効です! オレ、べつに甘党ちゃうし。ふふん、いくらふっかけようかなぁ~」
本気で金銭を要求しようと思っているわけではないが、たまには困らせてやろうとニヤニヤしていると──おどろおどろしい悲鳴とともに、死霊たちがこちらへと向かってきた。
「さて、商談の途中ですが、襲いかかってきました。まだ話がまとまっていないので闘わなくても構いませんがね、どうしますか」
「闘わな死ぬわ!! ずるい!! 悪代官!!」
文字の付与された木刀を横から武士の頭部に叩きつけると、敵は砂糖菓子が水に溶けるようにすうっと崩れながら消えた。
一体ずつであれば決して強くない。八雲が書いた言葉の効果か、一度斬ればそれっきり消滅する。
が、しかし。
「多すぎやろ!! まだ十もいってへん!」
とにかく数が多いので、どんどん囲まれてしまう。動きは鈍いが少しずつ虎丸と八雲の周りに密集していた。
ひたすら木刀を振り回し、斬り捨てていくしかない。
もしこの死霊たちが生きた武士と同じ知能や速さを持っていたとしたら、と想像するとぞっとする。いくら稽古で鍛えようとも、本物の戦で培われた剣術には太刀打ちできなさそうだ。
先ほど八雲が言ったとおり、武士の死霊だけではなく、おぞましい異形の蛇や虫がうようよとそこら中の地面を這っていた。
「ちょっと八雲さん、これ、実在した風景なんですか!? 完っ全に『古事記』とかに出てくる
「彼女には、このように見えていたのでしょう。ここはアンナ・カレヱニナが死を迎える間際、最期に見た世界──当時まだ五つにも満たなかったのですから。怖かったのでしょうね」
ああ、だからか、と虎丸は思った。
子供の目から見た武士は、何をしようとしているのかわからない、ひたすら恐ろしいだけの存在だったに違いない。恐怖の記憶が、襲いかかってくるだけで意思を持たない不気味な死霊を作り出したのだ。
可哀想やな、どうしてこんな目に合うたんやろか。と、胸を痛めていたときだった。
いつの間に、そこにいたのだろう。
必死で闘っている虎丸の眼の端に映った、鮮やかな衣装。
薄暗いモノクロームの景色にぽつんと咲いた花のようだった。
──女の子?
それも、まだ少女とも呼べない年齢の幼子だ。
色をいくつも重ねたきらびやかな
石の上に立っていてもまだ小さい。きょとんとした顔で虎丸と八雲を見上げている。
「
八雲の言葉を理解しているのか、していないのか。表情を変えないまま言われたとおりに傍までやってきて、青年作家をじっと見つめていた。
「今は昔。高尾の土地に、予見の力を持つ姫が生まれました」
姫君を抱き上げ、八雲は戦闘中の虎丸に向かって語りはじめた。
──高尾姫は関東に派遣された武家貴族の一人娘で、生まれつき占術の才がありました。その力のせいで崇め奉られ、この霊山に作られた小さなお社に幽閉されて短い一生を過ごすことになります。物心ついたときにはすでに誰とも会えず、誰とも話せず、彼女が触れることのできるものは、壁の外から差し入れられる食事と、占術用の天地盤だけの生活。
毎日、毎日、意味の理解できない他人の吉凶を占い続けたのです。
やがて彼女は平氏の合戦に巻き込まれて命を落とします。強力な占術を脅威に感じた者がいたのでしょう。百人の武士を引き連れた敵の将は高尾山に登り、社から彼女を引きずりだして斬り刻んだのです。無残な姿となった高尾姫は山に捨て置かれ、飢えた子ダヌキに食われてしまいました。ちょうどこの石のあった場所で。
予見の力を持つ彼女は、死ぬ前から自分の未来を知っていた。しかし、逃げようとはしませんでした。逃げる選択を考えつきもしなかったからです。
自らの死を予見した時、彼女は思いました。大人の言葉に直していますが、おおよそこのような感じです。
『お腹が空くと壁の外に人の気配がするから、ご飯は嬉しい。最期に飢えた者の腹を満たすことができてよかった』と。
彼女は死ぬまで何も知らなかった。
人の温もりも、自らの占術が示す意味も、外の美しい景色も、どうして暗い部屋に閉じ込められているのかも、そしてある日殺されてしまった理由も。山の麓では十日夜に行われた収穫祭の余韻がまだ残っていましたが、自分が吉凶を占っている祭りさえも、その瞳で見ることはなかった。
彼女の感情は獣に宿り、やがて肉体を動かし始めます。
タヌキは頭のいい獣ですから、その記憶と知識を通して、彼女は初めて真実を知る。死んだあとにようやく得た感情は、生きている間は感じることのできなかった、人間への激しい『憎悪』でした。
それから千年の間、彼女は憎しみのままに人を襲う物の怪として現代まで存在していたのです。
「これで四十九、ごじゅう。……助けられるんですか。この子」
半分の死霊を葬った虎丸のこめかみからは汗が流れていた。
「私がアンナ・カレヱニナと出会ったとき、それはもう立派な化けダヌキとして大活躍していました。彼女を助けるために物語を書いて身柄を封じ込め、使い魔として使役したのです。それが、私の持つ力ですから」
「つまり、恐怖と憎しみの原因である武士の死霊を目の前で倒せば、アンナは成仏するっちゅうことですよね?」
「はい、追体験を起こして感情の上塗りを行うのは、物の怪を鎮める基本です。もう何度も手法を変えながら挑戦しているのですが、彼女は『憎悪』から目を逸らそうとしてくれません。本人の霊力的な強さも相まって、それだけアンナの憎しみは深いのか──」
「うーん……」
いつになく眉をひそめて、虎丸は唸った。
「あの、素人が生意気を言うようでえらいすんませんけど……。八雲さん、間違ってると思いますよ」
「間違ってる? 私が、ですか?」
思いもしなかった言葉を向けられ、八雲が驚いて目を見開く。
「はい。やってることがじゃないですよ。やり方が。あと認識が」
次々と迫ってくる敵を討ち倒しながら、虎丸は深呼吸して荒い息を整え、八雲に向かってそう言った。
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