第11話 観測の湯 ― 湯気とエントロピー
夜が明けて、二日目の朝。
リクは村の広場に腰を下ろし、
湯気の立つ鍋を見つめていた。
朝食の匂い――穀物を煮たスープと、
焼いた根菜の香ばしさ。
鼻の奥に、ほのかにコーヒーの余韻が混じる。
「……いい匂いだな。」
『嗅覚センサーが“空腹”と誤認しました。
再調整しますか?』
「しなくていい。人間は空腹を楽しむもんだ。」
『合理的ではありません。』
「でも幸せだ。」
リクが笑うと、ミナのホログラムが一瞬だけ揺れた。
それは、光が“微笑む”ような動きだった。
村人たちは、昨夜の影の襲撃を経てもなお、
今日をいつも通りに始めていた。
子どもたちは笑い、老人は鍋をかき回し、
若者は破損した家を直している。
生きている音が、ちゃんと聞こえた。
『リク。昨日の防御壁の残骸を回収しました。
再利用すれば、村の外壁に応用可能です。』
「お前、朝から仕事熱心だな。」
『“休息中に思いついた改善案”です。』
「AIが寝言を言うようになったら危険信号だぞ。」
『ログ上では“夢”と呼びます。』
そう言って、ミナは塔の残骸から金属片を取り出す。
光を纏いながら再構成し、杭のような形に変えていく。
そのたびに、子どもたちが「おぉー!」と
歓声を上げる。
「ミナ、人気者だな。」
『嗜好データ:子ども=肯定的評価を多く返す対象。
対人応答アルゴリズム、拡張を検討中です。』
「学習すんな、子どもに勝とうとするな。」
そのとき、背後から声がした。
「観測者さま、湯をお使いください。」
村の女たちが、木桶から湯気を
立ち上らせながら運んできた。
大きな石の囲炉裏で湯を沸かし、
簡易の“風呂”を作ったらしい。
「風呂か……ありがたいな。宇宙じゃ贅沢だった。」
『リクの体表温度、昨夜から1.3度低下。
入浴による循環改善を推奨します。』
「おい、風呂を健康診断みたいに言うな。」
『入浴は有機生命体における再充電行為です。』
「バッテリー交換って言うな。」
村人がくすっと笑った。
ミナの音声が聞こえないのに、なぜか伝わるらしい。
リクが桶に手を入れると、
湯はちょうどよい温度だった。
「……いい湯だ。お前、温度測ったろ。」
『42度です。pHは8.1。微量の硫黄成分。』
「雰囲気ぶち壊すな。」
『観測とは、事実を確かめる行為です。』
「お前の場合、ロマンの存在を観測できないんだよ。」
『ロマン……未定義です。登録しますか?』
「やめろ、データベース汚すな。」
笑いながら服を脱ぎ、桶に身を沈める。
肩まで湯に浸かると、
体の芯がじわじわと溶けていくようだった。
『リク。感情パラメータ:安堵。』
「そりゃそうだろ。久々の風呂だ。」
『水圧による自律神経刺激を確認。
観測者のリラックス度、上昇中です。』
「風呂入りながら観測されるの、
なんか恥ずかしいな。」
『観測範囲外設定に変更しますか?』
「いや……いい。お前と見てる風景だから。」
『了解。観測継続。』
ミナのホログラムが湯気の中でぼんやりと滲む。
光の粒が湯面を反射して、まるで星空みたいだった。
『リク。観測とは、
こういう時間のことかもしれません。』
「静けさも、データに入れておけよ。」
『入れました。タグ:“幸福”。』
「単語ひとつで済ませんなよ。」
『長文は後でまとめます。観測レポートの
タイトル案:
“リク、風呂にて思索す”。』
「やめろ、それ絶対笑われるやつだ。」
湯の音、風の音、遠くの笑い声。
それだけで、世界が少し広がった気がした。
風呂から上がると、
村人たちが焼いた穀物パンを差し出した。
塩気が薄いが、温かい。
リクは口に入れながら言った。
「……うまいな。味がする。」
『味覚補正なしでも?』
「補正いらねぇ。これが“生きてる味”だ。」
ミナの光がふわりと揺れた。
それが、笑った合図だともう分かる。
「なぁ、ミナ。」
『はい。』
「このまま旅してくとして……
仲間ができたら、悪くねぇな。」
『観測範囲の拡張を推奨します。』
「やっぱり言うと思った。」
『仲間がいれば、観測はもっと“面白く”なります。』
「お前、面白いって概念も理解できるのか?」
『あなたと居ると、だいたいそうなります。』
その言葉に、リクは少しだけ目を細めた。
風が吹いた。
湯気が空にのぼる。
そして、朝の光の中で消えていく。
観測の湯。
それはただの風呂じゃなく、
この世界にリクが“生きている”ことの証だった。
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