渇望

とりち

満たされない夜に

駅前の公園は、冬の音でできている。風が木々を鳴らし、遠くの線路の上で電車の車輪が金属を擦る。街灯がわずかに揺れて、薄い橙色の輪が地面に貼りつくたび、落ち葉がその輪郭を越えて転がっていく。

 ベンチの上に、缶コーヒーが二つ。白い息が二本、夜のなかへ立ちのぼっては淡くほどける。


 まりは、寒さを確かめるように両手をこすり合わせた。

「今日、人少なかったね。駅、静かだった」

 声は、氷を撫でるみたいに小さく、よく通った。


 たかしは缶を手の中で転がしながら、うなずく。

「うん。寒い夜って、人の声が遠く聞こえる」

 プルタブを少し持ち上げ、そこで止める。

「でも、その分、心の音が近くなる気がするんだ」


「詩人みたいなこと言って」

 まりが笑って、彼の指先に視線を落とす。

「あったかい缶コーヒーでも飲みなよ」


 ぱん、と小さな音。二つのプルタブがほぼ同時に開き、甘い匂いが空気の薄い層を押し広げた。金属と砂糖と焙煎の匂いが混ざり合って、夜の冷たさを少しだけ曖昧にする。


 工場の音が耳の奥で続いている――たかしはそう思った。昼間、床に落ちたボルトを拾い上げた掌のざらつきが、まだ消えていない。規則正しい機械の跳躍、油の匂い、点検表の白。いつからか、仕事の音は彼の心拍と仲良くなって、仕事を終えても歩調を合わせてついてくる。

 それでも彼は、時々ここへ来る。駅前の公園は、夜になると世界から少し切り離される。ほんの少し、静かになる。静けさは、彼にとってまだ負けていない何かのように思えた。


「ねえ、たかし」

 まりは缶を両手で包んで、その温度に話しかけるみたいに言った。

「君って、いつも何かを追ってるね。どうしてそんなに、渇いてるの?」


 たかしは少し考えるふりをした。けれど実際には答えは最初から喉の奥にあった。

「……わかんない。多分、“足りない”って思ってる方が落ち着くんだ」

 缶の飲み口に息を吹きかけ、曇った円の向こうに自分の顔を見つける。

「何かを求めてるときだけ、生きてる気がする」


「私は逆だな」

 まりは夜の向こうを見た。電車の窓が、走る小さな水槽みたいに光を運んでいく。

「もう“十分”って思いたい。欲張るのに、ちょっと疲れた」

 言い終えると、唇の端にごく短い影が落ちた。それは、笑みの形を借りたため息のようだった。


「それ、少し羨ましいよ」

 たかしは肩をすくめる。

「俺には、“もう十分”って言える勇気がない」


 沈黙が降りてくる。風がベンチの下をくぐり、枯れた葉脈の一つひとつが紙を擦る音を立てた。冷えた金属の匂いが遠くのガードレールから流れてきて、二人の足元で薄く渦を巻く。


 まりの脳裏に、いくつかの夜が重なった。高校を卒業して上京した冬、部屋のストーブが点かなくて、マグカップを両手で抱いたまま朝を待った夜。恋人と別れた夜、メッセージの最後の言葉を何度も読み直して、読めば読むほど意味が薄れていった夜。

 満たされることに近づくほど、世界は静かになった。静かさはたしかに救いだったけれど、同時に、次に何を願っていいのかわからなくなる恐怖でもあった。願いの形が見えない静けさほど、人を小さくするものはない――彼女はそう覚えた。


「ねえ」

 まりは自分の呼気の白さを追いかけながら言う。

「お腹いっぱいの苦しさと、空腹の苦しさ。どっちの方が嫌?」


 たかしは目を瞬いた。

「……どっちも苦しいけど」

 缶を傾けると、金属の薄い音が舌に触れる。

「俺は空腹のほうがいい。痛くても、“生きてる”感じがするから」


「そう言えるの、すごいよ」

 まりは肩を軽く揺らす。

「私はね、満たされるたびに、次に何を願えばいいのか分からなくなる。それも、けっこう苦しい」


 夜の色は、青と黒のあいだで迷っているようだった。街灯の根元にだけ、わずかな春の気配がある。そこだけ土が柔らかく、踏めば沈むような感触を想像させた。

 たかしは、まりの言葉がゆっくり沈むのを見守る。言葉は池に落ちた小石みたいに、彼の中で輪を広げていく。


「……なあ、まり」

 彼は口の中に残った甘さを確かめる。

「満たされてるってさ、もう“願わなくていい”ってことなんだろ? それって、ちょっと寂しいな」


「うん」

 まりの返事は短い。けれど、そこに寒さと同じくらい確かなものが宿っている。

「だから私は、わざと渇いてみる。失って、また欲しがって、その繰り返しで生きてる」

 彼女は自分の膝に落ちた落ち葉を指先で砕く。脆い音が、夜の薄膜に小さな穴を開けた。


 たかしは小さく笑った。

「……それ、強いな。俺はまだ、渇きに振り回されてる」


「いいじゃん」

 まりは顔を上げる。その瞳は、街灯を一つ飲み込んでいるみたいに静かに明るかった。

「振り回されるくらい、本気で生きてるってことだよ」


 目を閉じると、いくつかの景色が時間を逆流して現れた。

 たかしは幼いころの冬を思い出す。最寄り駅のベンチで父と飲んだ缶コーヒー。砂糖が多すぎてむせたのに、父の前では平気なふりをして飲み干したこと。父は笑って頭を撫で、帰り道に「寒いと、あったかいがよくわかるな」と言った。

 その言葉は、彼のなかで形を変えながら何度も現れる。満たされないと、満たされたときの温度がよくわかる。渇きは、温度計の目盛りだ。

 工場の休憩室で飲むブラックの苦味。部品の箱に貼られたバーコードの白と黒。定時のチャイム。すべてが同じ場所へたどり着く――“まだ足りない”という場所へ。

 足りなさは、彼を動かすための燃料であり、時に彼を傷つける刃でもあった。


 空は、群青のなかに一筋の白い線を差し込ませる。夜明けはいつも、誰の了承も取らずにやってくる。鳥の声が、まだ眠っている街の耳の穴をこじ開ける。

 たかしは空を見上げた。呼吸が少し乱れていることに気づく。胸の内側で何かが暴れて、胸骨の裏を叩いている。


「……なあ、まり」

 彼は言葉の温度を確かめるように、ゆっくりと。

「俺さ、たぶんずっと、何かを満たそうとして生きてるんだ」

 言葉の先端が震える。

「でも、やっとわかった。満たされないままでいることが、生きるってことなんだ」


 声が少しだけ掠れた。笑おうとして、うまく形にならない。頬を伝うものが冷たくて、でも途中から、冷たさと温かさの境目がわからなくなる。

 まりは、その涙を凝視しない。代わりに、彼の肩より少し上の空を見た。夜と朝の境目が髪に触れて、色を変えていく。


「……泣いてんの?」

 問いは柔らかく、重力がほとんどない。


「泣いてない」

 たかしは袖で顔をこする。子どもの頃から何も変わらない仕草だ。

「……ちょっと、心が暴れてるだけ」


「うるさいなぁ」

 まりは、口角だけで笑う。

「“情緒の台風”とか言い出すタイプでしょ」


 言いながら、彼の手から半分ほど減った缶をそっと奪い取る。蓋の縁についた水滴が、彼女の親指に移る。

「飲め。落ち着け」


「……ありがとう」

 たかしは受け取って、喉の奥に甘さを流し込む。

 そして、ほんの少し意地を取り戻したみたいに、付け足す。

「でも、これじゃまだ足りないな」


「いいね、そのままで」

 まりは立ち上がり、軽く伸びをする。背中の骨が小さく鳴る。

「“足りない男”、嫌いじゃないよ」


 二人の笑い声は、朝の最初の風と混ざってほどけた。街灯が一つ、また一つと役目を終えて眠りにつく。

 空の色は、蒼から薄い金へ。ベンチの影は長く細く伸び、やがて芝生の向こう側で消えた。


 たかしは思う――渇きは呪いじゃない。渇きは、歩みの数を測るメトロノームだ。空腹は痛い。でも、痛いから、次のひと口の味に驚ける。

 満たされたいと願う心は、まだ生きたいと願う心と同じ形をしている。

 歩ける限り、願う限り、今日の一歩は明日の一歩に繋がる。

 足りなさを抱えたまま、彼は立ち上がる。ポケットの中で、作業着の名残の硬いメジャーがこすれた。長さを測るための道具は、重さをほとんど持たない。けれど、測られるものにはいつだって重さがある。


 まりは、朝日に目を細めて彼の横顔を見る。涙のあとが薄く乾いて、皮膚の上に新しい地図を描いている。

 彼女はその地図が示す方向を、何も言わずに受け入れた。

 人は、満たされない夜を越えるたび、少しだけ静かになる。静かになるということは、冷たくなるってことじゃない。音をよく聴けるようになるってことだ。自分の鼓動や、隣の人の呼吸や、遠くの町の朝ごはんの匂いの気配まで。


 駅に向かう道の上で、二人は歩幅を合わせる。誰かと歩幅を合わせられる朝ほど、人は一人ではない。

 公園の端で、彼らは一度だけ振り返る。ベンチの上には、空の缶が二つ。確かな“あと”が、そこに小さく並んでいる。

 それだけで、今朝はもう十分だった。


 渇きながら笑って、笑いながらまた渇いて――。

 そうやって続いていく日々を、二人は受け取った。


(了)


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渇望 とりち @Toriti

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