四 青年作家の事情

 寝乱れた部屋。

 三つ重なった絹布団と夜着が敷かれたままの室内で、八雲は羽織すら脱がず、まっすぐ背筋を伸ばして畳に正座していた。


あい──」


 目線の先には漆黒の着物。

 女物の煙管キセルが、カツンと音を鳴らした。



 ***



 八雲が何者かと密会していたその頃、虎丸はというと──屋根の上にいた。


「あとほんの少しなのに、肝心なとこが見えへん……相手の女の顔が……」


 の青年作家がいる妓楼ぎろうから、細い路地を挟んで向かいの屋根である。体を低く伏せているが、誰かに見咎められれば泥棒扱いされても言い訳はできないだろう。


 いったい何故このような事態になったのか。

 こそこそと隠れて尾行していると、八雲は大通りを抜け、遊廓の一番奥にある見世みせへと入っていった。

 敷地内には何軒もの妓楼が連なって並んでいるが、その中でも広く高級そうな見世構えだ。


「ほー、営業は昼からか。意外と早い時間に開くんやな」


 立て看板に書かれた案内を眺め、虎丸はほほうと頷く。

 しかし、まだ朝だ。八雲が迷いなく入っていった妓楼も暖簾のれんは出ていない。客が遊女を選ぶための張見世はりみせと呼ばれる部屋にも人影はなく、玄関先は静まり返っている。


 虎丸は頭を振り絞って、高等学校や会社の先輩から聞き齧った知識を総動員する。たしか客が通されるのは二階と決まっているはずだ。どうにかして覗ける場所はないかと、あたりを見回した。

 そして、向かい側の妓楼の屋根に目をつけたのである。


 ちょうどよく部屋の窓が開け放されているのに、八雲の正面にいる遊女には庭の梅がかぶさってしまっている。黒い着物の端だけちらちらと見えるのがもどかしい。

 季節ではないので花はついていないが、折れた枝の色からすると白梅だろう。

 隠れた人物の膝元に置かれている煙草の銘柄もまた『白梅』だ。浅い青色の包み紙は、虎丸の父が吸っていたものと同じなので遠目にもわかった。


「煙草まで上級品とは、さすが遊女……。風流よのぉ。漆黒の着物ってのもめずらしいけど粋やな」


 八雲は相手に差し出された煙管キセルを受け取ると、一口吸って細く煙を吐き出した。煙草盆を軽く打ち、灰を落とす音が響く。


「あの人、煙草吸うんやなぁ。知らんかった……。ん、なんか言い合い始まったで!?」


 普段が淡々としている八雲なので激しく争っている風ではないが、怒っているか呆れているような表情で喋っている。声はかすかにしか届かず、内容までは聞き取れない。


「おおお、痴情のもつれ!? 遊廓あるある──」

「きゃー泥棒!!」


 すっかり夢中になっていたところへ突然、若い娘の叫び声があがった。布団を干すため下の庭に出てきた遊女の見習いに見つかったのだ。声を聞きつけ、客引きの妓夫ぎゅうたちが一斉に飛びでてきた。


「やば!! あんなにたくさんのマッスルは勝てる気せーへん!」


 遊廓の用心棒を兼ねた、見るからにいかつい男衆である。

 あわてて左右を見渡し、逃げられそうな経路を探す。雨どいをつたって警備が手薄な方面に降り、その場から逃げだした。



「ふー、まいたぁ。逃げたと見せかけて、まさか近くに戻ってきたとは思わへんやろ。逃げんのは昔から得意やねん」



 口では強がっているが、息はきれぎれだ。逃げ込んだ路地の木塀に背中をもたれて呼吸を整えた。

 遠くまで走るより隠れてやり過ごすほうが楽だったのもあるが、戻ったのはどうしても八雲の逢引が気になってしかたなかったからなのだ。


「お相手は借金のカタに売られた初恋の人とか、そういうのやったらええな〜。いつか大作家になって身請けする約束したのに、『私のことは忘れて』って言われて口論になったとか。ほんで今はきっとお金のために小説を書いてはんねん……。あの漆黒の着物を着た遊女と一緒に、生まれ故郷に帰るために……!」

「なかなか想像力がたくましいですね。少々俗っぽい筋書きですが、大衆向け娯楽小説として書いてみますか? きっと三文で売れます」

「うわ、びっくりした!」


 気配なく突然真横に現れたのは、虎丸の独り言で主役だった八雲その人である。

 うまく隠れていたはずなのに、塀の曲がり角から顔を半分出し、いつもの無表情で虎丸に視線を注いでいる。

 心臓がばくばくと激しく鳴っているが、覗きの気まずさもあってつとめて明るい声を返した。


「な、なんや、八雲せんせやないですか~。奇遇ですねぇ。ほんま残念ですけど、オレが目指すんは作家やのうて編集者なんで~。せやから、はようちの原稿書いてください!」


 紫色の羽織を着た八雲は、一糸乱れることなく綺麗な姿勢で立っている。朝帰りという雰囲気ではなかった。


「取りかかるつもりはありますが、七高しちたかの事件のせいでしばらく後回しになってしまいそうです。一度交した約束を違えはしませんので、あなたは関西に戻っていても構わないのですよ」

「担当編集ってぇのは、作家が原稿を書き終えるまで黙って隣の部屋で待っとるもんでしょ!? まだ戻らなあかん期限まで日数あるし、書きあがったらすぐにでも読みたいです! 大阪で郵便受け取るだけなんて不誠実なことできませんわぁ~。作家と編集はなにより信頼関係が大事ですから!」


 編集者に必要なのは、忍耐と体力、そして根性。

 すべて編集長からの受け売りで、むしろ虎丸は我慢ありきの暑苦しい精神主義は好まないのだが──ただ、言ってみたかったのである。


 〆切を破って逃走した作家を愛人宅で待ち伏せしただとか、飲んだくれて暴れた挙句に警察の御用となったのを引き取りに行っただとか。

 この文学戦国時代に数々の大御所作家を相手取った武勇伝を聞くたび、憧れは募っていく。


「あなたが担当編集となったのは初耳ですが、まあいいでしょう。原稿を引き延ばせば、そのあいだ『闘者とうしゃ』として余分に闘ってくれそうなので歓迎します」

「もうちょい本音隠しましょうよぉ!」


 八雲は意地悪く流し目で微笑んだ。

 これは初めて見せる表情だ。さっそく信頼関係が強まったかと内心喜んでいたのだが、すぐに痛いところをぐさっと突かれた。


「ところで、このような場所で何を?」

「うっ、それは……」

「筆おろしですか」

「なんちゅう直接的表現を!! ちゃいます、茜ちゃんに勧められたんですけど、色街やって知らへんかって来てもうただけです! 八雲せんせこそ、妓楼ん中でなにしてはったんですか~?」


 虎丸はにやにやと笑いながら白々しく尋ねる。

 が、しかし。


「野暮用です。覗き見するほど気になる人には、教えないほうが面白いので答えかねますがね」


 またしてもあっさりと言い負かされてしまった。


「ぐぬぬ……ばれとった! ていうか、バスに乗らんとどうやって来たんです?」

「早朝出発して、浅川という駅の始発に乗ったのです。バスの停留所より館から離れているのですが、急ぎでしたので」

「他にも最寄駅あった! めっちゃふつーの交通手段やないですか。八雲せんせってもっと……呪術を使った瞬間転送とか、そういうのできんのかと期待したのに」

「私は物の怪でも陰陽師でもありませんよ」


 そのあと八雲は行きと同じ鉄道でタカオ邸に帰ると言ったが、遊びたくてしかたのない虎丸は駄々をこねて無理やり引き留めようとした。


「八王子にも活動写真とか、カフヱとか、なんかあるやろ~。遊んでくださいよ~」

「よほどの用事がなければ、私は自室から出たくないのですが──」

「引きこもるからそんな顔色悪いんですよ! うちの原稿のためのインスピレエションが湧いてくるかもしらんしー、遊びも大事ですってぇ」


 まったく乗り気ではない青年作家の背中を押して遊廓から出ようとすると、ただならぬ集団がやって来るのが遠目に見えた。


「あれ、茜ちゃんや。学校行ったはずやのに、どないしたんやろ」


 先ほど改札に入るところを見送ったはずの茜が、四、五人の男に囲われるようにして門のほうに歩いてくる。茜は下を向いており、空気はあきらかに不穏である。


「まさか、人買い!? さらわれて遊女として売られてきた!?」

「徳川時代ではあるまいし、今は一応十八未満の身売りは禁止ですよ。それに、何度も言ったように茜は男子です。この田町遊廓は紅と茜が育った場所なので、おそらく知り合いでは──」

「はいそこー! 止まった、止まった! 悪者成敗、悪霊退散!!」


 八雲の話も聞かず、虎丸は茜を助けるため、ノリノリで駆けだして行ったのだった。

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