《中村ショウタロウ》②

 放課後、突然警察が学校にやってきて、近くで正体不明の遺骨が発見されたのでDNA検査に協力してほしいと言われた。あくまでも総当たりであって、あなたのお姉さんが特別可能性があるというわけではないから気にしないでほしいと言われた。


 その言葉尻とは裏腹にたまらなく嫌な予感しかしなかったけれど、私は、御原アンナは、頷くことしか出来なかった。


 そうして警察署に向かって、頬の内側を綿棒で削って、エントランスにある待合室でしばらく待った。……そもそもわざわざ警察署につれてこられた時点で、否が応でも何かを感じざるを得なかった。そうして一体どれだけ待ったのか、分からない。一〇分だったのかもしれないし、三時間だったのかもしれない。あるいは五時間かもしれないし、一〇時間だったかもしれない、そんなわけないのだけれど、そんな気がした。嫌な汗がだらだら流れて止まらなくて、吐きたくてももう吐くものもなくて、エントランスのテレビには暴行未遂で捕まった男の家から行方不明女性の免許証が四枚見つかったという報道が流れていた。


 後のことは、お察しのとおりである。


 私の姉は、御原ユイナは、同僚の旭カレンと別れて自宅へ向かう途中に中村ショウタロウに襲われ、殺害され、死体を山に遺棄された。


 私の知っていることはそれだけだ。その後の報道は一切追っていないし、裁判に出るつもりだってない。私は何も知りたくなどなかった。


 かつて私はこう思ったことがある。幽霊が見れたら良かったのに、と。


 だけど今なら言えた。幽霊など見えなくてよかったと。霊魂なんてものは存在しないと知ることが出来て良かったと。


 そんなものがもし存在していたとしても、そこにあるのは姉の痛苦に満ちた声だけだっただろう。一定の手段を用いて成仏させない限りそれが続くなど、地獄よりもなお地獄だ。霊魂は存在せず、姉の苦しみは死によって途絶えこの地上から一切消え去った。それが事実ならば、ほんの少しだけ、ほんの少しだけだが、幽霊がいるよりも世界はマシに思えた。


葬式だってするつもりはなかったが(だってそんなことに意味はないのだから)、後見人がしつこいのでやった。ぼうっとしてるあいだに終わっていた。私の知らない姉の友人知人がみな泣いていた。彼ら彼女らは幽霊がもしかしたら居るかも知れないというゼロではない可能性に縋っているのかもしれなかった。そう思うと哀れに思えた。私の涙といえば、もうすでに枯れ果てていた。他の感情だって、軒並みに。


 そして今、私は新島心霊事務所を訪れていた。


「……キミも律儀だね。わざわざ退所届を持ってくるなんて」


 姉の遺体が発見されてから、すでに一ヶ月が経っていた。


 一ヶ月ぶり、葬式にも顔を見せなかった所長が言う。特に変わりはないようで、濃い隈も、年中着ている白衣も同じだった。


「やることがなかったので」


「受験は?」


「もうどこも出願終わってますよ。卒業式も終わりました。出てませんけど。なので私は中卒です」


「……そうかい、それは大変だね」


「所長にはお世話になりましたしね。お給料だってたくさんいただきました」


「これからだっていくらでも払うよ」


「カレンさんがいないのに、ですか?」


 そうだ、事務所にカレンさんの姿はなかった。葬式でも見かけていない。


「あの子なら毎朝事務所に来てるよ。挨拶だけして、すぐに捜査に向かうんだ。ユイナくん死亡の真相を調べにね。多分キミのところにも来たと思うけど」


「……ああ、そういえばそうでしたね。なんか家に来た記憶があります。姉さんがあんなやつに殺されるはずがない、何か他に真相があるはずだとか、巨大な陰謀が隠れてるはずだとか言って姉さんの部屋を漁っていきました」


 どうでもいいので無視していたが。


 きっとカレンさんは致命的に壊れてしまったのだろう。あるいは、とっくの昔に、どこかで壊れていたのかもしれないけれど。


「多分、ボクのせいだね。ボクが幽霊の不在を隠してきたから、あの子はあそこまで壊れてしまった」


「……幽霊がいないって教えてくれたこと、すごく感謝してます。おかげで、姉さんが今もどこかで苦しんでるなんていう妄想に取り憑かれずに済みました。ああなってしまったらもう、カレンさんはきっと何を言っても信じてくれないと思いますが」


「……そうかい」


「どこかで気づいてたんです。私は覚悟してました。姉さんがなんてことのない犯罪に巻き込まれて死んでるんじゃないかってことくらい。カレンさんはずっと怪異による神隠しに遭ったに違いないって息巻いていましたけれど、そんなのは小さな可能性のひとつに過ぎなくて、若い女性がひとりの帰り道に犯罪に巻き込まれる方が可能性としてはずっとあり得るじゃないですか」


「……あの子は、カレンくんは、たいそうユイナくんを慕っていたからね。何度も命を救われているし、年上なのにセンパイなんて呼んでいたし、その気持ちも分かるよ。ユイナくんは特別な陰謀に巻き込まれて死んだんだって、そう思いたいのはボクも同じさ」


 でも、そうじゃないことを私も所長も知っていた。


「自分の特別な人が特別なことに巻き込まれているに違いないなんて幼児めいた妄想は、小学生の時に両親が事故で死んで以来捨てました」


 そういえば、カレンさんも事故でお姉さんを亡くしているんだっけ。……ならば今度こそは、と思ったんだろうか。


「このあいだ、所長も言ってたじゃないですか。世界は私たちのために作られてるわけじゃないって」


『世界はボクたちのために出来てるわけじゃないんだ。天動説は間違いだし、災害は容赦なく脈絡もなく伏線もなく人々の命や生活を奪っていく。あるようにあるだけなんだ。そう思えないのはボクたちが都合よく自然を改造して生き残ってきたからだし、都合の良いストーリーを脳内で生み出す生粋の陰謀論者だからだ。肉体を持つものはいずれ滅ぶし、肉体を持つものはひどく脆い。それこそあれだけ恐ろしかったはずのテケテケが、銃弾ごときで倒れるようにね』


 所長の言葉は、どこまでも真実だった。


 この世界に、脈絡も伏線も存在しないのだ。私たちは、あるようにあるだけの混沌に無理やりそれらしいストーリーを与えて理解しているつもりになっているだけに過ぎない。


「……そんなこと、とっくの昔に、私は分かってたんです。向こう側から来た連中がたまたま私たちの思考様式を真似てくれてるから、まるで世界に秩序があるように錯覚してただけなんです。それすら、私たちが勝手に勘違いしてるだけかもしれません」


「……そうだね」


「だから、本当にありがとうございます。この世界に幽霊がいないって教えてくれて。死んでしまった人は、もうどこにもいないって教えてくれて」


 そう言うと、私は所長に背を向けて、応接間を後にしようとした。


 その背後に、所長の言葉が投げかけられる。


「最後にひとつだけ、謝っておきたいことがあるんだ」


「……なんですか」


 振り返らずに、私は義務的に問うた。


「随分前に、ユイナくんが最後に手掛けていた案件……テケテケの依頼者が行方不明になって、探しても見つからなかったって言っただろ。あれには、続きがあったんだ」


 どうでもいい。


「くだらないオチさ。あのテケテケの依頼を持ってきたのはひと山いくらもいるユーチューバーで、噂の某心霊事務所に潜入とか言って架空の体験談を持ってきただけだったんだ。その後失踪して、隠し撮りした動画を上げていたよ。……本当に、くだらない」


 本当に、どうでも良かった。


「これはカレンくんにも言ってない。希望を捨てずにいてほしかったから。だけど、そんな些細な隠し事が、彼女を追い詰めるに至った。……ボクは最低だよ」


「知ってます」


 今度こそ出ていこうと部屋のドアに手をかけたところで、所長は、こう言った。


「五千万」


 あまりに脈絡のない言葉に、思わずゆっくりと振り返った。


「五千万円で、キミに怪異を意のままに扱う方法を教えてあげるよ」


「……それは、本当ですか」


 声が、上擦っていた。久々に、感情のようなものが、湧き出ようとしていた。


「ああ。三〇年でも四〇年でも五〇年でも無利子のローンで、教えてあげるよ」

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