安心

 娘は無事大学に入学し、もう三年生になった。

 大学は家から通っている。私が勤務する大学とはまた別の場所なのだが、研究設備が充実していると嬉しそうに語っていた。

 シオンは大学に持っていく弁当を作っている。

 今までも妻が作っていて、その手伝いをする程度だった。しかし、妻が亡くなったことによりシオンが役目を担ってくれているのだ。私も味見をさせてもらうのだが、妻のレシピを学習しているようで美味しい。でも、たまに妻のことを思い出して悲しくなる。

 大学に入ってから、娘はお泊まり会や飲み会など、家に居る時間がぐんと減ってしまった。


「友達に恵まれて楽しそうなのは喜ばしいことだ……」


 だから、夜こうして酒を片手にシオンと話すのが恒例である。

 私は酒に強い方ではない。

 二、三杯飲んだ辺りから、ぐすんぐすん泣きながら、「あんまり帰ってきてくれなくて寂しい」とか「彼氏を連れてきたら殴ってしまうかもしれない」と喚いてるそうだ。シオンはそれらに対して、適当に相槌を打っているのだと言う。恥ずかしいことに、その記憶は残っていない。

「そうねぇ」

 珍しく今日は、シオンが私の言葉に反応した。

 中身の入っていないグラスを掴んで、ゆらゆら揺らす。


「最近、マリーが『彼氏ができた』って言ってたから……そんな日も遠くないでしょうね」


 酔いが回り切っていた私の頭が、急に冴えた。

「……彼氏?」

 打楽器のように低く鈍い声を溢した私に、シオンは「あっ」と声を上げた。

「そうだ。お父さんにはまだ言わない予定だから、黙っておいてってマリーに言われんだったわ……」

 私はグラスを勢いよく机に下ろした。

 最近、娘の髪型や化粧が凝っているとは思っていたが……成程。遂に私の敵、彼氏が現れてしまったのか。勝手に宣戦布告を受けたような気分になる。それと、私だけ教えて貰えないのは仲間外れにされているみたいで、少し気分が落ち込んだ。情緒がジェットコースターのように上下する。

 シオンは慌てて宥めた。「悪い人じゃないのよ」

「会ったことがあるのかい?」

「あるわ。それはもう誠実な人でね。マリーに贈り物をしたいが、何を贈れば良いか悩んでいる、ってわざわざ私のところに相談しに来たんですもの」

 彼氏が出来たこと言い、初耳ばかりだ。

 娘がシオンについて話しているならば、相当相手との親密度が高いということ……。

「返答に迷ったわ。無難なのはアクセサリーとか髪飾りだけれど、それじゃつまらないじゃない?」

 だから、とシオンは続けた。

 表情に変化はないが、もし人間だったら悪戯っ子のような笑みを浮かべているのだろう。


「こう答えたのよ。研究に使えそうな植物、って」


 斜め上のチョイスに、私は思わず称賛の拍手を送りそうになった。

 娘には申し訳ないが、これなら贈り物をするなど諦めるに違いない。

「でもね、その子凄いのよ。生物の研究をしているらしくて。ありがとうございます、今度研究ついでに様々な植物を採ってきます。あと、マリーが好きそうな植物を育ててみます。ってお辞儀して帰ってったわ」

 厄介な敵だ。

 警戒心を剥き出しにする私に対して、シオンは好意的な様子だった。

「そんなに気に食わないの?」

 私はすぐに頷いた。

 可愛い娘を、そうホイホイ他所に出すなんて妻に顔向けできない。

 シオンは妻がしていたように深くため息をついた。


「私は充電さえすればずっとこの世にいられるけれど、貴方はそうもいかないでしょう。貴方が死んだ後も、マリーが笑顔で生きられるようにしないと」


 段々、シオンの言動が母親味を増していく。

 それでもやはり、容姿は何一つ変わらないのだ。


 この二ヶ月後、娘が彼氏を連れて家にやってきて……言葉を投げ合い、視線をぶつかり合わせ、格闘したのはまた別の話である。本当に自分で採集した植物を贈ったらしい。

「ちょっと! お父さん、なんて事するの!」

 あぁ、シオンだけでなく、娘まで妻に似てきたようだ。






 やがて、眼鏡ではなく老眼鏡を掛けるようになった。

 シオンに「最近耳が悪い」と指摘されることが多くなったように思える。


 人生の終着点にゆっくり向かう私とは違い、娘は恐らく人生の最高潮に達していた。


 大学を卒業後、娘は近隣の植物園に就職した。そして、あの生物の研究をしているという彼氏(院に進み、その後大学に就職したようだ)と祝言を上げた。

 それが三年前のことである。

 親族が集まり式が行われた。勿論、おいそれと結婚を承知した訳ではない。しかしまぁ、あれ程娘のことを大切に思っているなら、任せても大丈夫だろうと思ったのだ。加えて、私の体が限界に近づきつつあることも原因の一つだった。

 衣装選びはシオンが手伝い、式探しは私が担当した。

 決して大規模ではないし、豪華ではなかったが、あの瞬間は幸せの絶頂だったはずだ。シオン曰く、私は本人達よりも泣いていたらしい。

 もう、娘の横にいるのは私ではないのだ。再度そう実感すると、また目から涙が出てくる。きっと年のせいだろう。

 

 それから娘夫婦は新居に引っ越した。

 とは言っても、歩いて十分という近場だ。植物を育てたり、動物を飼ったりできる庭付きの家。二人で住むには広いが、家族が増えることも想定しているのだろう。

 引っ越す直前、一つ問題が発生した。


 シオンをどうするか、という問題である。


 一緒に来て欲しい、と主張したのは娘と彼。

 私もそれに賛成だった。家事の負担が減らせるし、心の支えにもなるだろう。二人が拒否するならまだしも、肯定的なのだから。

 しかし、シオンが頑なに頷いてくれなかったのだ。


『夫婦の時間を邪魔する訳にはいかないわ』


 何度もこう主張するのである。

『別に邪魔にならないから。一緒に来て欲しいなぁ』

 娘は必死に頼み込む。意外にもシオンは頑固で、「無理なものは無理よ」と言い張った。

 私は娘側だが、シオンの主張には同意できる点もあった。

 いつまでも夫婦の時間がある訳がない。一度結婚したからこそ分かることだが……子供が生まれても夫婦の時間が取れるという甘い考えは、すぐに打ち砕かれるだろう。

 シオンは娘の幸せを第一に考えている。

 だからこそなのだろう。

 賢い娘はそう理解していたはず。

 しかしこちらも頑固なもので、中々引かなかった。


『シオンの料理は美味しいし、心の支えにもなるの』

『毎日いなくてもいいから、一緒に住みたい』


 話し合いは三日三晩に渡って続いた。初めは私と彼も参戦していたのだが、次第に二人がヒートアップして行ってしまったのだ。

 私はシオンに「怒り」が搭載されていることに驚きつつ、コーヒーと共にゆっくり観戦していた。

『長いですねぇ』

 彼と共に。

 穏やかな笑顔で呑気にそう言った。活発な娘とは違い、安定感のある青年だ。

 二人がすぐそこで言い争っているとは思えないくらい、ゆっくり時が流れていた。退屈ではないかと聞いたが、生物を観察するのと同じ気分です、と答えた。義父と居るというのに、どこか気が抜けている。不思議なことに、不快には感じなかった。


『ねぇ、シオン』


 さて、結末を明かすとしよう。

 私とシオンが弱いモノ。

 娘、娘のおねがい、娘の上目遣い。


『人生に一回のおねがい〜!』


 弱点三銃士が集まってしまえば、対抗手段など存在しないに等しい。

 その瞬間、シオンから音がした。文字にするならズキューン。娘の罠にまんまと引っ掛かり、心を撃ち抜かれてしまったのだ。

『……仕方ないわね』

 口ではそう言うが、満更でもなさそうだ。

 娘は上に飛び跳ねて喜びを露わにする。それでも彼は、「良かったですねぇ」と優雅にコーヒーを飲んでいた。

『これからもシオンと住めるね!』

『ずっといる訳じゃないわ。二人の邪魔をしない程度に、家事をするだけ』


 その言葉の通り、シオンは二人の家を抜け出してくることがあった。

 決まって、元の家、つまりは今も私が住む家に戻ってくるのである。


「家事くらいはしようと思ったけれど、二人共全部片付けちゃうのよ。私がいる意味がないじゃない」

 昔は私が話に付き合ってもらっていたが、今度は付き合う側である。

 彼に勧めてもらった紅茶の香りを堪能しながら相槌を打つ。銘柄に詳しくないのだが、普段はコーヒーを嗜む私にとっても飲みやすい物だった。

「シオンがいる時は、家事をしてもらうんじゃなくて、一緒に話がしたいのでは?」

「そんなこと、どうでも良いのよ。二人で楽しんでなさいと言っても、『シオンがいない間に充分楽しんでる』なんて返されちゃって……」

 声の調子を落としていく姿は、さながら反抗期の息子を持つ母親のようだが、こちらは娘側からの矢印が大きい。それに戸惑い、危機感を覚えているのだろう。

 しかし、その心配は杞憂のように思える。

 娘は結婚してからも生き生きとしている。庭には花があり、家には愛する人がいる。

 シオンはその愛する存在と居ることが幸せだと思っているようだが、娘にとってはシオンも愛すべき存在だ。つまり、側にいたらもっと幸せ。

 ムキになるシオンに微笑むと、「なによ」と怒られてしまった。


「まだ時間はあるけれど、子供が生まれるんでしょう?」


 つい一週間前、家を訪れた娘夫婦のことを思い出して頷いた。

 娘が妊娠したのである。私に孫が出来るのだ。少し前まで娘と手を繋いで歩いていたのに、今度は孫。私もお爺ちゃんと呼ばれるのか。実感が湧かない。

「この先が大変なはず。娘の方にいる時間を増やすのはどうだ」

「そうね。マリーったら、少し放っておくとすぐ無茶するんだもの」

 今日の夕飯はシチューにするつもり。

 一通り娘達の話を終えると、シオンは雪色のスカートを揺らして去っていった。


 死へのカウント数が残り少なくなってきた。

 遠く向こう、眼鏡を掛けてもぼやけてしまうような場所に、死があるのだと思っていた。しかし、今は隣町くらいの距離まで近付いている。

 死について考える時、いつも気になるのは娘よりもシオンのことだった。


 シオンは人形だ。

 だから、顔立ちも身長も変わらない。

 性格は出会った時よりも人らしくなった気がするが、容姿に大きな変化はない。

 シオンの老朽化した電池を交換した時、ある技師は感心したように言った。

『よく手入れされた人形ですなぁ』と。

 その時、私は首を傾げた。それといったことは何一つしていなかったのである。

『普通、こんな大きな人形だったら汚れるものですよ。それに塗料が取れている部分が一つもない』

『迎え入れたのは二十年程前なのですが……』

『じゃあ、相当前の持ち主がマメだったんでしょうねぇ』

 うんうん頷いて、そして最後にこう付け加えた。


『この人形を作ったのもかなりマメと来た。普段は服で見えないが……ほら、背中に大きな痣がある。人形作家のこだわりですなぁ』


 娘が生きている限り、シオンは娘のそばにいるだろう。

 シオンは人形だが、娘は人間だ。私より遅くともいつかは死ぬ。


 その時が来たら、シオンはどうするのだろうか。







「娘が、死んだら……どうする」

 今際の際になって、ようやくシオンに聞くことが叶った。

 焦点が合わず、シオンの姿を捉えることは難しい。そこで立っているのか、簡素な椅子に座っているのか。静寂な室内の中で、規則的な足音はよく目立った。

「そうねぇ……」

 令嬢のように淑やかな口調で。


「どうもしないわ。勝手に朽ちるまで、主人を探すだけ」


 数学の公式でも述べるように淡々と語った。

 シオンにとって大昔の記憶になる日も、そう遠くはないのだろう。

「人間は一人でも生きていけるけど、人形はそうもいかないのよ」

「……一人で動ける、だろう」

「自分で充電コードを入れたって、抜けやしないわ」

 嘆いているようだが、淡々としたままだ。

 何と声を掛けるべきか分からなくて、声を出す気力ももうあまり残っていなくて、私はピコ、ピコというベッドサイドモニターの音に耳を傾けていた。

 もうじき娘達が来るだろう。三人の息子を連れて。

 病床に伏せってからはあまり会っていないのだが、良い子達だ。長男は真面目で賢く、次男は几帳面で容量が良く、三男は素直で優しい。あんまり遊んであげられなかったのがたまらなく惜しい。声は思い出せても、姿がピンと来なかった。

 最後に、長年疑問だったことを聞いてみようと思った。

 どんなに踏み込んだことでも、どうせ死ぬのである。持っていく先は墓場か、もしくは妻が待つ冥土しかないだろう。

「一つ、良いか」

 微生物よりもちっぽけな気力を振り絞った。

「君を作ったのは、どんな人、だ……?」

 力尽きて、声が掠れた。不自然な静けさを経て、シオンは答える。


「ちょっと不器用で、人付き合いが下手な、普通の人形作家よ。凄い人でも何でもなくて、ただの人間という感じ」


 その人形作家を思い出したのか、クスッと笑った。

「冥土の土産にするには、少し物足りないかしら——でも本当に、普通の人なの。私みたいのを作ったのは、単なる気まぐれよ」

 調子良く語る声は、家族のことを話す娘のようだった。長男が就職した、三男は趣味に夢中で生き生きとしている、とか。

 娘にとってシオンが大切な存在であるように、シオンにとってその人形作家は愛すべき存在なのだろう。


「マリーのことは任せなさい。私は死ぬまで一緒にいるって決めたんだから」


 シオンが言うと命綱くらい心強い。胸を張って宣言すると、勢いよく扉が開かれた。

「大丈夫よ、まだ生きてるわ」

「まだ生きてるって何よ! もう死にそうじゃない……!」

 涙声で嘆く娘が入ってくると、途端に病室は騒がしくなった。他に人がいなくて良かったと思う。バタバタ足音がして、ベッドの周りを人が取り囲んだのが分かった。

 そんなに焦らなくても。

 声を掛けようとしても、接着剤でくっつけたように口が動かない。


 焦らなくとも、心配は無用だ。


 娘には夫、息子、それにシオンがいる。

 大丈夫だ。私がいなくなっても、娘は……マリーは幸せでいられる。

 家族に囲まれた中で、私はこと切れた。

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