第4話 原告の危険な過去

(東京・雑踏 / 夕刻)


時間が、凍りついた。

雑踏のノイズ(聴覚)が、一瞬にして遠ざかる。

小野寺結衣(おのでら ゆい)の視界には、ビルの柱の影でニヤリと笑ったあの男の顔だけが、焼き付いていた。


佐々木美緒(ささき みお)の、前のパートナー。

美緒の身体と心に、消えない傷を刻んだ男。

接近禁止の保護命令(象徴:保護命令)が出ているはずの、暴力の記憶そのもの。


「……あ」

声にならない息が漏れる。

持っていた買い物袋が、乾いた音を立ててアスファルトに滑り落ちた。

リンゴが二つ、転がっていく。

男の姿は、すでに人混みの「濁流」に消えていた。

幻ではない。

心臓が、肋骨の内側で警鐘を乱打する。


あの男が、ここにいる。

なぜ。どうやって。

(……私たちが、テレビに……)

地裁判決。昨日の参考人招致。

美緒と結衣は、原告として、その顔と名前を「公」に晒していた。

法の下の平等という「光(メタファ)」を求めた行為が、最悪の「影(メタファ)」を呼び覚ましてしまった。


「……っ、みお……!」

結衣は、震える手でスマートフォンを取り出した。

美緒にではない。

こういう時のために、叩き込まれた番号。

桐谷冴。


「……もしもし、小野寺さん? どうかしまし——」

「先生っ! いた! あいつが……! 見た、今、私を……!」

パニックで、言葉が意味をなさない。

『——結衣さん、落ち着いて!』

スマートフォンの向こう側で、冴の声のトーンが瞬時に氷(メタファ)に変わった。

『今どこですか。周囲に人は。すぐに安全な場所へ!』

「わからない、駅前……!」

結衣は、転がったリンゴもそのままに、人波をかき分けて走り出した。


***


(NPO法人 LGBT法務支援ネットワーク 事務所 / 同時刻)


「……ちっ!」

桐谷冴(きりたに さえ)は、受話器を握りしめたまま、小さく舌打ちした。


昨日、あれほど完璧な「論理の建築(メタファ)」を組み上げた高揚感は、結衣の怯えた声一つで、足元から崩れ落ちていく。


『——警察には連絡しました。最寄りの交番へ駆け込んでください。私がすぐにそちらへ向かいます!』


電話を切り、冴は即座にPCのアーカイブを呼び出した。

フォルダ名『佐々木美緒:保護命令申立事件』


冴の秘密。

原告・佐々木美緒は、この「同性婚違憲訴訟」の原告になるずっと前からの、冴の依頼人だった。

冴は、美緒をあの男の暴力から守るため、民事の保護命令を勝ち取った。

「これで、あなたは自由になれる」

そう、冴は美緒に告げた。


その美緒が、新しいパートナーである結衣と共に、「先生の戦い(違憲訴訟)に、私たちも参加したい」と言い出した時、冴は一度は止めた。

顔と名前を公に晒すことの危険性を、誰よりも理解していたからだ。


だが、美緒は言った。「先生に守ってもらったこの命だから、今度は私たちが“次の誰か”のための盾になりたい」と。


冴は、その覚悟に賭けた。

弁護士として、原告の安全を確保する「義務」と、原告の「意思」を尊重する義務。

その天秤(象徴)の上で、冴は「意思」を取った。


その結果が、これだ。

「……甘かった」

冴は、自らの爪が食い込むほど、強く拳を握りしめた。


あの男は、保護命令という「紙の盾(象徴)」など、意にも介さなかった。

訴訟という「光」が、彼を再び闇から引きずり出した。


「(弁護士倫理と原告保護)」

これは、違憲訴訟の弁護団長としての問題ではない。

美緒の「元」代理人弁護士としての、桐谷冴「個人」の、失敗だ。

冴は、コートを掴んで事務所を飛び出した。

指先が、怒りか恐怖か、判別できない感覚で冷え切っていた(触覚)。


***


(都内・料亭 / 同日夜)


「——なるほど。実に、天羽先生らしい“現実的”なご提案だ」


一方、天羽麗奈(あもう れいな)は、政治という名の別の戦場にいた。

湯豆腐の湯気(視覚)が、高級な檜のカウンターを曇らせる。

麗奈は、党内リベラル派「春風会」の、さらに穏健なグループの長老と差し向かいで座っていた。


「昨日の参考人招致は、いささか“正論”が過ぎました」

麗奈は、熱いお茶(味覚)で唇を湿らせ、優雅な微笑みで言った。

「正論の“光”は、時に影を濃くします。鷲尾先生のような方々を、必要以上に頑なにしてしまう」

「うむ。正論だけでは、政(まつりごと)は動かん」

長老は、満足そうに頷いた。

「そこで、ご提案です」

麗奈は、本題に入った。

「法務部会で『婚姻』を議論するから、揉めるのです。ルートを変えましょう」

「ルート?」

「厚生労働部会、あるいは文部科学部会です」


麗奈は、懐から一枚の資料を差し出した。

「NPO法人等への支援予算案。具体的には、困難を抱える若者、特に性的マイノリティを含む若者のための、セーフティネット(支援センター)予算の拡充です」

長老は、資料に目を通し、眉を上げた。

「……これは、人権問題ではなく、“福祉”と“教育”の問題として扱う、と?」

「御意」

麗奈は、深く頷いた。

「これはイデオロギーではありません。現実に困っている子供たちを“救う”という、福祉の問題です。これならば、鷲尾先生の派閥も、正面からは反対しにくいでしょう? 『子供たちを見捨てろ』とは、彼らも言えませんから」


これは、麗奈の仕掛けた「取引」であり「橋(メタファ)」だった。

正面から「婚姻平等」を叫ぶのではなく、その運動を支えるNPO(その中には、皮肉にも冴のNPOも含まれる)に「福祉予算」という形で公的な資金を流し、活動の“土台”を固めさせる。

「光」がダメなら、足元を照らす「灯り」から確保する。

それが、天羽麗奈の現実主義(ポリティクス)だった。


「……なるほど。この“橋”なら、私も渡れそうだ」

長老は、笑みを浮かべた。

麗奈は、安堵の息をついた。(感情ベクトル:不安→安堵)

その瞬間、私用のスマートフォンが、コートのポケットで短く震えた。

タクシーを呼ぶふりをして席を立ち、廊下で画面を確認する。

桐谷冴からだった。

『電話。緊急』

麗奈の胸が、嫌な音を立てて冷えた。

彼女は、長老に「急用が」と一言断り、慌ただしく料亭を後にした。


***


(タクシー車内 / 夜)


「——どういうこと、冴! 原告に危険が、ですって?」


走り出したタクシーの中、麗奈は公の場ではない「私」の口調で声を潜めた。


『……そのままの意味。結衣さんが、美緒の前のDV加害者に尾行された』


冴の声は、受話器越しにも分かるほど、張り詰めている。


「保護命令は!?」

『意味がなかった。……訴訟で顔が出たからよ』


麗奈は、言葉を失った。

さっきまでの政治的勝利の昂揚感が、急速に失われていく。


「……警察は」

『動いてる。でも、現行犯じゃない限り警告しかできない』

「冴、聞いて。もし原告が一人でも離脱すれば、この訴訟の“世論”は一気に変わる。『危険な運動だ』『当事者を危険に晒す活動家』と。そうなれば、私が今組んでいる法務省(真壁)への通達ルートも、党内のNPO予算(福祉)ルートも、全部閉ざされる!」

麗奈の思考は、即座に「政治的ダメージ」の計算に移っていた。


『政治的ダメージ……?』

冴の声が、凍りついた。

『麗奈、今、人が殺されるかもしれない、という話をしてるのよ!』

「分かってる! 分かっているわ、でも……!」

『いいえ、分かってない!』

冴が、麗奈の言葉を遮った。

『あなたの“天秤”には、今、彼らの“命”が乗ってない!』

「違う!」

『違わない! ……ごめん、私、今、あなたと話している時間がない』

「冴……!」

『……一つ、問題がある』

冴の声が、絶望的なほど低くなった。

『この件、私は弁護団長として、そして美緒の元代理人として、公に報告できない義務がある』

「……何?」

『……守秘義務よ。私が、原告の過去のDV事件の担当弁護士だったことは、弁護団にも、もちろんあなたにも、公式には言えない』

「……何ですって?」

麗奈は、絶句した。

「……冴、あなた……」


「隠し事は、二人を殺す」

麗奈は、絞り出すように言った。

「政治家(わたし)と弁護士(あなた)の関係も。そして、弁護士(あなた)と原告(かのじょ)の関係も。その“秘密”は、あなたの弁護士倫理の“瑕疵”になる! 鷲尾派に知られたら、あなたも訴訟も、一瞬で終わるわよ!」

『……だから、私が一人でやる』

「冴!」

プツリ。

通話が切れた。

タクシーの窓に流れる東京のネオンが、歪んで見えた。


***


(原告・佐々木美緒と小野寺結衣のセーフハウス / 深夜)


冴は、警察が手配した一時的なセーフハウス(アパートの一室)に、二人と共にいた。

結衣は、警察の事情聴取を終え、今は放心したように座っている。

美緒は、震えが止まらない。

「……私のせいだ」

美緒が、呟いた。

「私が……先生を巻き込んで、結衣を危険に晒して……」

「あなたのせいじゃない」

冴は、美緒の冷たい手を強く握った。

「悪いのは、法を無視するあの男と、あなたたちを守りきれない、今の“制度”だ」


その時、インターホンが鳴った。

冴が緊張してモニターを見ると、宅配業者だった。

「……結衣さん、何か頼んだ?」

「……いいえ」

冴は、チェーンをかけたまま、ドアを少し開けた。

「……どなたですか」

「お届け物ですー」

業者が、小さな封筒を差し出した。

「……頼んでいませんが」

「いえ、ポストに入らないので……サインだけ」

冴は、不審に思いながらも、結衣の名前が書かれていることを確認し、サインした。


受け取った、薄っぺらい封筒。

差出人の名前はない。

部屋に戻り、中身を改めた瞬間、冴は凍りついた。

一枚の写真。

それは、地裁判決の日に、裁判所の前で抱き合って喜ぶ、美緒と結衣の姿だった。

その二人の顔が、カッターナイフで、ズタズタに切り裂かれている。

そして、一枚のメモ。

インクが滲むような、歪んだ文字。

『オマエタチノ“シアワセ”ハ、マチガイダ』


「……ひっ」

結衣が、息を呑んだ。

美緒が、その写真を見た瞬間、過呼吸の発作を起こした。

「……はっ、……ひゅっ、……あ……!」

美緒の目が、焦点を失う。

過去のDVのトラウマが、フラッシュバックしている。

「……息が、……でき、な……」

美緒は、自分の喉を掻きむしり、そのまま床に崩れ落ちた。

「美緒さん!!」

結衣が叫ぶ。

「先生! 美緒が! 息してない!」

冴は、美緒の顔が紫色(チアノーゼ)になっていくのを見た。

これは、ただのパニック発作ではない。

「……救急車!!」

冴は、スマートフォンを掴み、119番をダイヤルした。

「119番! 呼吸困難! 住所は……!」


弁護士・桐谷冴の、完璧に構築された「論理」が、生々しい「血(メタファ)」の匂いの前で、音を立てて崩れていった。

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