何一つ変わらない

 シオンは、すぐ家族に馴染んでいった。


「この絵本で良いかしら?」

「……うん!」

 やはり娘は快調とは言えなかった。熱が出て、ぐったりしている時が多い。

 その中でもシオンという存在は、熱冷ましよりも貴重だった。

 外遊びが出来ないとしても、中で本を読んだり、絵を描いたりできる。今までは一人で遊ぶか、手の空いた時に私か妻が付き合うかの二択だった。

 しかし、新たにシオンと遊ぶという選択肢が追加されたのである。

 初めは色々疑って、奇異な目で見ていた妻ですら、一週間も経てば留守番を任せるようになっていた。

 シオンは信頼関係を築くのが上手かった。


「皿洗いは私がやっておきますわ」


 妻の前でも、娘と同じ態度だった。

「いいわよ、そんな……」

「家事は得意ですから」

 躊躇っていた妻だが、一度任せてみることにしたようだ。

 結果は何も問題なし。機械が入っているのだから、水は危ないと思ったのだが、体が守ってくれているらしい。

 しかも、シオンの自己PRにあった通り、料理もこなすことが可能だった。


「今日の献立……」

「人参があったから、キャロットラペとかどうかしら?」

「名案ね。そうしましょう」


 それが妻にとっては大変助かったようである。毎日献立はどうしようと唸っていたのだのに、シオンが来てからは唸ることが減った。

 人間と人形というより、友人同士という方が近いらしい。

 ワインと共に、夜な夜なシオンと話す妻の姿を見掛けることが度々ある。

 かくいう私も、シオンが来たのはとても喜ばしかった。

 私は近隣の大学で化学の教員をしている。ただ単に教えれば良いのではなく、授業準備をしなければならない。

 シオンは賢く、聡明だった。

 機械だから記憶装置の許す限り覚えることが出来るというのもあるだろう。少し教えるだけで、私を知識で圧倒してしまった。

 シオンに手伝って貰うことで、授業準備の効率が遥かに向上したのである。



「ねぇねぇ、シオン。この花の名前は?」

 何故かは分からないが、シオンは花について不思議なまでに詳しかった。それに、娘が植物図鑑を強請るほど話が面白いらしい。

「これはね、ゲッカビジンというの。夜しか咲かない花でねぇ。花弁が硝子みたいに透明になることがあるの」

 ソファに横に並んで話す二人。親子というよりは、歳の離れた姉妹のようだ。娘は図鑑のある部分を小さな指で示す。

「私も育ててみたい」

「いきなりはちょっと難しいかしら。もうちょっと簡単な花から育ててみるべきね。もう時期遅れだけどアサガオとか、今からならチューリップやヒヤシンスも良いわ」

 記憶装置に図鑑が丸ごと入っているのかと勘違いする程博識だった。ひょっとすると、本当に図鑑が丸ごと入っているのかもしれない。

 この二十分後、「おとーさん、『うえきばち』ってやつがほしい」と娘が手を合わせながらやってくることとなる。


「しっかり育てられるのかい? 水やりをサボればすぐ枯れるよ」

「……サボんないもん」

「本当に?」

 新しい趣味が出来そうなのは喜ばしいが、適当にやられても困る。

 娘と目を合わせてそう聞くと、娘は「うん」と頷いた。そして後ろで立ち構えるシオンに目配せをする。

「シオンがね、育て方を教えてくれるって」

「えぇ。花の育て方、生育環境は一通り覚えているから。水やりはマリーがやるものね?」

「もちろん!」

 ふふん、と胸に手を当てて誇らしげに言った。

「それじゃあ、後はお母さんに許可を貰ってから」

「心配は不要よ。もう話は通してあるの。植木鉢を置く場所も決定済み」

「早いな」

 妻の方が厳しいはずなのに、何故か私が最終関門らしい。この家の女性陣に仲間外れにされている気分だ。

「マリーの要望を出来る限り叶えるのが、私の使命ですから」

 はは、と苦笑いを浮かべることしか出来ない。

「おとーさん。いいよね?」

 娘が私の顔を覗き込んで聞く。私は首を縦に振って、快諾の意を伝えた。

 植木鉢なんてそう高い物ではないし、娘が楽しそうならそれで良い。

「ありがとう、シオン!」

「これから頑張りましょうね」

 シオンとマリーは、ぱん、と両手でハイタッチした。


「ねぇねぇおかーさん! 芽がでてる!」

「本当だ。あんまり触っちゃダメよ。芽が傷ついたら困るでしょ」 

「マリー。今日はもう水はやったのかしら?」

「うん! ちゃんと土が湿ってるでしょ」

 最初は植木鉢を一つだけ買った。

 次第に二つ目、三つ目、四つ目と増えていく。家が花で彩られ、華やかになっていく。 


 シオンが来たことで、この家は一層明るくなった。見た目だけでなく、家の雰囲気も。

 最初は料理を彩るパセリのような物であったが、次第に胡椒のように欠かせない物となったのだ。





 五年も経てば、娘が体を崩すことは殆どなくなった。

 早くも娘は十二歳になる。もうすぐ小学校を卒業して、中学校に入学する。

 体が丈夫になってからは、沢山友人が出来たようだが。


「シオン〜! ここ教えて!」

「はいはい。ノートとペンを持ってらっしゃい」


 シオンとは相変わらずだった。

 特に勉強についてよく聞いていた。私や妻に聞くよりも確実で、分かりやすいらしい。

 私だけの友達だから、と娘はシオンの存在を黙秘していると妻が言っていた。

 娘は、勉強以外にも様々なことをシオンに相談しているようだった。


「シオン、ちょっと聞いて欲しいんだけど……」

「良いわよ」


 俗にいう思春期という物だろうか。

 趣味や人間関係、特に恋愛など、私や妻には言いにくい、もしくは言いたくないことがあるのだろう。深く詮索するつもりはない。シオンに相談して本人が満足しているのであれば、問題ないのだ。

「最初、シオンが来た時は驚いたけれども、今思えば良かったわ」

 コーヒーカップに口をつけた妻は、シオンと談笑する娘を眺めてそう言った。「あぁ」と私も同意する。

「マリーが楽しそうで、何よりだ」


 成長期を迎えた娘の背はぐんぐん伸びていき、顔立ちも大人っぽくなっていく。

 しかし、シオンは出会った時と何一つ変わらない。髪の長ささえも。






 娘が高校を卒業する直前、ある悲劇が起こった。

 妻が病床に伏せていたのだ。

 一年程前から雲行きが怪しかった。しかし、医者が口にしたのはよく聞く病気の名。すぐ大事になりはしないだろう。そう侮っていたのだ。

 そんな思惑に対し、病気は秋のように素早く進行して、妻の病状は悪化していった。

 そして——ついに、命の火が消えかかろうとしていた。


「お母さん……!」


 最近を覚悟しなさいと言われ、私達家族は集まった。娘、私、それにシオンである。妻が横たわるベッドを囲んでいる。火は強風に煽られ、今にも散ってしまいそうだ。

 娘は妻の手を握っていた。しかし、ぴくりとも動かない。シオンも声を発せず。もう二時間程鳴り続けているピコン、ピコン、という音が、かろうじて火が残っていることを伝えていた。

 延命治療というのも出来るらしいが、妻がそれを望まなかったのである。私達には、妻の最後をじっと待つことしか出来ない。

 娘が就職するまでは耐えたかった。

 一週間前、まだ短時間なら会話が出来た時のことだ。妻がそう呟いたことを思い出す。無理そうね、と諦めたように付け加えたことも。

 私は医療に明るくない。こういう時はただ見ていることしか出来ないのが、悔しかった。しかし妻は、声の調子を上げて言った。

『でも、私がいなくなっても、心配ないわ』

『……縁起の悪い事を』

『長くはないって、言われたもの。マリーとシオンがいるから貴方だって大丈夫でしょう』

『心配されるのは私の方なのか』

『そうね。あの子に彼氏が出来たら真っ先に追い出しそうじゃない』

 その光景を想像したらしく、妻は笑みを零した。

 何が面白いのか、私にはまるで理解が出来ない。

『駄目なのか?』

『あの子を不幸せにしそうな輩なら未だしも……あの子がそんな人を連れてくると思う?』

 私は首を振った。

 娘は植物関係の研究がしたいと言って、大学に進学しようとしている。毎日勉強漬けで大変そうだ。友達がいないという訳ではないが、植物しか見えていないような娘だから、人を連れてくること自体想像がつかなかった。


『貴方はマリーよりも先に死ぬ予定でしょう。大丈夫よ、シオンがいれば。シオンがあの子を見守っていてくれるんだから』

 

 シオン、シオン。

 妻もそればかり言う。そのくらい、この家でシオンの存在というのは大きくなっていたのだ。



 意識は今に戻る。

 ぴくり

 妻の瞼が微かに動いたように見えた。娘もシオンも気づいていない。

 ぴくり

 また動いた。開こうとしているというよりも、私に言葉を遺そうとしているようだ。娘の涙声の中を探り、妻の言葉を探す。


——マリーとシオンを、頼んだわ。


 一瞬だけ周囲から音が消えた。妻が喋った。……ような気がした。

 それはほんの数秒のことで、どん、と爆発音のように娘の声が大きくなる。何度も妻に呼びかける。

「お母さん! ……お母さん、お母さん!」

 心拍を表す波が、とこどころに小さな山を作るだけになった。

 それは、心音が止まったというサイン。

 それでも音はけたたましくなり続いている。私達の後ろに控えていた医者は、アラームの音を切った。

 妻が亡くなったのだ。




 病院から帰宅した家は、陰鬱な空気が蔓延っていた。外の暗さよりも暗く、重く、苦しみを与える空気だ。

 家に入るなり、すぐに娘は自室に籠ってしまった。受験日が迫っているとはいえ、今日という日に勉強しなさいと声を掛けるのは憚られる。娘が身内を亡くすというのは初体験だから、掛ける言葉が分からない。

 私も気が滅入ってしまった。

 リビングの椅子に座り、放心状態となる。机に寄り添う椅子は四つ。しかし、あの面々で椅子が埋まることはもうない。机に突っ伏して、悲愴感に身を沈める。


 規則的な足音がした。この音は娘ではない。シオンだ。

 シオンは、私の横にある椅子に腰を下ろした。

「人形って、本当に感情がないのね」

「……いきなり、だな」

「悲しいとは思っているの。機械が今までのデータから感情を算出してくれているから。でも、私自身が悲しいと思っているからと聞かれたら……答えはノー」

 共感すべきなのだろうか。

 それとも、この状況で悲しんでいないことを責めるべきなのだろうか。

 シオンの主人は娘であって、私ではないのだから、私が口を挟むことは出来ない。

「本当に非情ね。マリーに何と言われるかしら」

「悲しいと思わないことより、マリーにどう言われるかということを気にしている方がよっぽど非情だと思うぞ」

 顔を上げて、私がそう指摘すると、シオンは萎んだ声で呟いた。

「……確かにそうね」

 果たして思っているのか分からない。

 シオンは窓の外を見つめていた。


 人形に感情はない。

 だからこういう時、悲しいと感じることはない。

 悲しいと感じることがないのは幸せだ。

 しかし、周りが悲しいと感じている中、自分は何も思っていないとなれば。それに気づいてしまえば……苦しいのかもしれない。

 いや、そんなことないか。すぐ反論が浮かんできた。

 だって、感情がないなら苦しいと感じることもないのだから。

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