婚約者が消えた

海豚寿司

第1話 婚約者が消えた

いつもと変わらない、日曜日の静けさを引きずったような月曜日の朝。私はいつものように、通勤途中に買った文庫本を会社のデスクに置き、コーヒーを淹れる。活字に埋もれることが私の日常であり、親しみやすい笑顔の裏で、激務による疲労を悟られないようにする精神安定剤でもあった。


親身になって同僚の相談に乗るせいか、「お姉さん」と慕われることも多い。特に、新人の頃から面倒を見てきた営業部の佐藤とは密かに付き合ってもうすぐ入籍予定の仲だ。会社では内緒にしている。佐藤は穏やかで優しい性格で、私とは正反対。だからこそ、お互いに惹かれ合ったのかもしれない。


就業開始のチャイムが鳴り響く頃、社内がざわつき始めた。「佐藤がまだ来てない」「遅刻かな」。誰かの言葉に、私の胸にさざ波が立つ。彼は普段、遅刻などしない。


午前中、何度かちらりと彼のデスクに目をやるが、無人のままだ。スマホに「どうかしたの?」とLINEを送るが、既読がつかない。午後になっても現れない状況に、ざわめきは不安の色を帯び始める。


「何かあったのかも」


そう口にする同僚たちに、私は平静を装う。昨日はいつものように一緒に夕飯を済ませ、特に変わった様子もなく解散した。週末の予定を話したり、他愛ないことで笑ったり。いつも通り、幸せな夜だったはずだ。


嫌な予感が、小さな波から確信へと変わっていく。


仕事中にもかかわらず思わず席を立ち、人気のない給湯室で何度も電話をかける。しかし、無情にも呼び出し音だけが響き誰も出ない。佐藤の無事を祈りながらも、頭の中では最悪のケースがちらつき始めた。


流石におかしいと判断し、私は上司に正直に事情を説明した。付き合っていることを周りに秘密にしてはいたが、恐らく勘付かれているとは思う。佐藤とは近いうちに結婚する予定であることも伝え、何度も連絡を入れているが応答がないのはおかしいと訴えた。上司は驚きながらも、私のただならぬ様子に察し、「わかった、彼の家に行って見てきてくれないか」と、早退を許可してくれた。


彼のマンションに着いた私は、急ぐ気持ちを抑えきれず、合鍵を差し込んだ。カチャリ、と音を立てて鍵は回った。しかし、ドアが開いた瞬間、ガチャンと何かに引っかかった。内側からチェーンがかかっている。


「佐藤!いるんでしょ?開けて!」


何度もチャイムを鳴らしドアを叩き呼びかけ続けるが、部屋の中は沈黙している。チェーンの隙間から覗き込むと、いつもの彼の革靴が玄関に揃えられているのが見えた。中にいる。それなのに、なぜ出てこない?


不安と恐怖が入り混じった感情で、手足が震えだす。私は再びスマホを取り出し、警察へ連絡した。間もなくして警察が到着し、アパートの大家さんも何事かとやってきた。


状況を説明し、特殊な道具を使ってチェーンを外す作業が始まった。時間だけが、重く、長く、流れていく。ガチャン、と、大きな音を立ててチェーンが外れた。


3人の警察官が、一瞬、顔を見合わせる。そして、「我々が先に」と、まるで何かを察したかのように、彼らは先に部屋の中へ入っていった。


直後、奥の部屋から低く、押し殺したような声が聞こえた。


「ああ、これはもうだめだ」


私の頭は真っ白になった。立っているのがやっとだった。まるで、これまで見てきた鮮やかな世界から、一瞬で色と音と熱が奪われたかのようだった。


数秒後、一人の警察官が玄関まで戻ってきた。彼の顔は、痛ましい表情で曇っている。


「入らない方がいい。もう、お亡くなりになっています」


その一言はあまりにも現実味がなく、私の耳には届かなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る