不還文通
伊島糸雨
不還文通
山嶺を跨ぐ鋼鉄の脚、大地に翳る空の階梯は宙深度を遥かに数え、見果てぬ錆の残照までもが溶融する熱塊の如く地平を超えて連なっている。忘却の階層都市圏がいったいいつ建設され、その過大な威容を抱えるに至ったのかについて、望天の民は語るべき言葉を持たない。いついかなる時も、人々は必ずこのように語り継いだ。「生まれた時には既にあり、その起源を知る者はない」
階層都市圏と地上の間には古くから文字情報の往来があり、輸送装置としてある生体機構が用いられていた。旧時代の遺物を礎とする望天の民にとって、天より遣わされるかの装置は天啓と同義であり、それを運ぶ存在は一種の神秘として広く信仰の対象であった。天より来たる神の伝令──人はそれを〝天使〟と呼んだ。
天使の起源は階層都市圏に存在し、当初は広大な都市内部における簡易な通信手段として運用されていたという。しかし、誤って地上へ降りた個体が望天の民の言葉を携え帰還したことを端緒として、立体における往復書簡は始まりを得た。天上の諸学者たちは、この奇妙な交流に文明の集合離散と分化の過程を垣間見て、積極的に天使を送り出した。初めは研究を目的とした往還のみであったものも、時が経つにつれていつしか一般に広く知られるようになり、結果、天啓の単位は細分化を経て、個々の内奥に宿っていった。
──瓶船抱えた九の彷徨届く彼方の声は誰。雨黎
──宀乚亻丷八才力刂丿丿刂卜十乚八卜宀力卜宀力〆𠂊三刁了夕工夕龴乁。
──緒華璃其方は如何な場所。此方は鋼鉄の檻と思えば。雨黎
──夕亻千八卩龴亻二才力廾乚氵千廾龴彐宀冖𠂊亡八八卜才𠂊卜才𠂊亍冫刁丿丷厶。才力刂
──都市は閉塞錆浮いて私は貴女の行方を想う。楽園は花の園たり得るか。雨黎
──匚𠂊亡𠂊丿了刂力氵亡又龴龴丯宀廾亻丿亻卜廾力氵了儿𠂊。八十丿亻口八丩〆丿了力氵。才力刂
──地の花麗しく薫香朝焼けに揺れ楽土見えねど声の逢瀬無聊癒せば。黄昏の光画返礼に付す。雨黎
──朮宀亍冫丯彐宀力丿廾丯廾丯二力丿工二宀⺍儿丷亡刁才乇宀。丷八冖力丿刂卜力才氵亡又氵彐宀乍亻丿朮氵。才力刂
階層都市圏の住人と望天の民による天使を介した交流には、時に文字情報のみならず物理情報も用いられた。天上の鋼鉄都市に花園はなく、遺物の大地に稼働する利器はない。長い断絶の間に失われたものを、贈与の対価として顔も見えない〝何か〟に捧げる行為は、それ自体がひとつの信仰である。天使の脚に言葉を括り、彼方へと送り出しては異なる景色を眺めて帰還を待つ。空を打つ翼が音のない声を届け、縦横の断崖を超えた伝達の先々で、異郷の友の、あるいは親しげな神の言葉を紐解き、思うままに心を記す。己が生の牢獄から放つ一羽を通して遥か遠い憧憬を見る密やかな文通は、好奇以上に希求されるささやかな慰めであった。
──褪せた街路陰翳埋む錆の狭間に滴る雫。硝子の曇天此処は霧雨の底。雨黎
しかし、天使はある時から徐々に数を減らし、帰還までの時期を延ばして終には完全に姿を消した。交流途絶の所以については地上各地の口伝に点々と残されており、天は大地を見棄てたのだとも、天上に神などなかったのだとも噂された。以来、天使は降りず、記した言葉は還る場所を失っている。それでも、不可視の声と文通を重ねた人々は、いつかの再開を思ってことあるごとに空を、未だ聳える鋼鉄の天井を遠望した。羽ばたきの音ばかりが縁であった。大地を病が覆っても、花園は変わらず色彩の渦であり続けた。
──亍冫氵卜才𠂊才力刂宀乚亻丿亍冫乍亻刁龴⺍。了十夕丿工刁⺍力亻丿八礻亍十丷刂〆𠂊三了乚卜。才力刂
階層都市圏を閉ざしたのは、天使を介してもたらされた病であった。呼吸を蝕むその病に名前はなく、いつ、どこで、誰に最初に感染したのかも定かではない。ただ、天使の羽や爪の間、分泌物や書簡のいずれかに付着した地上由来の物質が、都市の人々を特異に侵す病原であるということだけが明白な事実であった。病は急速に拡大し、都市は固く封鎖された。天使は稼働を停止した。宛先のない手紙は、空の渚に揺蕩ったまま。
──此頃呼気弱り病罹りて点滴を打つ。雫の奥映る彼方の花今も薫りて声を想う。雨黎
──冖乚亡儿口宀丿三千二了乚卜冖力卜乇丿匚工冖力千力夕𠂊亻龴乇亻龴乇亻丿刂卜夕彐刂厶礻二亻夕亻亍。才力刂
送られるはずだった届くことのない言葉たちは、差出人の手の中で今も熱を保っている。ある者はひと気の失せた道々を寝台近くの窓越しに眺めながら、いつかの声を幾度も幾度も反芻し、雨垂れに曇る景色の中で己の姿とあるはずのない花の色を重ね続ける。あるいは、荒廃の悪路を歩み崩落した都市の残骸を間借りながら、熾火に白黒の光画を翳して遠い花園と雪景に架かる鋼鉄の威容を見上げている。
伝書の翼を失くしたのなら、記す文は不還である。
しかし、囁く声が渚を隔てて不通であるかは、その限りでないと語られている。
不還文通 伊島糸雨 @shiu_itoh
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