第44話 転移

 ワタリが目覚めた時、彼女は暗がりのなかにいた。


「ここ、どこ――確か、病院から帰るとき、ヘンな人たちが――。

 助けてよ、お兄、雫にぃ」


 昔、兄が不在の時に雫が来てくれたことがある。


『なんだ、コウのやついないのか。

 お腹空いたって、――まぁあり合わせでよければ作るよ』


 とか言いつ、自分で買いだしてきた材料とカセットコンロを持ち寄って、もとから兄にも振る舞うつもりだったろう鍋物を作ってくれたことがある。あのプレハブ小屋での数少ない優しい思い出だ。あのひとは自分で自覚していないだけで、随分人懐っこいところのあった。

 そうして初恋だった私のあのひとは、いつの間にか私たちの元を去ってしまったけれど、忘れることなんてできない。


「閉じ込められてる、誰か!?

 誰か助けてください!」


 何度もコンテナの内側から叩いたものの、誰もやってくる様子はない。

 私なんかを攫って、何になるってのだろう。

 うちの生活は安定こそしていれど、兄の懐や稼ぎを考えると、身代金目的とは考えにくい。治療費を掠め取りたいなら、病院に行く直前を狙うべきだろうし……細かいこと考えたってわからないし、閉じ込められたうえに近くに誰の気配もないことは、彼女の焦燥を募らせていくばかりだった。


「――」


 昔、雫が言っていたことを思い出す。


『お兄は自分のことなんて、どうでもいいんだよ。

 そのくせ私にはああしろこうしろ、やかましいし。

 雫にいは大きくなったら、なにになりたい?』

『そういうの、よくわからないままだ。

 自分でもどうかと想うんだけど』

『ぼんやりしてるもんね』

『自覚は、あるから。

 ……このままでい続けるなんて、難しいんだろうな。

 コウのやつは、あんまり俺のことを好きでもないのに、無理に友達って言ってる。

 本当は俺から離れたがってることくらいわかってる』

『そんな――お兄は』

『いや、いいんだワタリ。

 お互いを嫌いになるとか、そういうこととは違う。

 距離を置いてはじめて、客観的に見れることもあるらしい。

 コウにとっていまの俺は、きっと重荷なんだ』

『そんな、こと』

『額縁の外へ、行こうかな。

 今は眼も見えて、諦めていたことのいくつか、手が届くようになって……あいつは右も左もわからない俺を率先して引っ張っちゃくれてたけど、あいつに頼りきりになる前に、ここから離れようと想ってる』

『そんなの、やだ。

 雫にぃが額縁の外へ行っちゃうなら、私も一緒に行く』

『そりゃダメだろ』

『なんで、私の身体が弱いから!?』

『――、じゃなくてな。

 買おうとしてるバイクが、一人しか乗れないやつなんだ』

『ぐぬぬぬ……二人乗りの買えばいいじゃん』

『その効果音、マジで口にするやつ初めて見たな。無茶言うな、ものの値段を知ってから話せ。

 まぁもしそういう日が来るようなら、ちゃんとワタリには挨拶しにくるから、安心しなよ』


 そう言って彼は、ぽんぽんと少女の頭を無造作に撫でた。

 なのにあの人は何も言わず、私たちの前から消えた――最初は約束を忘れてしまったんだと想ったけど、それ以前の問題だ。

 雫にぃの人生を、バカ兄が奪ってしまった。



 外からは、知らない生き物らの鳴き声がする。

 額縁市ではありえない。幻獣だとして、それに触れられるような場所など限られている。


「まさか迷宮巣ラビリンスネストの向こうなの?

 お兄と雫にぃたちが、近くに――どうやったら」


 だけれどよくよく考えたら、今の兄は信用ならない。

 雫のことを額縁市の幻獣対策課へ落とし仔として密告し、その対価に私の治療費を受け取った。


「雫にぃに、会いたい。

 会って、話したいよ……」



 空気の質が、さっきまでの冷たいコンテナとはうって変わって、湿気を伴った生臭いものに変わる。場所自体が、いつの間にか置き換わったかのよう――、


「なにが、起きたの?」


 そこは大きく縦に伸びた洞穴だった。



「巨人たちの全高が個体差こそあれ、おおよそ三十メートルから四十メートル前後――対するこちらは高くて八メートルくらいか、ケラティオンや実行部隊の軍用機でさえ、向かって敵と判定された場合は文字通り踏み潰されかねません。結界の向こうのことは、領域へ入ってみなければわからない。

 無事に帰れる保証がないのに、自分や部隊をノリで巻き込むのは無責任でしょう。ワタリひとりの命と、ここにいる各々の命、どちらかを諦めろとまでは言いませんが……部隊が動けば、迷宮巣を越えてそれこそ国際問題に発展しかねない。

 ここにいる誰が、そういうリスクのすべてを負えるんですか?

 先輩はそのつもり、ないでしょう」

「それは――」

「だからコウに、押し付けてやることにしたんです。

 あいつが全ての責任をしょい込んだとき、最後に残るものはなんなのか。俺が興味あるのは、それだけなんです」

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