第3話 壇上の「他人」

(都内・ウィークリーマンションの一室 / 参考人招致 当日朝)


午前7時。

桐谷きりたに さえは、無機質なビジネスホテルのような部屋で、冷たい水で顔を洗った。

あの日、麗奈のマンションを出て以来借りている、彼女の「仕事場」であり「シェルター」だ。二人の関係が破局したわけではなく、これは政治的配慮による一時的な別居だ。「党の目があるから」と心配した麗奈に配慮して、冴が自主的にここに移っていた。


彼女は、小さな爪切りを取り出した。

パチン、パチン。

乾いた音が、静かな部屋に響く。

法廷に立つ前、あるいは、重要な弁論の前に行う儀式。

爪を、肉に食い込まないギリギリまで短く切り揃える。

余計なものを削ぎ落とし、感覚を研ぎ澄ませ、自らに戒めを課すための時間。


爪は、武器にはならない。

今日の戦場で武器になるのは、ただ一つ。

昨日までに完璧に組み上げた、「論理(アーキテクチャ)」だけだ。

ノートに刻んだインクは「朝の空(あしたのそら)」色。

そのノートの最終ページに、ただ一言、書き殴った言葉がある。


『——法は、“当事者性”ではなく“論理性”で動くべきだ』


冴は、短くなった自分の指先を見つめた。

冷たく、戦闘準備の整った指。

彼女は立ち上がり、一分の隙もなく黒いパンツスーツに身を包んだ。


***


同じ頃。

天羽麗奈(あもう れいな)は、議員会館の自室で、分厚い「議事進行表」と「参考人略歴」に目を通していた。

彼女の役職は、衆議院法務委員会の理事。

今日の参考人招致における、議事進行役だ。

資料の「桐谷 冴」という名前に、彼女は1秒以上視線を留めないように訓練していた。


今、彼女が向き合うべきは「冴」ではない。

「桐谷冴参考人」という、社会的な記号だ。

秘書が入れた熱いコーヒーの湯気(視覚)が、資料の上で揺らめいた。


「先生、本日も鷲尾先生の秘書官から『くれぐれも中立公平な議事進行を』と念押しが」

「当然のことです」


麗奈は、微笑みを崩さない。

「『党の秩序』を重んじていると、そうお伝えして」


彼女は立ち上がり、ネイビーのスーツの襟を正した。

胸元には、いつもの天秤のペンダント。

それが今日、彼女の心を水平に保つための、どれほど重い「錘(おもり)」になることか。


麗奈は、鏡の中の「公人・天羽麗奈」に、静かに頷いた。


***


(衆議院・法務委員会室 / 午前10時)


テレビカメラのレンズが、赤いランプを灯している。

傍聴席は満席。記者席には、白洲しらす 乙葉おとはの姿もあった。彼女は、地裁判決の日の麗奈の部会と、今日の冴の証言が「交差」することに、強い関心を抱いていた。


「——これより、法務委員会を開会いたします」


麗奈の声が、マイク(象徴:公的な声)を通して、静まり返った委員会室に響き渡った。

感情の温度を一切排した、完璧なアルト。


「本日は、『現行婚姻制度及び家族形態の多様性に関する件』について、参考人をお招きしております。……参考人、ご入室ください」


ドアが開き、桐谷冴が入室する。

冴は、委員席を一瞥(いちべつ)もせず、証言台(参考人席)へとまっすぐ進んだ。

二人の視線は、交わらなかった。

冴が着席する。

麗奈は、進行表に従って、事務的に言葉を紡いだ。


「参考人におかれましては、ご多忙の折、ご出席いただき感謝申し上げます」

「……」

「それでは、まず冒頭、桐谷参考人に、お立場とご意見の要旨を15分以内でご陳述いただきます。桐谷参考人、時間厳守でお願いいたします」


冴は、無言で頷き、マイクに向かって初めて口を開いた。

「参考人の桐谷冴です。本日は、よろしくお願いいたします」

他人。

完璧な「他人」が、そこにはいた。


麗奈は、手元の資料に目を落としたまま、進行役の仮面を貼り付けていた。

冴の陳述が始まった。


「私が本日申し上げたいのは、ただ一点。現行の婚姻制度に関する諸規定が、憲法第14条第1項、すなわち『法の下の平等』に違反しているという、純粋な法的・論理的帰結についてです」


声に、揺らぎはない。

彼女は、感情的な「訴え」を一切しなかった。

地裁判決を導いた、あの「論理の階段(メタファ)」を、国権の最高機関である国会の場で、一段ずつ、冷静に、再構築していく。


「……憲法24条の『両性』という文言は、歴史的経緯に鑑みれば、家父長制下における男女平等を定めたものであり、同性間の婚姻を積極的に“禁止”する趣旨ではないこと。そして……」


淀みない論理の展開。

記者席で、白洲乙葉は驚嘆していた。

(……すごい。感情論が一切ない。まるで精密機械だ)

彼女は、この「桐谷冴」という弁護士の鋭さに、ジャーナリストとしての強い興味をかき立てられていた。


「……したがって、合理的理由のない区別、すなわち『性別』という指標のみで婚姻という重要な法的保護の枠組みから個人を排除することは、憲法14条が最も強く戒める“不合理な差別”に該当します。必要なのは“同情”や“配慮”ではありません。法に基づく“平等”です。——以上です」


14分58秒。

完璧な時間配分。

麗奈は、内心の動揺を微塵も感じさせず、顔を上げた。


「ありがとうございました。……これより、質疑に入ります」


***

(同・委員会室 / 質疑応答)


数名の委員との、冷静な質疑が続いた。

冴は、あらゆる角度からの質問を、準備書面通りの論理で完璧に弾き返していく。

その時だった。


「——委員長!……いや、天羽理事!」


鷲尾派のベテラン議員、古賀が、マイクも通さず大声を上げた。

麗奈は、彼を制するように視線を向けた。


「古賀委員。ご発言は挙手の上、許可を得てから」

「構わん!」


古賀は、マイクのスイッチを乱暴に入れた。赤いランプが灯る。


「桐谷参考人に、単刀直入にお伺いしたい!非常に論理的でご立派なご高説だが、どうも熱が感じられん!」


委員会室が、ざわついた。

冴は、表情を変えない。


「ご質問の意図を、明確にしていただけますか」

「意図も何もあるか!」


古賀は、身を乗り出した。


「あなたは、なぜそれほどまでにこの問題に固執するのか! あなたのその“情熱”の源泉は何か、と聞いている!……失礼だが、桐谷先生ご自身が、いわゆる“当事者”なのですか?」


空気が、凍った。

アウティング(暴露)ギリギリの、人格攻撃。

麗奈の指先が、演台の下で、強く握りしめられた。ペンダントの天秤が、ブラウスの下で肌に食い込む(触覚)。


(……冴……!)


助けることはできない。ここで麗奈が古賀を強く制止すれば、それは「個人的な擁護」と取られかねない。

議事進行役という仮面が、鉛のように重い。

傍聴席の白洲も、眉をひそめた。

(……最低だ。質問じゃない、これは侮辱だ)


全ての視線が、冴に集まった。

冴は、数秒間、沈黙した。

そして、ゆっくりとマイクに口を近づけた。


「古賀委員のご質問に、お答えいたします」


声は、先ほどまでと変わらず、平坦だった。


「まず、委員の質問は『私の情熱の源泉』、そして『私が当事者か否か』という二点を含んでいます。前者は、法的な議論の場に馴染まないため、回答を差し控えます」


古賀が「何だと!」と口を開きかけたのを、冴は次の言葉で制した。


「そして、後者——『私が当事者か否か』というご質問。それこそが、日本におけるこの問題の本質的な“誤解”を象徴しています」


冴の視線が、初めて古賀を、そして委員席の全員を射抜いた。


「仮に、私が当事者であったとして。あるいは、そうでなかったとして。それが、私が先ほど申し上げた憲法14条の論理的帰結に、いかなる影響を与えると仰るのでしょうか」


古賀が、言葉に詰まった。


「法は、“当事者性”ではなく“論理性”で動くべきです」

冴の声が、委員会室に響き渡った。


「もし、法が“当事者”の声でしか動かないのであれば、それは法治国家ではなく、声の大きい者が勝つだけの単なる“闘争”です。私が本日ここでお示ししたのは、当事者性とは一切関係のない、純粋な『法の論理』です。委員の皆様には、感情論ではなく、その“論理”についてこそご議論いただきたい。……以上です」


完璧なカウンターだった。

古賀は、顔を赤くしたまま、それ以上何も言えなかった。

麗奈は、演台の下で、強く握りしめていた拳を、ゆっくりと開いた。

爪の跡が、掌に白く残っていた。


(……見事よ、冴)

彼女は、心の内でだけ呟き、そして再び「公」の仮面を被り直した。

「……他に、ご質疑は」

誰も、手を挙げなかった。


「……ご質疑も尽きたようですので、本日の参考人からの意見聴取は、これにて終了といたします。桐谷参考人、本日は誠にありがとうございました」


麗奈は、一度も冴と視線を合わせることなく、閉会を宣言した。


***


(同・廊下 / 閉会後)


委員会室から出てきた冴を、記者たちが取り囲んだ。


「桐谷先生、素晴らしい反論でした!」

「“当事者性ではなく論理性”、名言です!」


冴は、その喧騒を抜け、エレベーターホールへと急いでいた。

その時、前から、委員たちに囲まれて歩いてくる麗奈とすれ違った。

距離、2メートル。

二人は、視線を交わさない。


政治家・天羽麗奈と、弁護士・桐谷冴。

公の場で、完璧な「他人」として、すれ違った。

その刹那。


麗奈が、冴にしか聞こえないほどの声で、一言だけ、呟いた。

「……暑いわね、今日」

冴の足が、止まりかけた。

それは、二人の間で「よくやった」「頑張った」を意味する、隠語だった。

冴は、振り返らなかった。


「桐谷先生!」

記者の一人、白洲乙葉が、冴の前に回り込んだ。

「ニューズ・フロントの白洲です。先ほどの証言、感銘を受けました。一点だけ……!」

冴は、足を止めた。

「……なんでしょう」

「先生は、ご自身の論理の“強さ”を、誰よりも信じていらっしゃいますね」

白洲は、探るような目で冴を見た。

「天羽理事も、先日の部会で“光(14条)”という言葉を使われました。あなた方の“論理”は、まるで示し合わせたように、同じ場所を指しているように聞こえましたが」


冴の眉が、わずかに動いた。

鋭い記者だ。


「……偶然でしょう。法の下の平等を語るなら、当然の帰結です」

冴は、冷静に答えた。

「失礼します」


冴がエレベーターに乗り込むのを見送りながら、白洲は手帳にメモを取った。

『天羽 麗奈と桐谷 冴。二人の“論理”は、共鳴している。……偶然か?』


***


(東京・雑踏 / 同日夕刻)


参考人招致のニュースが流れる街頭ビジョン。

原告の一人、小野寺結衣が、買い物のために雑踏を歩いていた。

パートナーの美緒は、昨日の「違憲判決」と今日の「参考人招致」で、NPOの電話対応に追われている。

結衣は、スマートフォンで冴からの報告(「無事終了しました」)を確認し、安堵の息をついた。


その時だった。

視線を感じた。

振り返る。

雑踏。見知らぬ人々の流れ。


(……気のせい?)


だが、違った。

人混みの向こう側、ビルの柱の影で、見覚えのある男がこちらを凝視していた。

血の気が引いた。


美緒の、前のパートナー。

保護命令が出ているはずの、あの男だった。

男は、ニヤリと笑い、人混みの中へと消えていった。

結衣の手から、買い物袋が滑り落ちた。

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