第3話 観測ログ02:境界鳴動

コーヒーの表面に生まれた小さな波紋が、

ゆっくりと消えていった。


ほんの一瞬の揺らぎ――それだけのはずだった。


だが、次の瞬間。

空気の味が、変わった。


焙煎した豆の香りの奥に、

微かに湿った匂い。


それは、ステーションのどこにも

存在しない“地上”の匂いだった。


「……ミナ。今、嗅いだか?」


『はい。嗅覚センサーに“土壌・有機物”のシグナル。

 ステーション内には該当する成分はありません。』


鼻の奥をかすめるような、柔らかい土の香り。

それが現実味を帯びるほど、

現実そのものが遠のく気がした。


「“向こう”が匂いを送ってくるなんて、

 あり得るのか?」


『ない、とは言い切れません。

 境界が滲めば、匂いも音も、色も侵入します。』


「音?」


『来ます。』


 ミナの声と同時に、

 耳の奥で“風”の音がした。


 宇宙には風はない。

 それでも確かに、草が擦れあう音が聞こえた。


「……ミナ。」


『はい。』 


「俺たち、今どこにいる。」 


『ステーション《コメット》、セクター7。  

 座標に変化はありません。』


「じゃあ、“ここ”が向こうに寄ってきてる。」


『その仮説、妥当です。こちらが向こうへ

 移動するのではなく、観測の焦点が“ここ”に

 世界を引き寄せています。』


「ややこしい言い方しやがって。」


『ややこしい現象ですので。』


 軽口を交わす。

 怖さを測るための儀式みたいなものだ。

 冗談が言えるうちは、まだ“こちら側”に立っている。


『リク。外部反応に含まれる

 単語“観測したくなる”の寄与度が高いです。』 


「つまり、向こうはまだ観測を続けたがってる。」


『はい。』


「だったら、こっちも準備をしておくか。」


俺はエプロンのポケットから工具束を取り出した。

整備士時代から手放したことのない相棒たち。


トルクレンチ、ケーブルタイ、小型スパナ、

そして、いつのまにか混ざっている

コーヒー用の温度計。


『どこへ行くおつもりですか。』


「どこでもない。ここを整えておく。

 何かが通るとき、緩んだボルトは事故の元だ。」


『合理的です。』


その瞬間、店内の奥で“チリン”と風鈴が鳴った。


宇宙で風鈴。馬鹿みたいだが、

気圧変動のモニタ代わりに吊ってある。

風が吹くはずもないのに――確かに、揺れた。


コーヒーの香りが再び変わる。

今度は花の匂い。

名も知らない、小さな白い花。


「……来るな。」


『はい。重力波、二次波到達。

 観測面の重なり、増加中。』


「“重なる”ってのは、どういう感じだ。」


『川に薄氷が張るように。

 溶けて、また固まって、厚みを増します。』


「例えがうまいな。」


『ありがとうございます。

 リクの比喩を学習しました。』


怖いのに、笑ってしまう。

人間は笑うことで、世界に耐える。

AIは学ぶことで、世界に耐える。


『リク。あなたの脈拍が上昇しています。』


「そりゃ上がるだろ。」


『呼吸を整えてください。三

 秒吸って、三秒止めて、三秒吐く。』


「……はいはい。」


呼吸を整える。

三、三、三。

宇宙服の中で何度もやってきたリズムだ。


――チリン。


二度目の音。

コーヒーの表面が、はっきりと揺れた。


揺らぎの中に、一瞬、知らない空の色が映る。

青でも黒でもない、ただ“向こう”の光。


『――記録。観測層の境界、臨界に接近。』


「ミナ。」


『はい。』


「目を離すな。」


『離しません。』


午後三時。

世界が、ゆっくりとノイズを帯びはじめた。


静かなカフェ《コメット》は、

いつも通りコーヒーの香りで満ちている。


だが、その香りの底に――

土と草と花の匂いが、確かに混じっていた。

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