第11話




「も~~~~~あいつは本当いつまで経っても増々メリク様メリク様だな……」


 呆れるように髪を掻きながらエドアルトは廊下を歩いて行く。


 この砦はその昔、エルバト王国がカドゥナ侵攻を行なった時に、カドゥナの砂の部族が立てこもって戦ったという石の砦だ。


 昔はルブ砂漠は今よりもっと広かったらしい。


 外に出ると砦の外の城壁にメリクが座っているのが見えた。

 何となくぼんやりしながら手琴を爪弾いている様子である。


『メリク様は優しい』


 確かにそうだ。

 メリクは優しい。

 でもメリクの行いは全てが彼の優しさから由来してるわけじゃない。

 エドアルトはいつだったかメリクが話してくれた言葉を忘れてはいない。


『俺が時々見せる情け深さや良い行いは……そんなものがあればの話だけれど。その人への償いでもあるかもしれない。』


彼は見えるよりももっと多くのことを感情とは別の、切り離した感覚――使命感にも似た衝動で行なっているように思うことがある。

 エドアルトはおよそ三年ほどの時を、メリクの側で過ごし、彼を慕う気持ちは一層深くなっていた。

 彼は自分の師だと今でははっきり思っている。


(でもメリクは)


 メリクにとってエドアルトは、多分出会った時とほとんど変わっては無いのだ。

 彼は出会った時から親切だった。

 そしてそれが、今でも続いている。


 メリクにとってエドアルトが共に行動するようになった二年前よりも失い難い、かけがえのないものになったかというとそれはそうではないのである。


 二年前から何か爆発的にメリクのことを知るようになったというわけでもない。


 彼は今だにエドアルトにとっては謎めく人だ。

 ミルグレンにしても、彼女は一年前より更にメリクに惚れているけど、メリクが同じくらい彼女に恋をするようになったかというとそれは違うのだ。

 しかし彼女はエドアルトが心の中で感じ取る、メリクへの一種の不安のようなものを全て恋という一言で消化出来る。

 あの通り、彼女にとってはメリクがどれだけ謎めいていても問題は無いのである。


 エドアルトは三年前より背は伸びたし、強くもなった。

 相変わらず魔法だけは使うことが出来ないが、今日のように魔物とはち合わせたりしたときは、少なくともメリクの補佐としてちょっとは動けるようにはなっている。

 それでも自分が彼にそうするほど、メリクに頼られているとは思えなかった。



【エデン天災】――この霧が世界中の空を包んだ時、実はエドアルトとメリクは別々の場所にいた。

 メリクがいつものように一人で少し離れていた、そういう時だったのである。

 霧に包まれた空を見上げた時、エドアルトの胸は不安でいっぱいになった。


 メリクのことが頭に浮かんだ。

 故郷に置いて来た母親よりも先に、何故か彼の顔が。


 ……この絶望の、光が照らなくなった世界を見て彼が何を思うのか気にかかったのだ。


 メリクは普段優しいし大らかだし、案外暢気だ。

 優れた魔術師である彼は人より多くの周囲の情報を、魔力や精霊を辿ることで得ている。

 だからエドアルトは気が抜けないなと緊張している所で、彼が呆気なくふわっと寝転がって休み始めたりして、ぎょっとすることがあるのだ。

 そんなわけで彼は結構外目からは暢気な人に見えることがある。


 彼はこの世の何にも固執しない。

 悪いことにも、いいことにもだ。


 だから進んで人助けをしてるわけじゃない。

 ただ目の前で危機に瀕している人を、堂々と見捨てる非道じゃないというだけで、人助けという形だとしても、他者とあまり関わりたくないのだとは彼自身にも何度か言われた。


 彼は優しい。

 でもそれは、彼の行動の理由には本当はなっていないのかもしれない。


 こんなに優しくて人に好かれるであろうメリクが何故自ら孤独になりたがるのか、エドアルトは今だにはっきりと理解が出来ないでいる。

 彼の答え曰くそれは『闇の術師だから』の一言で説明出来るらしいが、エドアルトはそもそもそこから理解出来ていないのかもしれない。

 彼自身が言うほど、エドアルトはメリクが闇の術師だななどと思った事がないからだ。


【闇の術師】。


 人と関わると必ず悪しき縁を結び悪い運命を引き寄せる。

 その運命はあるいは、その相手だけではなくメリク自身の命すら縮めかねないこともある……らしい。


 だから彼は誰とも本気で付き合おうとしない。


 メリクはミルグレンにはひどく甘い所があるが、エドアルトはそんな二人を見ていても、心のどこかでメリクという青年はこんなにミルグレンに優しくても、彼女と生涯一緒に歩くつもりはないのではないかと強く感じることがある。

 

 ……彼女には口が裂けても言えないが。


 そして同時にある時、気付いた。

 二人旅も含めればおよそ三年。

 エドアルトはメリクに教えられ助けられ、導かれている。


(それは、本当はとても特別なことなんじゃないか?)


 自惚れてるわけではない。

 そうではない。


 でも時々メリクは普通の人間に許さないことを、自分に対して許してくれていることを感じるのだ。


 例えばミルグレンに対するメリクの姿勢には明確な理由があった。

 彼女とはメリクは長い付き合いだ。


『過去を辿って俺に関わって来るサンゴールの者がいたら俺は拒絶する。

 ――でも唯一拒絶出来ないのが、あの子だった』


 ミルグレンがメリクにとって特別であることにはちゃんと説明出来る理由がある。


(でも俺は?)


 エドアルトとメリクは本来、何の縁も所縁も無い。


 厳密に言うと彼を養い育てたというサンゴールの女王アミアカルバと、

 エドアルトの母親であるオルハ・カティアは主従関係にあるが、

 それでもエドアルトとメリクには大した関わりのないことだ。


 でも何故か、彼はエドアルトには特別な庇護を与えてくれる。

 それは嬉しい。


 でも。


 霧が空を包んだ時、世界が一変して。

 ふと我に返った。

 物事というものはこんなに一瞬に姿を変えてしまうものだと。


 どこか常に孤独を纏ったようなメリクが、この絶望に曇った世界を見て、何か無性に嫌になり――自分の元に戻って来なくなるのではないか。


 エドアルトはそう考えたのである。

 だがメリクは戻って来てくれた。

 安堵した。



『君が故郷に戻るまでは、一緒にいる』



 それが元々縁も所縁も無いエドアルトとメリクが交わしたただ一つの約束だ。


 自分の教えられる限りの知識を教えると。

 自分を必要としなくなるまでは側にいると、彼はそう言ってくれたのだ。


 そして今、少しずつではあるけどエドアルトは一人で何かをこなせるようになって来た。


 自身が魔術を使えなくても魔術の知識はちゃんと増えて、その知識は不死者が増え始めたこの世界で、色々な場面でエドアルトを正しい方向に導いてくれている。


 魔法は結果だが魔術は知識。

 学ぶことに意味がある。


 メリクの言った通りだった。


(俺が近頃感じる不安は)


 空の霧なんか全然関係なくて。

 自分の成長が実感出来る分、もしかしたらこの吟遊詩人との別れが段々と近づいて来てるんじゃないかと思うからだ。

 お互いが世界中を旅しているならまたどこかで、と言える。

 

 でも……エドアルトには、いまだ謎めく部分が多いメリクが、ここで別れたら何故かもう二度と、彼は自分の前には姿を現わしてくれない気がするのだった。

 それは彼本来が持つ優しさが、必ずしも彼の行動の理由になっていないという、それと全く同じ理由によって。


 メリクにとっては、何もかもが運命めいた衝動に突き動かされている。


 エドアルトを教えると決めたのにも何か理由があるのだ。

 その証拠に彼は当初はエドアルトと共に過ごすことを、むしろ回避しようとしていた節がある。


 メリクの後ろ姿。

 白い砂漠の遠いどこかを城壁の上に胡座をかいて一人眺めている。

 曖昧な夜と曖昧な朝。

 霧に包まれた世界は時間の経過が分かり難くなった。


 この曖昧な世界で唯一鮮やかに確かだと信じられるもの。


 メリクに教えてもらった全てのこと。

 その中で確かに成長している自分。


 エドアルトの心が満ちれば満ちるほど、

 メリクを果たして自分が同じほどに満たしてあげられているのかと疑問に思う。

 あげられていないということが無意識にも感じ取れるだけに。


 メリクは本当に、不思議な人だ。


 彼が望めばきっと何でも手に入るのに、彼はこの世の何も望んではいない。

 地位も名誉も栄光も永住も。


 それでもこうやってどこか遠くを一人見つめているメリクの背を見ると、エドアルトには何も望まないメリクが、時々何かを強く望んでいるように感じる時もあった。


 それが何かは……結局分からないのだけど。


 エドアルトを教える為にその願いは今は胸の奥底に秘めているが、自分と別れたら彼は優しく大らかで暢気な皮を脱ぎ捨てて、どこかへ行ってしまう気がするのだ。



「……君も眠れないのかい?」



 いつのまにかメリクがこっちを向いていた。


「部屋に戻ってくださいメリク。俺だけで戻ってもミルグレンにどやされます」


 メリクは穏やかな笑みで瞳を伏せただけだった。 

まだここにいたい気分らしい。

 エドアルトは溜め息をついてメリクの隣の城壁に寄りかかる。


「ルブ砂漠には一度来ましたよね」

「うん。君は二度と来たくないって言ってたね」

「だってメリク夜通し砂漠歩くんだもん。暑いわ夜は寒いわサボテンモンスターや巨大貝のモンスターがうようよしてるわで……もう散々だった」


「相手しなければいいよっていうのに君はいちいち相手するから」


「だって砂漠で逃げろったって砂に足取られて走りにくいんだもん!

 なんでメリク砂漠もあんなサクサク歩けるんですか。魔術師って砂漠の歩き方とかも訓練してるんですか」


「そんなこと全くしてないよ」


 メリクが可笑しそうに笑ってる。

 エドアルトは空を見上げた。



「……でも……星空はすごく綺麗だったな……」



「……そうだね」

 満天の夜空だったのだ。

 今はそれも、全部霧の向こうに覆われてしまった。


「……メリク」


「うん?」

 空を見上げたままエドアルトは呟く。


「こうやって待ってたら……いつかこの霧は晴れてくれるんですかね……?」


「……。どうだろうね。分からない。」

「【次元の狭間】って自然に開いたり閉まったりするんですか?」

「それも分からない。何しろ開いたことが初めてだからね」

「どんな感じなんですか?」

「魔法を使う時魔法陣を描くだろう?」

「はい」

「精霊の世界とエデンを繋ぐ……あれも一種の世界が繋がった状態と言える」

「そっか【次元の狭間】って魔法陣と似てるのか……。

 このままじーさんになるまでずっとこんなに寒かったらどうしよう?」

 ずび、と鼻水が出て来る。


「……また夜明けが見たいなぁ」


「……そうだね」


 エドアルトはメリクを見た。

 そうかメリクも夜明けが見たいのかと思うと何か嬉しい気持ちになった。


「今、世界の誰に聞いてもこの霧が晴れて欲しいって言うんだろうなぁ」


 願いは皆、同じなのに。

 世界中の人が同じことを願っても天は晴れない。


 きっと、自分達でどうにかしなくちゃいけないんだ。


 エドアルトはそんな風に思った。



 白いものが過る。


 また白い雪が降って来た。



「――メリクは……今まで生きて来た中で一番望んだことってなんですか?」



「なんなの急に」

「あ……いえ、なんとなく……」

「君は?」

 メリクが立ち上がって城壁の上をゆっくりと歩き始める。


「俺ですか? ん~~~~~~~~……やっぱり、強くなりたい、かな。

 うちは父親がいなかったから、何をするにも俺が強くならなきゃ始まんないっていうか……早く強くなりたいとはずっと思ってました」


「はは……君らしいね」


 メリクは笑っている。

 それからふと彼は立ち止まった。

 冷たい風が吹く。

 メリクの纏う、術衣の裾が大きく翻る。





「――誰よりも強くなりたいと、……思ったことはあったよ」





 エドアルトはメリクを見上げた。


 意外だった。

 彼は今まで何となくやって来たら、自然と今のようになったみたいなことを言っていたのに。

 彼が強くなりたいなどと無性に思ったことがあったなんて。


「……メリクもそんな風に思ったことあったんですか?」

「うん。でも、」

 白い息が見えた。



「俺の場合、とっくの昔にそんな気持ちは消えてしまったけどね」



 呟いてからふと振り返る。

 エドアルトがメリクの術衣の裾を掴んでいた。

「ん?」

「あ……いえ、風に吹かれて落ちるんじゃないかと思って」


 落ちないよ。

 メリクは吹き出した。


 エドアルトは密かに心臓が早くなっていた。

 一瞬、本当にメリクがふっ……とそこから落ちて消えるんじゃないかと思ったのだ。


 しかし彼は身軽に城壁から飛び降りて来た。

 そしてふわぁと暢気な欠伸をする。


「少し寝ようかな。君もちゃんと身体休めないと風邪引くよ」

「あ、はい! 今いきま…………っくしょい!」


 少年の盛大のくしゃみを後ろに聞きながら。

 彼が変なことを聞くから思い出してしまった、とメリクは思う。



『誰よりも強く』



 そう、なりたかった。

 何もかも出来るようになりたかった。

 そうして少しでも、役に立ちたかった。

 自分の命を救った女王アミアカルバの為ではない。



 ……この霧よりも深い孤独で身を覆った、あの人の為に。



 自分は昔から【闇の術師】だったのだなと思う。

 分相応な運命を手繰り寄せる。




(誰よりも強くなれば、誰よりも愛してもらえると思っていたんだ)





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