第一章 光の子は眼球に入ってくる

夜空を見上げるとき、

 我々は宇宙を外側から見ているつもりでいる。

 だが実際には、光子即ち、光の子たちが眼球に入り、私たちの内部へと帰還しているのだ。


 星の光はを電気的媒質(プラズマの薄層)を渡り、眼の水晶体を通って網膜へと到達する。

 その瞬間、光は外界の粒子ではなくなり、

 “内界の像”として再構成される。

 つまり、星は外ではなく、脳の内部で再誕している。


 この現象を単なる視覚反応として片づけるのは簡単だ。

 しかし、観測という行為の本質を問うならば、

 光の入射点こそが宇宙の再構成点である。

 眼球は単なる感覚器ではなく、

 **宇宙を自己反射させる導管(luminous conduit)**である。



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Ⅰ.光の子たち ― 自己観測粒子


 古代の人々は、星を“神の子”と呼んだ。

 それは単なる信仰ではない。

 光とは、観測する意識の断片だからだ。

 すべての光子は、宇宙が自己を観測するために放った“信号子”である。


 光の子は、宇宙の記憶を抱え、

 時空を横断して観測点へ向かう。

 そして眼に触れた瞬間、情報は反転する。

 外の宇宙が内へ入り、

 内の意識が外を創る。

 その交点に、「見る」という現象が生まれる。


 見ることとは、光が“帰る”こと。

 それは、外界の情報を得る行為ではなく、

 宇宙が自己の一部を再接続する**帰還儀礼(Ritual of Return)**である。



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Ⅱ.眼球 ― 宇宙の縮図


 眼球の構造を観察すると、そこには驚くほど宇宙的な秩序がある。

 硝子体管は北極と南極を結ぶ地軸のように貫通し、網膜は夜空の星々のように光を受け止める膜である。

 虹彩は惑星の大気のように光量を調節し、

 視神経は銀河間電流のように情報を伝送する。


 つまり、眼球とは縮小された宇宙なのだ。

 我々が星を見上げるとき、

 宇宙は自らの内側の構造――眼球――を通じて、再び自分を観測している。


 この構造的相似は偶然ではない。

 人体は宇宙の模倣であり、

 宇宙は人体の拡張である。

 東洋思想が「身即宇宙」と語ったのは、

 単なる比喩ではなく、構造的事実だったのだ。



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Ⅲ.意識というレンズ


 視覚とは、光と意識の共同作業である。

 物理的に光が届くだけでは、像は形成されない。

 意識が焦点を合わせることによって、

 現実という像が結ばれる。


 このとき、意識は「観測装置」ではなく「光の再構成装置」として働く。

 見ているのは目ではなく、

 目を通して光そのものが自分を見ている。


 したがって、

 “観測者”と“被観測者”という区分はもはや意味をなさない。

 宇宙は、観測を通じて自己を再生産する存在である。



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Ⅳ.光の帰還 ― 内外の反転


 星を見上げるとき、

 人は外の世界に無限を感じる。

 だが、その無限は眼の奥で生成されている。

 眼球という透明な球体の中で、

 宇宙が自らを反射しているのだ。


 つまり――

 外の宇宙は、内側の投影にすぎない。

 そして内側は、外界を通じて自己を思い出す。

 観測とは、宇宙が内と外をひっくり返す運動であり、光はその“反転軸”を走る。


> 光の子は眼球に入ってくる。

それは、世界があなたを通して自分を見ている証。

あなたが星を見たその瞬間、

宇宙はあなたの中で、再び誕生している。

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