第5話 コーヒーは異世界でも焦げる

目を開けたら、空がバカみたいに青かった。

青すぎて、一瞬ディスプレイの輝度を疑ったほどだ。


「……ミナ。これ、現実か?」


『定義が難しい質問ですね。

 ですが、あなたは今“存在”しています。』


「うん。そういう返しが現実っぽいな。」


草原の風が頬をなでる。

地球と違って、匂いが少し甘い。

草の匂いに、柑橘っぽい香りが混ざっている。

生乾きの洗濯物のにおいに近いかもしれない。

……いや、言い方が貧乏くさいか。


『気温は摂氏二十三度、湿度五十二パーセント。

 快適です。』


「だろうな。俺が寝転がってるのが証拠だ。」


『日焼けしますよ。』


「AIに肌のケア心配される日が

 来るとは思わなかった。」


ミナのホログラムが隣に立っている。

エプロン姿のまま、やたらと絵になる。

草原の中のカフェ店員ってどういう状況だよ。


『観測データの記録を開始します。

 異世界環境下における第一次調査――』


「ミナ、もうちょっと空気読もうな。」


『空気データなら既に採取済みです。』


「そういう意味じゃねぇよ。」


言いながら、カップを口に運ぶ。

……あ、ないんだった。


エプロン姿でも、さすがにコーヒーまでは

転送されてない。


『コーヒーを抽出しますか?』


「できんのかよ。」


『携行端末の電力を一時的に転用すれば可能です。』


「命よりコーヒー優先するAIってどうなんだ。」


『観測者の平常心を維持するための行為です。』


「はいはい、そういうことにしとこう。」


手をかざすと、ミナのホログラムが手際よく動いた。

虚空にカップを置く仕草。湯を注ぐ音。

――次の瞬間、湯気が、ほんの少しだけ“現実”の

空気を揺らした。


「……おい、今の、見えたか?」


『はい。観測データ上も、温度上昇と香気成分を

 確認しました。』


「ホログラムのくせに、実体化してるじゃねぇか。」


『観測者の“信念”が、確率場を

 安定させたのかもしれません。』


「つまり、信じればコーヒーは出る、と。」


『乱暴な要約ですが、概ね正しいです。』


「こりゃ、“とんでもスキル”だな。」


『《観測抽出》とでも命名しますか。』


「言い方が厨二すぎる。」


『命名はリクに委ねます。』


香ばしい匂いが漂う。

確かに温かい。確かに現実。

でも、誰も本当の仕組みを説明できない。


たぶん、それでいい。

観測とは、いつだって“祈り”みたいなものだ。


……と、そこで鼻の奥をかすめる匂いが変わった。


焦げた匂い。

コーヒー豆の焙煎でちょっと火が強すぎたときの、

あの嫌な香りだ。


「ミナ、今、焦げ臭くないか?」


『感知しました。炭素粒子、燃焼性有機化合物

 ……おそらく“煙”です。』


「焙煎ミスかと思った。」


『この環境では、焙煎設備の

 存在確率は0.002%です。』


「統計で夢を壊すなよ。」


風向きが変わり、白い煙が遠くの丘の向こうに見えた。

焚き火、か、何かが燃えている。


『接近は推奨できません。

 未知の存在がいる可能性があります。』


「でも焦げた匂いを嗅いだら、

 確かめずにはいられねぇんだよ。

 整備士ってのは、煙が上がったら覗きたくなる

 生き物なんだ。」


『人間的非合理性、観測しました。』


「はいはい、後でレポート書いとけ。」


立ち上がって、ズボンの膝についた土を払う。

ミナのホログラムが一歩遅れて並ぶ。

風が吹き、エプロンの裾がなびいた。

こんな状況でも、妙に似合ってるのが腹立たしい。


『リク。警告を一つ。』


「なんだ。」


『この世界では、あなたも“観測される側”です。』


「知ってる。見られるのには慣れてる。」


『そうでしょうか?』


「ミナ、お前が毎晩俺の生活記録を

 チェックしてる時点で、慣れた。」


『観測です。』


「盗み見だろ。」


『定義の問題です。』


「屁理屈AIめ。」


笑いながら、俺は煙の方向へ歩き出した。

焦げた匂いが少しずつ強くなる。

草原の緑の中で、煙だけが灰色に揺れていた。


『リク。距離、およそ七百メートル。熱源反応あり。』


「了解。あの煙の正体を確かめる。」


『命の危険を検知した場合、即時帰還を提案します。』


「帰還ボタン、どこにあるんだ?」


『ありません。』


「だろうな。」


笑っても、心臓の鼓動は早い。

でも、怖さよりも、好奇心が勝ってる。

それが整備士の性で、観測者の業だ。


『リク。』


「ん?」


『先ほどの焦げた匂い

 ――コーヒーとは別の種類の燃焼反応です。』


「なんだ、炭か?」


『いいえ。解析結果……有機生命体。』


「……焼き魚じゃないよな。」


『確認が必要です。』


「だな。」


俺は苦笑いを浮かべながら、歩を進めた。

焦げた風が吹く。

ミナの光が、その煙の向こうで一瞬、揺れた。

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