第二部 境界の銃声
4. 茂みの静寂
慎吾は遊水池の土手をゆっくりと下りて行った。湿地特有の泥と草の匂いが鼻をつく。日没まであと一時間を切っている。この時間帯は、獲物が最も活発になる「逢魔時」であり、人間にとっては視界が急激に悪くなる危険な時間だ。
ライフルの安全装置を外し、慎吾は一歩ずつ茂みの縁を進む。彼のブーツは訓練された足音を立てず、獲物を追うマタギの動きそのものだった。
茂みは、高さ二メートルほどの葦や雑木が複雑に絡み合ってできていた。その奥深く、湿地に面した場所に「牙持ち」は潜んでいるはずだ。
「牙持ち」の行動は、通常のクマとは異質だ。普通、クマは人の気配を察すれば逃げる。しかし、この個体は「居座る」。それは、彼がもはや山を安住の地として見ていないことを意味した。
慎吾は、ふと五日前のニュースを思い出した。人身被害に遭った男性が、搬送される寸前に呟いた言葉。
「逃げなかった。あいつ、俺を見て、笑ったんだ」
笑うはずがない。クマの表情筋は人間とは違う。しかし、その言葉が示すのは、クマが人間を脅威と見なさなくなったという、恐ろしい事実だった。
慎吾は草を踏みしめないよう、身体を低くして移動する。五感すべてを研ぎ澄ませる。風は南東から。クマの匂いが強くなる。
その時、茂みの奥で微かな音がした。それは、何かが湿った土を深く踏みつける音。そして、低く、喉を鳴らすような唸り声。
慎吾は膝をつき、ライフルを構えた。距離はせいぜい十五メートル。茂みの隙間から、黒い塊の一部が見える。体格は想像以上に大きい。まるで黒い岩が横たわっているようだ。
「牙持ち」だ。
慎吾は、スコープを覗き込み、慎重に獲物を追った。この距離なら、確実に心臓か脳幹を狙える。だが、茂みが邪魔で、急所が定まらない。彼に必要なのは、クマが完全に姿を現す一瞬だった。
茂みの外、規制線の向こうでは、里村梓が不安げにこちらを見つめているのが、ぼんやりと見えた。彼女のカメラが、この一瞬を世界に切り取ろうとしている。
5. 迷いの引き金
待機は五分、十分と続いた。慎吾の指は引き金にかけられたまま、冷たく硬直している。
クマが茂みの奥から出てこない。警戒しているのか、それとも単に休んでいるのか。
もしここで撃てば、弾は茂みを貫通し、狙いが逸れる可能性がある。傷つけた場合、クマはパニックを起こし、市街地へ突進する。結果、負傷した獣を追いかける「追い狩り」となり、二次被害の危険性が跳ね上がる。
慎吾は無線機に口を近づけた。
「吾妻さん。出てこない。このまま日没になったら、撤退しかありません」
『慎吾、待て。よく聞け』吾妻の声が、低く落ち着いたトーンで返ってきた。『お前がそこにいること自体が、クマには分かっている。奴は、お前が動くのを待っている』
「動けば、逃げるか、突っ込んでくるか…」
『どちらにせよ、出てくる。お前は今、獲物と一対一だ。周りの人間のことは忘れろ。お前がやるべきことは、境界を守ることだけだ。命のやり取りを恐れるな』
吾妻の言葉は、まるで何十年も前のマタギの山の教えのようだった。現代の「有害鳥獣駆除」というドライな言葉とはかけ離れた、命の重さを背負う者の覚悟を促すものだった。
その瞬間、茂みが激しく揺れた。
バリ、バリバリッ!
「牙持ち」が、ついに動き出した。遊水池の縁にある柿の木に向かって、わずかに移動したのだ。
慎吾のスコープに、黒い毛皮がはっきりと捉えられた。クマは直立した。二メートルを超える巨体が、夕日を背にそそり立つ。その姿は、まるで都市の風景に忽然と現れた、古代の神のようだった。
絶好のチャンス。心臓の真上、生命の源を射抜く一発。
慎吾が引き金を絞り込もうとした、その時だった。
「キャーッ!」
茂みの外から、女性の悲鳴が上がった。
6. 予期せぬ闖入者
何が起こったのか。慎吾は反射的に銃口を下げた。悲鳴は一つではない。複数だ。
「何だ! 誰か規制線を破ったか!」小山内課長の怒号が無線から響く。
『遠野さん! マスコミが…里村記者が、茂みの反対側から回り込んで、シャッターを切ろうと…』水野の絶叫が混じる。
茂みの向こう側。そこは規制線の内側だったが、警察官の目が薄い場所だった。おそらく里村梓は、至近距離で「駆除の瞬間」を撮るため、カメラマンと共に強行突破を図ったのだろう。
悲鳴を聞いた「牙持ち」は、直立した体勢から、四つ足に降りた。そして、獲物がいる方角、つまり里村梓たちのいる方向へ、地を這うように猛スピードで向かい始めた。
ドォン! ドォン!
巨大な体躯が、茂みの木々をなぎ倒していく音。方向は完全に里村たちだ。
慎吾の脳裏に、吾妻の言葉がよぎる。「外して暴れさせたら、周辺の住宅街はパニックになる」
だが、今、彼は引き金を引けない。もし流れ弾が里村記者やカメラマンに当たれば、それは「駆除」ではなく「殺人」になる。慎吾の背負う重みが、彼の指を硬く縛り付けた。
「牙持ち」は茂みを抜け、里村梓の目の前に躍り出た。その瞬間、慎吾の目に、クマの右耳の裂け目がはっきりと見えた。
里村はカメラを地面に落とし、逃げようとするが、足がもつれて転倒した。その上から、「牙持ち」の巨大な前足が振り下ろされようとしていた。
時間は、限りなく遅く流れた。
7. 決断と射撃
慎吾は叫んだ。「吾妻さん! 援護を頼む!」
そして、自身は茂みを飛び出した。全速力で「牙持ち」の横腹に向けて走る。弾道上から里村梓を外し、かつクマの注意を自分に引きつけるためだ。
「牙持ち」は、里村を獲物と認識していた。しかし、背後から接近する新たな脅威、慎吾の存在に気づき、動きを止めた。
唸り声が、地を震わせる轟音に変わる。
慎吾と「牙持ち」の目が合った。その瞳は、深淵の闇のように黒く、いかなる感情も読み取れない。
「牙持ち」は、里村から注意を外し、慎吾に向かって突進してきた。
この瞬間を待っていた。
慎吾は立ち止まり、訓練された一連の動作でライフルを肩に固定した。照準器には、黒く巨大な肉塊が、猛烈な勢いで迫ってくる。距離、十メートル、八メートル。
絶対に外せない。
もしここで外せば、自分が死ぬ。そして、背後にいる里村も、この後この街の誰かも、命を落とす。
慎吾は、吾妻の教えを思い出した。「狙うな。合わせろ。お前の身体が、銃の一部になれ」
呼吸を止め、引き金を絞った。
ドォン!!
一発の銃声が、静まりかえった住宅街に響き渡った。
反動と共に、慎吾の身体がわずかに後退する。
「牙持ち」は、突進の勢いを失い、その場で前のめりに崩れ落ちた。巨大な体が地面を打ち、土埃が舞い上がった。
慎吾は瞬時に二の矢を装填したが、その必要はなかった。弾丸は、首の付け根、脳幹と脊髄を結ぶ一点を正確に貫通していた。
「牙持ち」は、二度と動かなかった。
沈黙が、一瞬、辺りを支配した。
規制線の向こうから、遅れて数発の銃声が響いた。吾妻義一が、万が一に備えて威嚇射撃を行った音だ。
慎吾はライフルを下げ、よろめきながら「牙持ち」の隣に座り込んでいる里村梓に駆け寄った。
「大丈夫か」
里村は、顔を真っ白にして、ただ震えていた。彼女の手にはカメラはなく、その視線は、倒れ伏した巨大な獣の死体に釘付けになっていた。彼女の足元には、クマの爪がかすめたのか、泥とわずかな血が付着していた。
警察官や水野が駆け寄ってくる。歓声も、安堵の声も、誰も上げなかった。
ただ、目の前にあるのは、都市の境界で、人間の手によって命を奪われた、一つの野生の終わりだった。
慎吾は立ち上がり、ライフルを安全装置に戻した。
「水野、駆除完了だ。あとは警察と連携して、慎重に回収作業を行ってくれ」
彼の声は低く、疲弊していた。それは勝利の宣言ではなく、重すぎる任務の終了報告だった。
(続)
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