三 少年の憂鬱

 翌朝、目を覚ました虎丸が食堂に行くと、政府の要人が調印でもするかのような縦長のテーブルに洋風の朝食が並んでいた。


「ゴオジャス~。高級ホテルみたいやなぁ。オレ、滞在費支払ったほうがええんとちゃう?」


 まだ汽車の切符しか買っていないので、編集長にいくらか持たされた出張資金に余裕はある。しかし、こうも毎日豪華なのでは手持ちがすぐに飛んでいきそうだ。


「タカオ邸のあるじはレヴェルの違う金持ちだから気にすんな。鳩の豆代とも思ってねーよ」


 そう言って次から次へと皿に手を伸ばす赤髪娘・コウは朝から食欲旺盛だ。反対に、あまり食事を摂らないという八雲は姿さえ見せない。


「んじゃ、遠慮なく~! お金持ちがじゃんじゃん使ってこその金! 紅ちゃん、今タカオ邸て呼んだよなぁ」

「オマエがしつこく連発するから、感染したんだよ!」


 慣れないナイフとフォークでケチャップのかかったオムレツを一生懸命口に運んでいると、廊下を怪しい影が通過するのが見えた。

 食事中なのだが、好奇心旺盛な虎丸はさりげなくかわやでも行くような振りをしてついつい後を追いかける。


 黒い布のようなもので頭を覆い、廊下を駆けていく人影。

 足音を消して走っているせいでさほど速くなく、すぐに捕まえることができた。肩を掴むと、被っていた冬用の外套マントがずれて顔が覗く。


 その人物は、茜だった。

 学帽の下に長い髪を素っ気なくまとめて結い、昨日つけていた桜色のリボンは外していた。首元に黒と白の重なった詰襟が見える。



 ──ああ、そうかぁ。中学は校則厳しいもんなぁ。



 どんな服装で登校しているのだろうとぼんやり疑問に思っていたが、考えてみれば明白である。

 虎丸も中退したとはいえ通っていたので知っている。男子生徒しかいない中学校で女子の着物着用など、認められるわけないのだ。


「茜ちゃん、今から学校?」

「え、ええ……うん。学校のある日は、メイドの仕事は夜だけにしてもらってるから」


 茜の返事はぎこちない。

 男の服を着ているときに女言葉を使うのは抵抗があるようだと、なんとなく察した。おそらく、学生服姿を虎丸に見られるのが嫌でひっそりと出て行こうとしていたのだ。

 興味本位で追いかけてしまったことを、虎丸は胸の内で申し訳なく思った。


「んーと、オレも仕事の電報を打ちに郵便局まで行かなあかんのや。乗合バス、一日一往復しかあらへんのやろ。いっしょに出てもええかな?」

「……うん」


 急いで朝食を片付け、茜とともにタカオ邸を出発した。バスは時間通りにやってきたが、終点を訪れる者はめったにないので誰も乗っていない。

 運転手と離れた後部座席に座ればふたりきりも同然だ。追いかけてしまったことが気まずくて、いつも饒舌な虎丸がなかなか会話を切り出せない。ちらちらと横顔を盗み見るばかりだった。


 常に微笑みを浮かべていたので目立たなかったが、茜も紅と同じで切れあがった印象的な目元をしている。女顔には違いないが、男姿も想像していたよりずっと似合っていた。まるで『義経記』に書かれた牛若丸のように、凛々しくも儚げな雰囲気である。


「せっかく東京きたのに、まだどこもゆっくり見れてへんねん。八王子に観光地とか名所ってなんかある?」


 男だからといって騒ぐな、と紅に忠告されたばかりだ。その部分には触れないよう、どうにか話題を作る。しかし、茜は緊張した面持ちで正面を向いたままだった。



 ──もしかして、逆に明るくつっこんだほうがええの!?

 学ラン姿は見られるの嫌でも一緒に風呂入るのはかまへんのかいな、ばっちりついとったけど~! とか言うたらええんかな……。いや、絶対あかんやろな。



 性別も人によっては難しい問題だという、八雲の言葉の重さを実感する。

 数十秒の間が空いて、窓に流れる遠くの景色を見ていた茜がぽつりと言った。


「……あの」

「ん?」

「騙してごめん」


 身の置き所がなさそうに睫毛を伏せてうつむいている。


「え、べつに茜ちゃんが悪いわけちゃうやん?」


 騙された覚えはない。勝手に勘違いしただけである。虎丸がタカオ邸を訪れる前から茜はずっとあの恰好で生活していたのだ。


 それなのに謝るということは、つまり。



 ──本人は、後ろめたく思ってるってことか……。



 横顔からひしひしと伝わってくる罪悪感。

 虎丸に向けてというより、女姿でいることそのものに対してだろう。少なくとも純粋な趣味ではなく事情がありそうだ。


 騒ぐつもりはもうないが、触らず深入りせずでは何もできない。だから、意を決して尋ねた。


「なあ、なんで女の子の恰好してるん?」

「それは……」


 茜は言葉を詰まらせたが、言いにくいというよりはどこかぼんやりしている。


「それはが、卑怯者だったから」

「……?」


 初めて耳にした少年らしい口調。

 理由の真意を聞く前に、運転手のかけ声とともに乗合バスが八王子駅に到着した。


 茜はこれから学校なので、込み入った話をする時間はない。

 女装の理由にしては不穏な『卑怯者』の響きを思い起こしながら、改札の前で茜を見送ることになった。


「茜ちゃん、こっから鉄道やろ? 気ぃつけてなぁ」

「うん、ありがとう。新世界派のみんなは優しいから……っていうより変な人たちだから、どんな恰好をしてても気にしないで放っておいてくれるけど……」


 誰かに、話したかったのだろうか。

 まだ尋ねただけでほとんど何も聞けていないのだが、先ほどまでの気負った空気が幾分薄れている。


「オレ、まだしばらくタカオ邸にお世話になるつもりやし。八雲先生が原稿書いてくれるまでは……」


 話くらいはいつでもできると暗に伝えれば、赤髪の少年はかすかに微笑んで頷いた。


「あ、そうだ。北口からちょっと歩くと田町っていう若い人がよく遊んでる場所があるから、行ってみるといいよ」

「ほんまに!? ありがとう~」

「じゃあ、また夜にね」


 軽く手をあげて、茜は構内に入っていった。

 何かが解決したわけではないが、また笑った顔を見ることができた。それだけでも虎丸は少しほっとしたのだった。



 ***



 タカオ邸近くまでの乗合バスは一日一往復。戻るための便が午後しかないので、どこかで時間を潰さなければならない。

 郵便局で電報を頼んだあと、せっかくなので茜に教えてもらった場所に向かうことにした。

 

 しばらく歩いて街からやや外れたところで到着したのは、早朝のせいか健全な活気に溢れた──遊廓である。


「田町……田町遊廓……? 色街やないかい!! オレ、そんなに寂しそうに見えてたんや!?」


 新世界派やタカオ邸で暮らす彼らとの距離を感じて寂しくなったのは確かだが、断じてこのような意味ではない。


 時間が早いためか遊女の姿は見当たらなかった。見習いの禿かむろたちがまだ幼さの残る声をかけ合いながら、懸命に働いている。どこの妓楼ぎろうも大量の洗濯物があって忙しそうだ。


「ついに遊廓デビュウ……するか……してしまうんか……。いやいや、まだどこも閉まっとるみたいやし」


 欲望と闘いながら周辺をうろうろしていると──

 とんでもないものを目撃してしまった。



「え……あれ、八雲せんせ!?」



 前方をのろのろと歩いているのは見覚えのある後ろ姿。

 物静かなわりに独特の雰囲気がある男なので、遠くからでも間違いようがない。バスは一本しかなく、乗っていたのは自分と茜だけだったというのに、いったいどうやってここまで来たのだろうか。


 いや、それよりも、遊廓で遊んでいる姿など一切想像できない男なのだ。この場所にいること自体が衝撃だ。


「うおお、まさか夜からお泊りやったとか!? お気にの遊女でもおるんかな~、せんせも隅に置かれへんわ~。こっそり後をつけるなんて良くないこと……絶対するわぁ~!」


 明るい午前の光に包まれた遊廓の門を抜け、虎丸は意気揚々と八雲の尾行を始めたのだった。

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