第4話 観測ログ03:転移閾値

――チリン。


三度目の音が鳴った瞬間、

重力が、ふっと軽くなった。


『リク、重力波パターンが収束を開始。臨界値です。』


「待て、マグカップが浮いてる!」


カウンターの上で、コーヒーが球になって漂う。

真空でもないのに、浮かぶコーヒー。

重力が“反転”している。


『境界層が反転しています。

 観測面の裏側への転移が始まっています。』


「裏側って、どこの裏だよ!」


言い終わる前に、床が“裏返った”。

視界が下から上へ貼り直され、

ミナのホログラムがぶれて、消えた。


――音。匂い。重力。


目を開けると、そこは青空の下だった。


反射的に腰の通信機を叩く。


「こちらセクター7《コメット》。

 応答願います。聞こえるか、誰か。」


ノイズすら返ってこない。

静まり返った空の下、風だけが、

妙に生々しく吹き抜ける。


その瞬間――


『……リク、聞こえていますか。』


「――ミナ!」


思わず声が出た。

つい先程まで聞いていた声が聞こえただけで、

こんなに安堵するものなのか。


「おい、ミナ。通信、繋がるか。」


『聞こえています。ですが――おかしいですね。』


「何がだ?」


『通信は確立していますが、

 あなたの座標は通信圏内に存在しません。

 理論上、私はあなたへ信号を送れない

 位置にいます。』


「……つまり、繋がってるのに、繋がってない?」


『はい。不整合が発生しています。』


「ややこしいな。」


『観測の破綻は、しばしば“物語の始まり”です。』


「また詩的なこと言うな。」


会話してるうちに、ようやく少し冷静になる。

足元の土の感触。重力も正常。空気も――吸える。


『リク、未知環境での呼吸は危険です。』


「もう吸っちまったよ。」


『……了解しました。観測ログに記録します。』


「……お前、今どこにいる。」


『私はコメット――セクター7の

 中枢システムにいます。』


「じゃあ、なんで話せる。」


『リクの携行端末との量子リンクだけが、

 転移の衝撃に耐えたようです。

 本来なら断絶すべき経路ですが、

 観測経路の一部が“生きています”。』


「つまり、通信はできるけど、お前自身は来てない。」


『はい。私はステーション側に留まっています。

 ただ、あなたの視界・音声・感覚データは

 リアルタイムで受信・解析可能です。』


携行端末の投影口から、ふわりと光が立ち上がった。

ミナのホログラムが再構成される

――カフェ《コメット》の接客用エプロン姿のまま。


「……おお、ミナ!」


思わず声が出た。

異世界に放り出されたこの状況で、

見慣れた姿がそこにあるというだけで、

胸の奥がじんわりと温かくなる。


『はい。通信は確立しています。』


「よかった……お前の姿が見えるだけで、

 少し落ち着く。」


『そう言っていただけて光栄です。』


ホッと息をついたそのとき、

ようやく細部に気づいた。


「よりによって、こんな時にエプロンのままかよ。」


『失礼しました。

 ホログラムの服装データを削除し忘れました。』


「宇宙服の方が様になるぞ。」


『コーヒーの抽出には、こちらが適切です。』


「……淹れる相手、今は俺しかいないけどな。」


『それで充分です。』


「はいはい。」


――ようやく、いつもの空気に戻った気がした。


「……なるほど。観測支援AIは、

 どこまでも“観測する”ってわけだ。」


『観測とは、存在を確認し続ける行為です。

 私の仕事です。』


「頼もしいねぇ。」


喉が乾いた。酸素センサーを叩く。表示は21.3%。


「酸素、地球とほぼ同じ……いや、

 ここは地球じゃない。」


『大気成分・圧力・温度・湿度、

 いずれも人間の生存域です。』


「助かるが、気味は悪いな。」


「ミナ、帰還ルート。あるのか。」


『転移経路を追跡中ですが、再現性は不明です。』


「不明ってのは、帰れないって意味か。」


『正確には、“帰る経路がまだ定義されていない”

 状態です。』


「要するに、迷子だな。」


『観測的には、はい。』


 乾いた笑いが出た。


「観測の旅どころか、これは遭難だろ。」


『遭難ログを作成しますか。』


「作るな。」


風が頬を撫でた。

現実の風だ。重力もある。空気も吸える。


でも――帰り道はない。


「……ひとつ確認。もし俺が帰れないと、

 俺はどうなる?」


『あなたは、観測結果として“そちら側”に

 定着する可能性があります。』


「観測結果、ね。」


『ですが、観測が続く限り、

 あなたは“存在”し続けます。』


「詩的なことを言うな。消えはしない、ってか。」


『はい。少なくとも、私の観測範囲からは。』


「それで十分だ。」


その声が、ほんの一瞬だけ柔らかくなった気がした。


呼吸を整える。三、三、三。

宇宙服の中で何度もやったやつだ。


「状況整理。ここは“異世界”。俺は“転移”。

 ミナは“通信”。合ってるか。」


『合っています。俗に言う“異世界”です。』


「転生じゃないのは、まだ死んでないからだな。」


『はい。まだあなたの生体反応は確認できています。』


「結構。」


 空を見上げる。これでもかというほど、青い。

 観測できないほど、青い。


『リク、遠方に構造物のような反応。

 距離、約一・二キロメートル。』


「帰還の手掛かりか?」


『不明ですが、観測価値は高いと思われます。』


「……行ってみるか。」


『賛成します。ただし警戒を。

 未知の環境では、観測者も観測されます。』


「相変わらず、怖いこと言う。」


『事実です。』


エプロンのポケットを探って、工具束を確かめる。

トルクレンチ、ケーブルタイ、小型スパナ。

そして、いつのまにか混ざっている

コーヒー用の温度計。


「よりによって、エプロン姿の時に

 異世界に来ちまったのかよ。」


『勤務直後の服装データを確認。

 豆の微粒子が付着しています。』


「細かい分析すんな。恥ずかしいだろ。」


『観測とは詳細を記録する行為です。』


「観測にも空気読めって機能を追加しとけ。」


『検討します。』


「異世界転生の話なんかするんじゃなかったな。

 こんなことが実現するなら、

 宝くじが当たる話でもしておけばよかった。」


『確率的には、どちらも同程度の非現実性です。』


「だろうな。こっちは当たったけどな。」


笑わなきゃ、やってられない。

笑えば、少しだけ歩ける。


「帰り道が分からないなら――観測しながら探す。」


『観測モードを“探索”に切り替えます。』


「迷子の観測者、出発だ。」


『了解しました。』


ミナの光が、嬉しそうに一度だけ揺れた。


草の匂い。

土の柔らかさ。

遠くで、白い花が風に揺れる。


『追記。構造物方向、微弱なエネルギー反応。』


「生きてるのか。」


『“誰か”か、“何か”です。』


 俺は一歩、踏み出した。


午後三時。

世界は、もう完全に“こちら側”へ身を乗り出している。


 ――冒険の匂いが、確かにした。

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