EP 5

狂信の渦

1942年(昭和17年)2月15日。

シンガポールが陥落した。

山下奉文大将による「イエスかノーか」の恫喝。英軍司令官パーシバルの屈辱的な降伏。

ニュースは日本全土を「勝利の病」の最高潮へと叩き込んだ。

「(東條)総理! これで南方資源地帯は完全に我々の手に!」

「英米の東亜における拠点は、ここに潰えましたぞ!」

官邸に集まった陸軍の幹部たちは、今や東條英機を「稀代の戦略家」として崇め始めていた。

彼らは知らない。目の前の総理が、オーストラリア攻略やインド進出といった「夢想」をことごとく却下し、「兵站の確保」と「占領地の防御固め」という、恐ろしく地味な命令に切り替えていることを。

「うむ」

坂上(東條)は、手元の珈琲飴を無造作に口に入れた。

(シンガポール陥落。ここがターニングポイントだ。ここから先は、すべてが「防衛戦」だ)

「山下大将には、占領地の治安維持とインフラ復旧を最優先とするよう厳命せよ。ラバウル(ニューブリテン島)には航空基地を急設。トラック諸島(チューク)は、海軍と共同で、絶対に沈まない『要塞』とせよ」

「はっ…しかし総理、この勢いを駆って豪州(オーストラリア)を…」

「もうよい」

坂上は冷たく遮った。

「確保した石油を、本土に運ぶタンカーが足りておらん。敵潜水艦(米ガトー級)の跳梁が始まっている。海軍は何をやっているのか」

彼は、すでに「いずも」で学んだ対潜哨戒(ASW)の重要性を、海軍の護衛総隊司令部に(東條の権限で)押し付け始めていた。史実の日本が最後まで軽視した、最も重要な戦いだ。

「それより」坂上は向き直った。「三菱と中島の技監を呼べ。今すぐにだ」

その日の午後、執務室。

ゼロ戦の設計者である堀越二郎ら、日本の航空技術の粋が集められていた。彼らは、なぜ総理大臣に直接呼び出されたのか分からず、困惑していた。

「諸君らに、陸海軍の区別なく、国家最優先の『試作機』を命じる」

坂上は、自ら(21世紀の記憶を元に)書き起こした、あり得ない要求仕様書を叩きつけた。

「第一。実用上昇限度1万2千メートル以上」

「(技監)1万…2千!? 総理、それは…」

「第二。武装は30ミリ機銃、または大口径20ミリ機銃を主軸とする。防弾鋼板と燃料タンクの防漏(セルフシーリング)は必須」

「ぼ、防弾…!? ゼロ戦の格闘性能を犠牲に…」

「格闘性能などいらん!」

坂上は一喝した。

「諸君らが戦う相手は、戦闘機ではない。高度1万メートルを亜音速で飛行し、大量の爆弾を積んだ『超重爆撃機(B-29)』だ! それを『一撃』で仕留めるための『迎撃機(インターセプター)』だ!」

「(東條)総理…そのような敵は、まだ…」

「3年後、必ず来る」

坂上は断言した。

「そして、これを可能にする心臓部が『排気タービン(ターボチャージャー)』だ。ドイツの技術を参考にしろ。予算は青天井だ。だが、猶予は2年。2年でこれを量産軌道に乗せねば、日本は焼夷弾で焦土と化す」

技術者たちは、総理の口から飛び出す具体的な工学用語(ターボ、防弾)に、仁科芳雄と同じ戦慄を覚えていた。

この男は、一体何を知っているのか。

1942年4月18日。

その日は、坂上の予想通りに、しかし最悪の形で訪れた。

「空襲! 敵機、帝都上空に侵入!」

「横須賀の海軍工廠に爆弾投下!」

官邸の地下壕(バンカー)は、蜂の巣をつついたような騒ぎだった。

「馬鹿な! どこから!」

「敵の機動部隊が、本土近海に…!」

将校たちがパニックに陥る中、坂上(東條)だけが、冷めたコーヒーをすすりながら、壁の地図を睨んでいた。

(ドーリットル空襲。始まったか)

彼は、この日のために準備していた。

本土防空部隊には、迎撃命令ではなく「敵機の機種、侵入高度、速度のデータ収集」を最優先させていた。

そして、この空襲が、必ず「奴」を動かすことも知っていた。

案の定、地下壕の扉が荒々しく開かれた。

血相を変えた海軍軍令部の幹部たちと、陸軍の強硬派が雪崩れ込んでくる。

「(東條)総理! ご覧になったか! これが、貴官が『本土防衛』などと悠長なことを言っていた結果だ!」

「聖域たる帝都が空爆されたのだぞ! 天皇陛下のおわす御所に! もしものことがあれば…!」

「山本長官の危惧された通りだ! 敵機動部隊を叩かねば、本土に安寧はない!」

彼らの言いたいことは一つだった。

坂上が握り潰した、あの作戦。

「今こそ、ミッドウェー作戦の実行を! 敵空母を誘き出し、殲滅するしか道はない!」

地下壕の空気は、東條への弾劾と、即時出撃の要求で沸騰していた。

もし坂上がここで「否」と言えば、彼は「帝都を守れなかった臆病者」として、その場で引きずり下ろされ、暗殺されてもおかしくなかった。

坂上は、ゆっくりとコーヒーカップを置いた。

口の中に残っていた珈琲飴の苦味が、やけに鮮明だった。

彼は、狂信者たちの中心に進み出ると、全員の顔を見渡した。

「諸君らの憤激は、よく分かった」

東條の甲高い声が、静かに響く。

「この空襲は、確かに我が軍の失態だ。海軍が、敵機動部隊の接近を許した、重大な失態だ」

「なっ…!」(海軍将校が色めき立つ)

「だが」坂上は続けた。「諸君は根本的に勘違いをしている」

「勘違い、だと?」

「そうだ。これは『攻撃』ではない。『宣伝(プロパガンダ)』だ」

「せ、宣伝…?」

「そうだ。敵は、貴重な航空母艦を危険に晒し、たった十数機の陸上爆撃機(B-25)を、使い捨てで飛ばしてきた。戦術的価値は皆無。米国民の戦意高揚のための『政治的スタント』に過ぎん」

坂上は、21世紀の軍事常識で、ドーリットル空襲の本質を喝破した。

「そして諸君らは、その敵の『挑発』に、見事に踊らされている」

「な、何を…!」

「(東條)総理! 帝都が焼かれたのだぞ!」

「だから、ミッドウェーだと?」

坂上は、嘲笑うかのように言った。

「敵が、我々の暗号を解読し、ミッドウェーで空母4隻(史実通りの数)を揃えて待ち構えていたら、どうする?」

地下壕が、水を打ったように静まり返った。

12月の時点では「仮定」だったその言葉が、ドーリットル空襲という「現実」の後に、恐ろしいほどの重みを持って響いた。

「敵の挑発に乗り、虎の子の機動部隊を、敵が待ち構える罠(キルゾーン)に突入させる…それこそ、敵の思う壺ではないか?」

「……」

誰も反論できない。

「ミッドウェーはやらん」

坂上は断言した。

「だが」

彼は続けた。

「この『失態』の落とし前はつける。海軍は、ドーリットル隊を逃した責任を取り、アリューシャン列島方面の敵哨戒網を叩け(陽動だったアリューシャン作戦だけを実行させる)。陸軍は、本土防空網の再編と、新型迎撃機の開発をさらに加速させろ」

彼は、ドーリットル空襲という最大の危機を、「ミッドウェー作戦の実行」ではなく、逆に「本土防衛の強化(=自らの戦略の正当化)」という目的にすり替えてみせた。

将校たちは、納得はいかないまでも、総理の(彼らにとっては)異様なほどの冷静さと、反論の余地のない「合理性」の前に、押し黙るしかなかった。

坂上真一は、最大の危機を乗り越えた。

だが、彼が握り潰した「ミッドウェー」という海軍の夢は、今や彼(東條)への明確な「殺意」へと変わっていた。

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