第三部 残された境界

 8. 夜明けの波紋


 「牙持ち」の駆除が完了したのは、午後七時を回る頃だった。夜の闇の中、警察官や市の職員たちが、特殊な運搬用ネットでその巨大な死骸をトラックに積み込む作業を粛々と行った。その間も、規制線の外側には、市民やマスコミの群衆が押し寄せ、現場の異様な緊迫感は夜通し続いた。


 遠野慎吾は、吾妻義一と共に、そのすべての作業が終わるのを見届けた。里村梓記者は軽傷で済み、警察の事情聴取を受けていたが、彼女の顔には恐怖以上に、何か重いものを目撃した者の動揺が張り付いていた。


 翌朝、慎吾の携帯電話は鳴りやまなかった。


「遠野さん、おめでとうございます! 市民のヒーローだ! しかし、一部の団体から猛烈な抗議が来ています。なぜ麻酔銃を使わなかったのか、なぜ市街地で発砲したのかと」


 水野雅人の声は、昨夜の憔悴から一転、高揚と自己防衛の入り混じったものになっていた。


「麻酔銃は、あの巨体には効くまで時間がかかる。突進されたら終わりだ。それに、夜間の住宅地で、誰が麻酔の効いた獣を追いかける?」慎吾は冷たく言い放った。


「もちろんです! 我々もそう説明しています。ですが、映像が…」


 里村梓が撮影した駆除の瞬間は、すでに全国ニュースで流れていた。規制線を破った彼女が、死にかけそうになりながら撮り続けた映像は、世論を二分した。


 一方は、市街地に現れた「災害」を食い止めた猟友会の勇敢さを称賛した。もう一方は、「可愛そうなクマを、無益な暴力で殺した」と、慎吾の行為を非難した。特に、クマが里村記者に突進し、その寸前で撃たれる映像は、感情論に火をつけた。


 慎吾はため息をついた。彼は英雄になりたかったわけでも、世論に裁かれたかったわけでもない。ただ、彼が守ると決めた境界線を越えさせない。それが彼の任務だった。


 9. 吾妻の茶室


 その日の午後、慎吾は吾妻義一の自宅を訪ねた。


 吾妻の家には、猟友会の詰所とは別に、小さな茶室のような離れがあった。火鉢にかけられた鉄瓶から静かに湯気が上がり、沈黙を破るのは松の薪が燃える音だけだった。


 吾妻は何も言わず、慎吾の目の前に湯飲みを置いた。


「昨夜はご苦労だった、慎吾。よくやった」


「ありがとうございます、吾妻さん」慎吾は湯飲みを両手で包み込んだ。「しかし、撃ったのは、里村記者を助けるためだったのかもしれない。純粋な『駆除』ではなかった」


 吾妻は静かに首を振った。


「違う。里村記者に突進した時、お前が撃つべきは彼女ではなかった。里村記者は、お前が引き金を引かなくても、あのクマを止めることはできなかった。お前が撃ったのは、この街の安全だ。あの娘一人を助けるためではない。境界を、元に戻すためだ」


「境界、ですか」


「そうだ。山と里の境、人と獣の境。その境界が曖昧になった時、人が獣を恐れなくなり、獣が人を恐れなくなる。今回、『牙持ち』はその境を完全に踏み破ってしまった。もしお前が撃たなければ、奴は『市街地でも安全だ』という情報を他のクマに伝えていただろう。お前の一発は、他のクマたちへの警告でもある」


 吾妻は、湯飲みから目を離さず、ゆっくりと続けた。


「我々マタギはな、獲物を撃つ時、常に自問する。『なぜこの命を頂くのか』と。山で獲る命は、我々が生きる糧となる。だが、お前が昨日撃った命は、我々が『人として生きる』ための秩序を守るためだ。お前は昨日、命を奪うことで、より多くの命を守ったのだ」


 その言葉は、慎吾の胸の内にあった重い石を、少しだけ軽くした。


「ですが、吾妻さん。私は、彼らの命を奪った。あのクマの、恐怖と絶望の瞳を忘れられそうにありません」


「忘れなくていい」吾妻はきっぱりと言った。「忘れるな。それが、お前が猟師である証拠だ。もしお前が、躊躇なく、喜びを感じて撃つ人間になったら、その時こそお前は銃を置くべきだ。お前の葛藤こそが、お前を『猟師』たらしめている」


 吾妻は湯飲みを手に取り、静かに茶を飲んだ。その背中には、古の狩人の深い哀愁と、責任感が滲んでいた。


 10. 境界の向こう側


 数日後、里村梓が、慎吾の勤務する林業会社に訪ねてきた。彼女は昨日までとは違う、普段着の地味な服装で、カメラも持っていない。


「遠野さん、お忙しいところすみません」梓は頭を下げた。


「怪我は大丈夫か」慎吾は問うた。


「はい。かすり傷だけです。あの……私は、あなたに謝りに来ました。私の不用意な行動で、あなたは命の危険に晒された。そして、駆除が失敗していたら、多くの市民が危険に晒されていました」


 梓の言葉は、以前の攻撃的な記者としてのそれとは異なっていた。


「気にするな。あれはお前の仕事だ」


「いいえ。あれは仕事じゃない。ただの暴走です。私は、人々の恐怖を伝えようとしていたのに、自分自身が最大の恐怖の源になりかけた」


 梓は慎吾を真っ直ぐ見た。


「私は昨日、あなたのインタビューを組みました。あなたは『市街地への出没は、人間が山に無関心になった結果でもある』と話した。そして、あなたは一瞬の躊躇もなく撃った。その両方が、私には矛盾しているように見えていました」


 慎吾は、木材の山にもたれかかり、静かに答えた。


「矛盾ではない。これは、共存の限界だ。山と里は、本来つながっている。だが、そのつながりを人が忘れ、山が荒れ、クマがエサを求めて里に降りてくる。俺たちは、その結果に責任を取っているだけだ」


「駆除は、責任の取り方……ですか」


「そうだ。駆除は、クマを殺すことじゃない。クマに殺された人間、明日を怯えながら生きる市民、そして、この街で生きていくすべての命に対する責任だ。俺は、あのクマの命を無駄にはしない」


 慎吾は、そう言いながら、梓に小さな木片を差し出した。それは、彼が作業中に削り出した、クマの爪の形をしたペンダントだった。


「これは?」


「あいつの、最後の証だ。お前は境界を間近で見た。忘れるな。お前はそれを伝える義務がある」


 梓は、その木片を握りしめた。彼女の目には、もう批判的な光はなかった。ただ、何かの啓示を受けたかのような、静かな決意の色が宿っていた。


 11. 残された境界線


 数週間後、街は平穏を取り戻していた。


「牙持ち」の駆除成功のニュースは沈静化し、世論の関心はすでに次の出来事へと移っていた。しかし、駆除が行われた遊水池周辺には、市によって新たに高さのある柵が設置された。


 慎吾は、吾妻から譲り受けた山小屋で、次の冬に備えて猟銃の手入れをしていた。彼は、この冬も山に入り、山の恵みを頂く伝統的な狩りを行う。それは、市街地での「緊急狩猟」とは全く異なる、敬虔な儀式だ。


 窓の外を見れば、紅葉が終わり、雪が降る気配が近づいている。


 慎吾は、ライフルを磨き上げながら、再び吾妻の言葉を思い出した。


『お前の葛藤こそが、お前を「猟師」たらしめている』


 慎吾は、もはや「牙持ち」の瞳を恐れてはいなかった。その命を背負い、その重みを抱きしめることで、彼は自分の役割を深く理解した。


 市街地で撃つことが、彼に課せられた、現代のマタギとしての宿命だった。


 彼は猟銃をケースに収め、小屋の扉を開けた。冷たい山風が、彼の顔を撫でる。


 遠く、街の灯が見える。


 慎吾は知っている。山と里の境界線は、柵や規制テープでは守れない。その境界は、彼の心の中、そして彼が引き金を引く一瞬の決断の中にある。


 獣を撃ち、獣の魂を鎮め、人々の安寧を守る。


 遠野慎吾は、静かに、そして力強く、その境界に立ち続けた。

(完)

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緊急銃猟 森崇寿乃 @mon-zoo

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