第2話 婚約者が消えた②

鉛を流し込まれたように重い頭の中で、まるで警鐘のように「なぜ、どうして」という言葉が鳴り響いていた。ガンガンと、耳の奥で、頭蓋骨全体で、不協和音を奏でる。目の前の警察官が、事務的な声で何かを言っている。彼らの唇の動きを眺めるだけで、何も入ってこない。


そして、次に1人の警察官から発された言葉だけが、現実の音から切り離されたかのように耳に入ってきた。


「――ご自分で死を選ばれています」


その言葉が鼓膜を突き破ってきた時、私はさらに訳が分からなくなった。自殺? 佐藤が? 嘘だ。昨日の夜、あんなにも明るく笑っていた彼が、どうして。


「申し訳ありませんが、発見時の状況が状況なだけに、見せられるような状態では……」


警察官は心底痛ましげな表情で言った。彼の声は私を気遣っているのだろうが、その配慮が、彼の死がどれほど凄惨であったかを雄弁に物語っているようで、余計に胸を締め付けた。


自殺。自ら命を絶つ。その事実は、私と彼の愛が、私たちが築こうとしていた未来が、全て偽物だったと言われているような気がした。


「自死の場合、色々と手続きが必要になりますので……恐れ入りますが、署までご同行願えますか」


有無を言わさぬ口調で、私は警察官に両脇を抱えられ、彼のマンションから一歩一歩、まるで別世界へ連れて行かれるように警察署へと向かった。


会社へは警察から連絡が入ったらしい。私は震える手で、佐藤のご家族に連絡をした。彼の母親の「えっ」という、たった一言の絶叫が、今でも耳から離れない。泣きじゃくることしかできなかった私は、彼の死の状況をご家族にきちんと説明できていたのだろうか。何も思い出せない。ただただ、嗚咽が途切れ途切れに喉から漏れるだけだった。


あっという間に時間が過ぎ、気がつくと私は自宅のベッドにいた。眠れているのか、ただ意識が遠いだけなのかも分からない。脳がふわふわと、水の中に浮いているような奇妙な感覚で夜が明けた。


会社は休んだ。スマホには、佐藤のお母さんからの連絡が入っていた。 『突然で本当にごめんなさい。諸々の事情があり、葬儀は行わないことにしました』 諸々の事情。その時も訳が分からなかった。ただ、深い悲しみと、何もしてあげられない無力感に苛まれながら、一日が過ぎていった。


翌日、私はぼんやりとした頭で会社へ向かった。皆が私を心配そうに見つめてくる。痛いほどの視線だった。自分のデスクに着くと、いつも元気な後輩、三好まりがそっと私の耳元に顔を寄せた。


「先輩、後でお話ししたいことがあります」


昼休み、私は三好に連れられて、人気のない非常階段の踊り場にいた。三好はまるで内緒話をする子供のように、声を潜めた。


「先輩、去年の春に退職した、金子幸恵(かねこゆきえ)さんのことは覚えてますか?」 私は、はっきりと顔を思い出せないながらも頷いた。かなり年下の、少し影のある女性だった。


「実は……金子さんも、佐藤さんと付き合っていたんです」


「え?」


耳を疑った。佐藤が? 私と付き合いながら?


三好は続けた。


「ただ、金子さんの束縛が酷くなって、"先輩と別れろ"って迫っていたみたいで……。佐藤さんが距離を置こうとしたら、完全にストーカー化しちゃってたみたいで。しつこい電話とか、待ち伏せとか……。先輩、本当に気をつけてくださいね」


突然の事実に、私の思考は完全にフリーズした。佐藤の自殺。そして、ストーカー化していた元後輩、金子の存在。二つの点が、無理やり繋がれようとしているような、恐ろしい感覚が襲う。


そして、三好は静かに、でもはっきりと告げた。


「あの……葬儀をやらなかった理由、部長から聞いたんです。金子さんが、葬儀へ押しかけてきて暴れたりしないように、ご家族が配慮されたんだって……」


私の愛した人は、一体どんな恐怖の中で、何を抱えていたのだろう。そして、あの最悪の結末は、本当に彼が望んでの「自死」だったのだろうか。


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