ニ 刻まれた忠誠の証

 ひとりで裏庭の五右衛門風呂に入っていたコウは、濡れた髪をおろした浴衣姿で暖炉の前に座っていた。


「……なんでソイツ泣いてんだ?」


 八雲とあかねに両脇から引きずられて戻ってきた虎丸の目には、うっすら涙が浮かんでいる。揺り椅子に無理やり押し込まれるがあまり反応はなく、放心した顔で遠くを見ながらひたすら前後に揺れていた。


「大浴場での脱衣風景が刺激的だったようですよ」

「ハァ? 男だけだろ?」


 件の記憶がよみがえり、虎丸はさめざめと泣いた。


「着物をはだける瞬間までものすごい背徳感あって、ほんで、脱いだら……ほんまに男子やった……。落差がつらい……」


 事前に知らされてはいたとはいえ、虎丸にとってはそれでも強烈だった。白い肩が出たあたりまでついつい胸がときめいたぶん、ショックが大きかったのだ。

 紅はひとしきり蔑んだ視線を注いだあと、ぷいっと横を向いた。


「くだらね。こんなヤツ放っといて、風呂上がりの牛乳でも飲もうっと。背丈が伸びるって亜米利加あめりかの文献に載ってたからな。二十歳超えてもまだ希望はある……かもしんねー」


 と、自分で膝の関節を引っ張っている。


「紅ちゃん。わたしも!」

「茜、オマエもうおれよりでけーじゃん」

「それでも、学年で一番低いんだもの。成長期はもうこないのかしら……」


 風呂で実情を聞いてみたところ、茜は高等女学校ではなく中学校の第四学年であった。

 男子しかいない中学では学ランを着ているのか、今のように女学生スタイルなのか、はたしてどちらだろうと気になるところだが──


 姉妹で仲良く会話している姿はほほえましく、少年でも少女でも、幸せそうだからまぁいいかと虎丸は気を取り直して涙を拭いた。


「オレも飲む! このへんに牛乳屋さんミルクホウルなんてあるん?」

「あるわけねーだろ。裏庭に牛いるんだよ。搾ってこいよ」

「……それ、ほんまもんの牛? 牛鬼とかちゃうん?」


 タカオ邸に来てからというもの、怪奇には多少慣れたが、すっかり疑り深くなってしまった虎丸である。



 ***



 使用人も動きだしたので、今夜からタカオ邸本館の客室を借りることになった。


「明日こそ本腰いれて約束の原稿と、燃やされた帽子代の催促せな~。まだ寝るには早いし、洋館の散策してこよかな」


 長い廊下は薄暗く不気味だが、好奇心のほうが勝ってしまう。怖さを紛らわすために歌いながら、虎丸はあちこちを出たり入ったりを繰り返す。床に敷かれた絨毯まで高級品で、内装も完璧に洗練されていた。

 先ほど八雲があるじと呼んでいた出資者は相当な大富豪のようだ。


「弁償はパトロンのほうに請求したほうが確実そうやな。いったい何者なんやら……」


 ブツブツと独り言を漏らしながら歩き回っていると、気軽に珈琲コーヒーでも飲むような歓談室を発見した。

 八角形のテーブルが点々と置かれ、モノトーンでオシャレな喫茶店といった風情である。蝋燭ろうそくの連なったシンプルなシャンデリアがなんともハイカラだ。


 足を組み、葉巻を指でつまみ、珈琲カップを傾ける──という妄想をしながら、ひとりため息をついた。


「恋はつらいもんなんやな……。今ならわかるわ……」

「女と勘違いして惚れかけたくらいで恋を語るな」


 突然聞こえてきた声に慌てて周囲を見回すと、衝立ついたてをはさんだ奥の席に座っていたのは紅だった。茜とは双子のようにそっくりだが、表情と声、背丈がまったく違うので髪を下ろしていても見間違えはしない。


 壁側を向いて座っており、なんと上半身の浴衣をはだけている。


「うわ、ラッキィ助平すけべえ!!」

「……なんだそれ。莫迦ばかやろーめ」


 衝立越しとはいっても、西洋アンティーク風の鉄素材で隙間が多いので目を凝らせばばっちり見える。さらしを何重にも巻いているが、それでも女慣れしていない虎丸には刺激が強い姿だ。

 小柄なのもあって背中も肩も腰も、驚くほどか細い。華奢な後ろ姿を眺め、やはり女子なのではないかと悩ましくうなった。


「うーん、でももうちょい恥じらってくれたほうが、ラッキィ甲斐があるっちゅうか」

「知るか。勝手に覗いといて注文つけんな。この部屋、明るくて書きやすいんだよ。二階だから八雲部長も来ないしな」


 何をしているのかと思えば、自らの体に肉体を強化する文字を書いている。


「もう闘いは終わったやーん?」

「いつまた始まるかわかんねーじゃん。付与できる文字の数を少しずつ増やしたり、時間も伸ばしたいから毎日こうやって書いて慣らしてんの」


 強くなるなら単純にたくさん書けばいいのではないかと思ったのだが、無理やり身体能力をあげると反動が大きいらしい。

 通常、付与できるのはせいぜい二、三個だという。虎丸自身もこの二日間で、剣術の稽古とは少し違った消耗をなんとなく感じていた。


 しかし、紅は見える範囲だけでも十数個の文字をその体に綴っている。


「それ、体つらいんとちゃうの? あと書く側も力使ったら精神的に疲れるって八雲さんが言うてたで?」

「おれはオマエみたいにさ、身体的に恵まれてるわけじゃねーから。チビだから腕力もないし。こんくらいしないと、あの人も茜も守れない」


 そう小さく言った横顔は、相当な無理を重ねているように見えた。

 あの人、というのは八雲のことだろうか。

 平坦な口調にかえって思いつめたものを感じ、空気をまぎらわせるために虎丸は話を変えた。


「せや、裏庭におった牛、乳搾ろうとしたらめっちゃ下段から蹴られたわ」

「そりゃあ、決まった時間しか搾らせてくれねーからな。仔牛が産まれたばっかで気も立ってんだよ。地下の貯蔵庫に夕方採れたやつが冷えてんのに」

「そういうのは先に教えてや!」


 いきなり押しかけて、食事や寝床を提供してもらっている身だ。不遇だと文句を言える立場ではないが、新世界派の関係者はどうも虎丸をいじるのが気に入ったらしくすぐ遊ばれてしまう。


「母牛の名はカアチャっていうんだぜ」

「母ちゃん? まんまやな」

「ちげーよ。ドストイェフスキイの『カラマゾフ兄弟』に登場する絶世の美女・カチェリイナ。愛称カアチャ」

「一応聞いとくけど、仔牛の名前は……?」

「ヘレネェ。ゲヱテの『ファウスト』に出てくる絶世の美女」

「ゲヱテなら、森鴎外版の翻訳を読んだわぁ。しかし、なんで八雲せんせはタヌキや牛に幻想美女の名前をつけるんや……」

「いや、アンナも牛親子も、命名は八雲さんじゃないぜ。うちの部員にいるんだよ。小説の中の美女しか愛せない男が」

「変態師範代のこと、なんも言われへんやん!」


 昨日聞いた話によると、絡繰り人形マニヤもいるはずだ。

 奇人変人に加えて変態揃いとは、作家という人種は業が深いものである。


「しかもそいつ、飛び抜けた美丈夫なんだよ。七高しちたかも結構男前だったしな。オマエみたいにモテなさそうなヤツが架空に逃げるならともかく、美形が屈折してると逆に狂気を感じるよなー。文学にぶつけてくれるならべつにいいけどさ」

「ついでにオレをけなさんといて?」


 そろそろ眠くなってきた、と浴衣を着直した紅は両腕を伸ばしてあくびをする。まだ二十一時を回ったばかりだが、七高との闘いで疲れたらしい。

 小柄な体に書かれた大量の文字のことが気になりつつも、「ほな、おやすみ~」と笑顔で手を振る。


 歓談室から出る間際、紅は猫を思わせる大きなアーモンド型の瞳で虎丸を見据えて言った。

 

「あのさ。茜のこと、あんまり男だ女だって騒ぐなよな。わざわざあんなカッコしてんだから、わかるだろ」


 ぱたぱたと、廊下に敷きつめられたじゅうたんを歩く軽い足音が遠ざかっていった。

 戒めを反芻しながら、ふたたび妄想の葉巻をくゆらせる。



 ──八雲さんも、性別の問題は難しいって言うてたなぁ。



 あのときは紅の話だったが、茜のことも含まれていたのかもしれない。理由や事情をよく知らないとはいえ、大げさに反応したのは無神経だったかと虎丸は反省した。


 下心を抜きにしても、なんだか気にかかる姉妹だ。

 性格は正反対だが、昨晩少し聞いた家庭環境が原因か、同じような傷を感じる。どちらも自分自身より互いを気遣っているのがわかってよけいに胸を打たれるのである。


 できることはあるだろうかと頭を絞ってみるが、いくら人懐っこい彼でも簡単に他人の心の奥深いところまで入っていけるわけではない。

 八雲に紅、茜、そしてまだ見ぬ他の部員。彼らはずっと前から生活をともにしている仲間で、虎丸はまだ出会ったばかりなのだ。そう思うと、少しばかり距離を感じて寂しくなるのだった。

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