緊急銃猟
森崇寿乃
第一部 市街地の獣
1. 破られた静寂
電話が鳴ったのは、遠野慎吾が工場の休憩室で午後のコーヒーをすすっている時だった。四〇年の生涯で、これほど重い電話は記憶にない。
「遠野分会長、すぐに出られますか。状況が、もう、最悪です」
受話器の向こうで、市の危機管理課職員である水野雅人の声が、上擦って震えている。慎吾は無言で立ち上がり、作業着の袖をまくり上げた。時計は午後三時を指している。まだ陽が高い時間帯だというのに、市街地の空気が恐怖で淀んでいるのが想像できた。
「どこだ。河川敷か?」
「いえ、今回は違います。本町二丁目、市立中央公園の裏手です。幼稚園から三百メートル。すでに人身被害が四件——うち一人は重傷で、今朝のランニング中の中年男性です」
慎吾の心臓が鉛のように重くなった。四件。今年の人的被害は、すでに過去十年分を上回っている。そして何よりも、本町二丁目。それは、慎吾が幼少期を過ごした場所から目と鼻の先だ。
「吾妻さんのところには連絡したか?」
「しました。吾妻分会長も事態を重く見ておられますが、現場は住宅密集地で、発砲許可はまだ出ていません。ですが、県庁と市長が緊急対策本部を開き——」
水野は言葉を飲み込んだ。その後に続く言葉が何か、慎吾には痛いほどわかっていた。
「わかった。準備して向かう。だが、水野。いいか、これは追い払いじゃない。発砲許可が出た瞬間、それはもう、戦争だ」
慎吾は一方的に電話を切り、ロッカーから使い慣れた猟銃ケースを取り出した。中には、愛用のボルトアクションライフルが静かに収まっている。銃身に刻まれた傷の一つ一つが、山での誇り高き狩りの記憶だ。しかし、これから使うのは、コンクリートとアスファルトの上で、人間を守るための、悲しい鉄塊となる。
着替えながら、慎吾は今日の標的のことを思い出す。巨大なツキノワグマ。推定体長一八〇センチを超すオス。地元ではいつしか「牙持ち(きばもち)」と呼ばれ始めていた。普通のクマは人間に近づかない。人里に下りても、爆竹や車の音で怯える。だが、この「牙持ち」は違った。人を恐れない。むしろ、人の存在を無視するかのように、市街地の残飯や柿の木を食い荒らし、抵抗する者には容赦なく爪を立てた。
猟友会の大ベテラン、吾妻義一は、これを「新世代熊」だと評した。「あれはもう、山を知らねえ。人を恐れねえ。境を破っちまった獣だ」
慎吾は軽トラックに乗り込み、市街地へと向かった。山から吹き下ろす秋風は冷たいが、彼の背筋を流れるのは、銃を携えて人間に近づくことへの、異様な熱気だった。
2. 緊迫の市街地
中央公園裏手に到着すると、そこはすでに異様な熱気に包まれていた。黄色い規制テープが何重にも張り巡らされ、警察官が神経質な面持ちで群衆を押し返している。規制線の外には、スマートフォンを構えた市民や、三脚を立てたテレビカメラがひしめいていた。
「遠野分会長!」
警察署の地域課長、小山内徹が、疲弊した顔で駆け寄ってきた。
「徹さん。状況は?」
「最悪だ。公園の奥の遊水池の茂みに潜んでいるようだ。警察がドローンを飛ばしたが、深い茂みで見失った。遊水池の向こうはすぐ住宅地。夜になったら、もう手の打ちようがない」
小山内は額の汗を拭う。彼らの努力は無駄ではない。しかし、相手は時速四〇キロで走り、木にも登る巨大な肉食獣だ。警察の装備は、人間相手には有効でも、こういう時ばかりは無力だった。
その時、一人の若い女性記者が、規制線を潜ろうとして警官に制止されていた。地元のケーブルテレビ局の里村梓だ。慎吾は彼女の顔をニュースでよく見ていた。彼女のカメラは、人身被害者の悲痛なインタビューを連日流し、世論を沸騰させている。
「課長、お願いです! 駆除の瞬間を撮らせてください! 市民は知る権利があります!」梓は必死に訴える。
「馬鹿言うな、里村君! 危険すぎる。それに、あんたの撮る映像が、また変な議論を呼ぶんだ!」小山内は苛立ちを隠せない。
「変な議論? 違うでしょう。市民の恐怖と、それを食い止めようとする人たちの現実を伝えるのが、私たちの仕事です!」
慎吾は二人のやり取りを無視し、小山内の耳元で囁いた。
「『牙持ち』はどのくらいの大きさだ?」
「今朝襲われた人の証言では、立ったら二メートルはあったと。体毛が黒々としていて、右の耳が少し裂けているらしい。それが、遊水池の茂みにいる」
慎吾は茂みを見た。草の丈は低いが、密集している。昼間でも視界は悪い。
その時、水野雅人が駆け込んできた。彼の顔は青ざめており、汗でワイシャツが貼り付いている。
「遠野さん! 市長から指示が出ました! 緊急銃猟の許可を発令します! ただし、条件があります。必ず一発で仕留めろ。 外して暴れさせたら、周辺の住宅街はパニックになる。住民の命を保証できない。そして、メディアのカメラの前だ。絶対に、ミスは許されない」
水野はプレッシャーを慎吾に押し付けながら、自分の責任を最小限に抑えようとしているのが透けて見えた。慎吾は水野を真っ直ぐ見つめた。
「水野。俺たちは、人を安心させるための見せ物じゃない。命を懸けているんだ。一発で仕留めるのはプロの
「しかし!」水野が食い下がろうとするのを、小山内が制した。
「わかった、水野。遠野の言う通りだ。現場の判断を優先する。遠野、頼む」
慎吾は深く頷き、吾妻義一がすでに到着している警察車両の陰へと歩いた。
3. 師の言葉とライフル
吾妻義一は、慎吾のライフルケースを検分しながら、既に自身の銃を準備していた。
「遅かったな、慎吾」吾妻の声は低いが、その目はまだ冴えわたっている。
「すいません、吾妻さん。ですが、状況が思ったより複雑です。中央公園の遊水池で、向こうは住宅地。一発のミスで、すべてが終わる」
吾妻は立ち上がり、慎吾の肩に重い手を置いた。
「だからこそ、お前が呼ばれたんだ。この街で、銃を撃つ資格があるのはお前だけだ」
吾妻は、慎吾の愛銃、七ミリ口径のボルトアクションライフルを指さした。
「山で撃つ獣と、街で撃つ獣は違う。山ではな、我々は生きるために獲る。その命に感謝し、その命を尊ぶ。だが、街で撃つのは—— 災害だ」
吾妻は、静かに言葉を選んだ。
「慎吾。お前は、人間の領域を犯した獣を、二度と戻れない場所へ送り返してやるんだ。お前が手を下すことで、この街は安堵を取り戻す。お前のしていることは、狩りじゃない。鎮魂だ。お前自身が、山と里の境界を守る最後の番人になれ」
その言葉は、慎吾の胸の奥深くに響いた。山を愛し、自然を畏敬するマタギの血を引く慎吾にとって、「獣を駆除する」という行為は、常に自問自答の連続だった。彼らは悪ではない。ただ、人間が作り出した環境と、不作の山に追われた結果、この場にいるだけだ。しかし、その結果、人間の命が脅かされるなら、彼が引き金を引くしかない。
「わかりました、吾妻さん。先陣は、俺が切ります」
慎吾はライフルをケースから取り出し、滑らかにボルトを引き、弾倉に弾薬を装填した。弾は五発。これで十分だ。否、これで全てを終わらせなければならない。
彼は迷彩服の上からオレンジのベストを着用し、ライフルを肩にかけた。
「水野、小山内課長。遊水池への侵入経路を確保してくれ。風向きは?」
「南東からの微風です」水野が答える。
「よし。吾妻さん、俺が茂みの手前で獣道を封鎖する。あなたは遊水池の対岸から、もし逃げ出したら援護を頼みます」
「わかった。命綱は外すなよ」
慎吾は小山内から地図を受け取り、遊水池へと続く細い道路を歩き始めた。規制線の外では、里村梓がカメラマンと低い声で打ち合わせをしているのが聞こえる。
「………遠野慎吾さん、四〇歳。地元の猟友会分会長。これから、彼は、この住宅街で、あの巨大なクマを………」
彼女の声は震えていた。恐怖か、それとも興奮か。
慎吾は一つ深呼吸をし、茂みへと足を踏み入れた。コンクリートの道は終わり、湿った土の感触がブーツの底に伝わる。草の匂いと、動物独特の、濃密な獣臭。
「牙持ち」は、そこにいる。
この狭い、人間に支配された空間で、彼は最後の、そして最も悲しい狩りを始めようとしていた。太陽は少しずつ傾き始め、オレンジ色の光が遊水池の表面を不気味に照らし出していた。
(続)
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