第2話 長老の「血」と家の「壁」

(都内タワーマンション・麗奈の私室 / 午前4時)


夜が、まだインクを零したように濃い。

天羽麗奈は、すでに完璧な白のブラウスに袖を通していた。


リビングのソファでは、桐谷冴が昨夜の法廷の緊張が解けたように、珍しく深い眠りに落ちている。その寝顔に、麗奈は薄いブランケットをかけ直した。法廷という「建築(アーキテクチャ)」を構築しきった後の、束の間の静寂。


麗奈の戦場は、異なる。

私室に戻った麗奈は、スマートフォンを操作した。イヤホンから、録音された音が流れ出す。

——ゴォォン……。

地元の寺で録音した、梵鐘(ぼんしょう)の音。

それは、彼女が「天羽麗奈」という公人になるための儀式だった。

雑念を払い、感情を水平にし、精神の天秤(てんぴん)のゼロ地点を合わせるための音。

昨夜の昂ぶり。冴を抱きしめた時の安堵。そして、鷲尾泰臣からの短いメッセージがもたらした、指先が冷えるような緊張。

それら全てを、鐘の音の深い残響が洗い流していく。


アラートが鳴る。午前4時半。

主要各紙の朝刊(電子版)が配信される時刻。

麗奈は、昨夜のうちに懇意の記者——白洲乙葉(しらす おとは)ではない、別の政治部記者——に「情報」として渡しておいたリークがどう処理されたかを確認する。


『同性婚訴訟・地裁判決「違憲」——与党法務部会、奇しくも同日「婚姻平等」素案を議論』


見出しは、狙い通りだ。

「司法の判断」と「与党内の動き」を並列させる。二つが連動しているかのように見せる。

これこそが、世論という「濁流(メタファ)」を動かすための第一投だった。

政治は数の力。数は世論の力。


麗奈はイヤホンを外し、胸元で揺れる小さな天秤のペンダントを握りしめた。

金属の、冷たい感触(触覚)。

「公」の重さを再確認する。

彼女は鏡に向かい、完璧な微笑みを顔に貼り付けた。

午前9時。鷲尾泰臣の事務所。

龍の顎門(あぎと)に、自ら飛び込む時間だった。


***


(議員会館・鷲尾泰臣 事務所 / 午前8時58分)


空気が、澱んでいる。

古い紙と、高価な墨の匂い(嗅覚)。鷲尾泰臣の事務所は、彼の政治家としてのキャリアをそのまま体現したような空間だった。陽光は分厚いカーテンに遮られ、スタンドの薄暗い光が、使い込まれた黒檀の机を照らしている。

麗奈が好み、そして自ら体現しようとする「光」とは、正反対の空間。

影が、ここでは支配者だった。


「9時厳守、か。君の父上も、時間だけは正確だった」


麗奈がノックと同時に入室すると、鷲尾は執務机の奥、影に沈んだままそう言った。

時計の針は、8時59分を指している。


「鷲尾先生。昨夜はお呼び立ていただき、恐縮です」

麗奈は、寸分の隙もない敬語の鎧をまとい、深々と頭を下げた。

「座れ」

短い命令。

麗奈は、来客用のソファではなく、あえて机の正面に置かれた硬い椅子に浅く腰掛けた。

鷲尾の視線を、正面から受け止めるためだ。


沈黙。

鷲尾は、ただ麗奈を見ている。書類をめくる音も、タイピングの音も無い。

この沈黙こそが、彼の武器だ。相手の焦燥を誘い、均衡を崩すための重圧。

麗奈は、動かなかった。背筋を伸ばし、微笑みすら浮かべている。

やがて、鷲尾が重い溜息をついた。


「……昨夜の法務部会。そして今朝の朝刊。派手にやったな、麗奈くん」


“くん”付け。鷲尾が麗奈を「父の娘」として、あるいは「派閥の後輩」として扱う時の呼び方だ。


「司法の判断が出た以上、立法府として議論を開始するのは当然のことかと存じますが」

麗奈は、主語を「私」から「立法府」にすり替えた。


「議論?」

鷲尾の声に、初めて苛立ちが混じった。

「あれを“議論”と呼ぶか。君がやったのは“議論”ではない。“扇動”だ。党の秩序に対する、意図的な挑戦だ」

「秩序、でございますか」

麗奈は、わずかに首を傾げた。あえて優雅な仕草で、問い返す。

「私は、秩序を“守る”ためのご提案と認識しておりますが。法の下の平等を求める国民の声を、これ以上無視し続けることこそが、党と国民との間の秩序を乱す元凶とは……お考えになりませんか?」

確認的な語尾。彼女の得意とする、論理の誘導(メタファ)。


「——家族は、議論ではない」

鷲尾が、机を指で叩いた。

「天羽くん。家族は、公の秩序の、最小単位だ」

ついに、彼の「理念」が顔を出した。

麗奈は、この言葉を待っていた。


「秩序……」

「そうだ。血だ。家だ。親から子へ、子から孫へと受け継がれてきた“血”の繋がり。それこそが、この国の形を二千年以上支えてきた“礎(いしずえ)”だ。君の素案は、その礎を白蟻のように食い荒らす」


鷲尾の目が、机の上に置かれた一枚の写真立てに向けられた。

古い、色褪せた家族写真。そこには、若き日の鷲尾と、彼によく似た一人の少年が写っている。

「君の父上は、それをよく理解しておられた」


鷲尾は、写真から麗奈へと視線を戻した。

「彼は、“家”を守ることの重さを知っていた。血が途絶えることの、本当の恐ろしさを知っていた男だ」


(また、父……)

麗奈は、ドレスシャツの袖口で、汗の滲んだ掌を気づかれないように拭った。

父の遺産(レガシー)という名の亡霊が、鷲尾の口を通して麗奈を縛ろうとする。


「父が守ろうとしたのは、形式としての“家”制度そのものでしょうか」

麗奈は、一歩も引かない。

「いいえ。父が守ろうとしたのは、人々が安心して暮らせる“共同体”そのものだったはずです」

「言葉遊びだ」

鷲尾は、冷たく言い放った。

「君は、父上の遺した“政(まつりごと)の家訓”を裏切る気か」


その言葉は、麗奈の胸の奥深く、父との確執が眠る場所に突き刺さった。

政治家一族に生まれた長女としての重圧。離婚という「家の瑕疵」を作った自分への負い目。

(……私だって、裏切りたいわけじゃない)

心の内で叫びが上がるが、表情筋は微笑みを維持している。


「……先生」

麗奈は、あえて声のトーンを一段落とした。

「父は、ある“取引”の際に、こうも仰いました。『政治家は、時に清濁併せ呑む。だが、その“濁”が、未来の“清”に繋がらねばならない』と」


“取引”という単語。

鷲尾の眉が、わずかに動いた。

麗奈がかつて、父の盟友であった鷲尾の甥の汚職疑惑を「握り潰す取引」に関わったことを、彼は知っている。麗奈も、鷲尾がそれを知っていることを知っている。


空気が、再び張り詰めた。

今度は、理念の対立ではない。

政治家同士の、暗黙の“力”の探り合い。

鷲尾は、長く、細く息を吐いた。


「……忠告しておく、麗奈くん」


彼は、呼び名を“天羽”から“麗奈”に戻していた。より個人的な、圧力をかける響きだ。

「君の動きは、早すぎる。そして、危険すぎる。党の秩序を乱すな」

「忠告、痛み入ります」

麗奈は、深く頭を下げた。

「ですが、時代もまた、我々の想定より早く動いておりますので」


「素案を、即刻取り下げろ」

鷲尾は、最後通告を突きつけた。

「さもなくば、党紀委員会が君の“党員としての忠誠”について、議論することになるだろう」


脅しだ。

麗奈は、微笑みを崩さないまま、ゆっくりと立ち上がった。

「貴重なお時間をいただき、ありがとうございました、鷲尾先生。先生のご懸念、私の派閥にも持ち帰らせていただきます」

彼女は、肯定も否定もせず、ただ“持ち帰る”という政治的レトリックを使った。

ドアに向かう麗奈の背中に、鷲尾の低い声が突き刺さる。

「君は、父のようにはなれん」


麗奈の足が、一瞬、止まった。

しかし、彼女は振り返らなかった。

会釈だけを残し、影の支配する事務所を後にした。

廊下に出た瞬間、彼女は大きく息を吸い込んだ。

蛍光灯の白い光が、眩暈がするほど目に痛かった。

感情ベクトルは、「決意」から、明確な「圧迫」へと振り切れていた。


***


(NPO法人 LGBT法務支援ネットワーク 事務所 / 同日昼)


桐谷冴の事務所は、鷲尾のそれとは対極にあった。

雑居ビルの一室。積み上げられた段ボール箱。膨大な訴訟資料が、スチールラックから溢れ出している。

機能性だけを追求した、法という「建築」のための設計室。


冴は、法廷ノートに「控訴審・想定争点」と書き込んでいた。

インクは、もちろん「朝の空(あしたのそら)」色だ。


「先生!勝ちましたね、昨日!」


若い事務員が、興奮冷めやらぬ様子でコーヒーを置いた。


「ネットでもすごい反響です!『違憲判決』がトレンド入りして……」

「浮かれてはダメ」


冴は、目を上げずに言った。声は氷のように冷静だ。


「国は100%、控訴します。地裁の判断は、あくまで第一審。私たちが目指すのは、ここではない」


彼女は、壁に貼った日本地図を指した。

各地で進行中の、同様の訴訟。そして、その全ての矢印が向かう先——霞が関、最高裁判所。


「本当の戦場は、大法廷。私たちは、最高裁で『違憲』または『違憲状態』の判決を勝ち取る。それ以外は、勝利ではない」


冴は、スタッフに釘を刺した。


「国の控訴理由は予測がつく。『憲法24条は両性(男女)を前提としている』『立法府の裁量権の逸脱だ』。私たちは、その“壁”を崩すための、より強固な“論理の階段(メタファ)”を再構築する」


彼女の思考は、すでに高裁、そして最高裁の調査官(御子柴)の思考を先読みしようとしていた。

昨夜、麗奈と交わした「両岸から橋を架ける」という言葉。

麗奈が「政治」という濁流(メタファ)の中で戦っているなら、自分は「法」という揺るがない岩盤を掘り進める。

それが、二人の役割分担だった。


***


(都内タワーマンション / 同日夜)


麗奈が重い足取りで帰宅すると、リビングには明かりが灯っていた。

冴が、ダイニングテーブル一面に資料を広げて待っていた。

法務省が控訴審で提出してくるであろう、想定答弁書(案)を作成していたのだ。


「おかえりなさい」

冴が顔を上げる。

「龍の顎門は、どうだった?」

「食いちぎられそうになったわ」


麗奈は、ジャケットを脱ぎ捨て、ソファに倒れ込んだ。公の鎧が解ける。

ペンダントの天秤が、疲れたように揺れた。

冴は、麗奈の前に温かいハーブティを置いた。


「……鷲尾先生、か」

「ええ」


麗奈は、カップの温かさ(触覚)に、強張っていた指先の感覚が戻ってくるのを感じた。


「彼は、本気で“伝統”が壊されると信じてる。いいえ、恐れてる」

麗奈は、今日のやり取りを正確に反芻した。

「キーワードは二つ。『秩序』と『血』よ」

冴は、黙って麗奈の言葉を促した。

「彼は“血”に囚われている」


麗奈は、鷲尾の執務室にあった色褪せた写真(象徴)を思い出していた。

「“家”が“血”によって継承されること。それこそが日本の秩序だと、彼は本気で信じている。だから、私たちのやろうとしていることは、彼の理解の範疇を超えている。あれは、論理じゃない。……信仰よ」


冴は、麗奈の向かいに静かに座った。


「信仰、か。法曹界にもいるわ。憲法を“信仰”している裁判官。条文を“解釈”するのではなく、“崇拝”している」

冴は、自分の法廷ノートに視線を落とした。

「そういう相手に、論理はどこまで通じるか」

「通じない」

麗奈は、即答した。

「だから、政治(ちから)でねじ伏せるか、別の“利”で取引するしかない」


麗奈の脳裏に、鷲尾の甥の「取引記録」(伏線)が蘇る。

(……あのカードは、まだ切れない。切れば、私も“濁”に沈む)


麗奈は、首を振った。

「いいえ……」

彼女は、顔を上げた。その目には、再び「政治家・天羽麗奈」の光が戻っていた。

「鷲尾先生には、次、こう言うつもり」

冴が、問いかけるように麗奈を見た。

「『先生の仰る“伝統”を守りたいのは、私も同じです』と」

「……麗奈?」

「『父の本当の教えは、”守るために、変わる”でした』」


麗奈は、言葉を区切った。

「鷲尾先生は、変わることを恐れて、守るべきもの(家族の幸福)を見失っている。私は、父の本当の遺志を継ぐ。……そう、伝える」


冴の目に、わずかな安堵と、深い尊敬の色が浮かんだ。

「……それなら、大丈夫。あなたの“論理”は、私の“論理”と同じくらい強い」

その時、麗奈の秘書用セキュア端末が、静かにアラートを鳴らした。

麗奈が画面を確認し、息を詰めた。


「どうしたの?」

「……法務部会が、荒れてる」

麗奈は、速報メッセージを読み上げた。


「野党第一党が、昨日の地裁判決と私の素案を受けて、法務委員会での『家族制度に関する参考人招致』を要求したわ」

「参考人招致……」


冴の表情が、一瞬で弁護士の顔に戻った。

「当然の動きね。原告団からも誰か呼ばれるかもしれない」

「問題は、そこじゃない」

麗奈は、画面をスクロールした。

「与党(ウチ)の保守派も、この招致に賛成している。ただし、条件付きで」

「条件?」

「野党側が推薦する“推進派”の参考人リスト……その筆頭に、あなたの名前がある」

麗奈は、冴を真っ直ぐに見つめた。

「桐谷 冴 弁護士」


冴の手が、止まった。

「朝の空」色のインクが、ノートの上に小さな染みを作った。

公の場で、二人が対峙する。

麗奈が「政治家」として、冴に「法」を問う。

その、悪夢のような舞台が、現実になろうとしていた。

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