EP 4
理(ことわり)の刃
1941年12月12日。
総理官邸の一室は、異様な空気に包まれていた。
陸軍大臣であり総理である東條英機(中身は坂上真一)が、軍人ではなく、一人の物理学者と極秘裏に相対していた。
理化学研究所、仁科芳雄。
日本の原子物理学の父と呼ばれる男は、目の前の「カミソリ東條」の意図が読めず、緊張に顔をこわばらせていた。
「…総理。私のような学者に、一体どのような御用で…」
「単刀直入に聞く、仁科博士」
坂上は、東條の甲高い声で、しかし海自の司令官としての冷静な口調で言った。
「ウラン235。これ1キログラムで、理論上、TNT火薬何トン分のエネルギーを生み出せるか?」
仁科の目が、丸眼鏡の奥で見開かれた。
「そ、総理…なぜその数値を…それはまだ理論上の…」
「理論でいい。答えろ」
「…計算上は、数万トンに匹敵する可能性が…」
「それだ」
坂上は、例の珈琲飴を一つ口に放り込み、静かに言った。
「敵国(アメリカ)は、それ(原子爆弾)を本気で開発している」
仁科は息を呑んだ。「まさか…あのE=mc²を、本気で兵器に…?」
「ああ。そして彼らは、我々が想像もできぬ工業力(マンハッタン計画)でそれを実行に移している」
坂上は、21世紀の知識の核心部分を、この時代の科学者にぶつけた。
「博士。これより貴殿の研究室を、陸軍の最重要機密プロジェクトとして指定する。予算、人員、資材は、海軍の戦艦一隻分に匹敵する権限を私(東條)が与える」
「せ、戦艦一隻分…!」
「目的は二つだ」
坂上は指を立てる。
「第一に、敵がこの『新型爆弾』を使用した際の、防御法(放射能対策)と報復手段の研究。
第二に、もし可能ならば、我々自身の手で『抑止力』として保有すること」
坂上は「爆弾を作れ」とは言わなかった。「抑止力」と言った。彼は広島の悲劇を知っている。これを使うためではなく、使わせないために必要なのだ。
「だが博士」坂上は続けた。「熱拡散法では効率が悪すぎる。時間の無駄だ」
「なっ…!?」仁科は絶句した。なぜ総理が、まだ議論の段階であるウラン濃縮の具体的な技術(熱拡散法)を知っているのか。
「ガス遠心分離法。こちらの可能性を最優先で検討しろ。必要な工作機械(ベアリングなど)は、ドイツからの輸入品(潜水艦輸送)で最優先に回すよう手配する」
仁科は、目の前の小柄な軍人が、まるで未来の技術書を読んでいるかのように語る姿に、畏怖すら覚えていた。
「…総理。お言葉ですが、それは…可能です。可能ですが、莫大な電力と、何より時間が…」
「時間は、私(わたし)が稼ぐ」
坂上は断言した。
「博士の任務は、この国を『焼かれない』ようにすることだ。私の任務は、博士が研究を終えるまで、この国を『負けさせない』ことだ。いいな」
仁科博士が茫然として退室した後、入れ替わるように赤松秘書官が血相を変えて飛び込んできた。
「総理!海軍の山本五十六長官が、連合艦隊旗艦『長門』より、急遽上京! 『総理に面会を強く求めている』と…!」
(来たか)
坂上は、口の中に残っていた飴の欠片を強く噛み砕いた。
真珠湾の英雄。海軍のカリスマ。そして、ミッドウェー海戦という最悪の博打を強行しようとする男。
「…通せ。二人きりで話す」
「し、しかし危険です! 海軍は…」
「かまわん。俺は陸軍大臣だぞ。海軍の提督一人に何を恐れる」
数十分後、執務室。
東條英機(坂上)と山本五十六。陸海軍のトップが、火花を散らすように対峙していた。
「(東條)総理。単刀直入に伺う。なぜ、我が海軍が提案する『豪州(オーストラリア)遮断作戦』、並びに『FS作戦(フィジー・サモア攻略)』を、陸軍は兵力拠出の点から拒否されるのか!」
山本は、真珠湾の勝利で得た絶対的な自信を背景に、強い口調で詰め寄った。
「兵站が維持できんからだ、山本君」
坂上は、東條の口調で淡々と返した。
「兵站、兵站と…総理はそればかりだ! 勝利の前には、多少の無理はつきもの! 敵に息を継がせる暇を与えれば、米国の物量が必ずや我々を圧殺する! その前に、もう一撃!」
「その『もう一撃』が、ミッドウェーか?」
山本の動きが、ピタリと止まった。
ミッドウェー攻略作戦は、まだ軍令部内で検討中の、最高機密のはずだった。
「…なぜ、それを」
「俺は総理だ。情報は大本営全体から吸い上げる」
坂上は嘘をついた。(実際は未来の知識だ)
「(東條)総理。ミッドウェーを落とせば、ハワイは丸裸。米西海岸も我が航空隊の脅威に晒される。米国民の戦意は砕け、早期講和が…」
「それこそが『勝利の病』だと言っている」
坂上は、東條の甲高い声に、1佐としてのドスを効かせた。
「山本君。君は真珠湾で勝った。マレー沖でも勝った。だが、それは敵が油断していたからだ。君は、敵の空母を仕留め損ねた。違うか?」
「そ、それは…敵空母が不在だったという不運…」
「不運ではない。それが戦争だ。そして、君が仕留め損ねた空母(ヨークタウン、エンタープライズ、ホーネット)が、今、どこで牙を研いでいると思う?」
坂上は、海図を指した。
「君がミッドウェーに誘い出そうとしているその海域で、敵は、我々の暗号をすべて解読して、待ち構えているとしたら?」
「暗号解読だと!? 馬鹿な! 我が軍のD暗号が…」
「もし、解読されていたら?」
坂上は、山本の目を真っ直ぐに見据えた。
「君は、ミッドウェーに、虎の子の機動部隊(赤城、加賀、蒼龍、飛龍…)をすべて差し出すつもりか? 『もしも』暗号が漏れていたら、それは全滅を意味する。その責を、君は取れるのか?」
山本五十六は、何も言い返せなかった。
彼の作戦は、常に「敵がこちらの想定通りに動く」ことを前提とした、脆いバランスの上に成り立っていたからだ。
「……では、総理は、海軍に座して死を待て、と?」
「逆だ」
坂上は、別の海図を広げた。彼が「いずも」で何度もシミュレーションした、対潜・対艦戦闘の基本図だ。
「戦線を拡大するな。シンガポール、蘭印を確保したら、そこで止まれ。そこを『要塞化』しろ」
「守り、ですか…」
「そうだ。そして、全力を挙げて『輸送船団(シーレーン)』を防衛しろ。潜水艦から油と鉄を守り抜け。米国の潜水艦(ガトー級)は、君が思うより遥かに高性能だ」
またしても、山本は驚愕した。なぜ総理が、まだ実戦データも少ない米潜水艦の性能を知っているのか。
「我々は『勝つ』必要はない。ただ、『負けない』ことだ。
時間を稼ぐ。
兵站を守り、本土を防衛し、新型兵器(核と迎撃機)を開発する。
そして、米国の物量が我々を凌駕する『1944年』より前に、彼らに『これ以上やっても割に合わん』と思わせ、講和に持ち込む」
それが、坂上真一(東條英機)が描く、唯一の「勝利」へのロードマップだった。
「…(東條)総理。あなたの言う戦争は、あまりに、夢がない」
山本は、絞り出すように言った。
「夢で国は守れんよ、山本君」
坂上は、冷たく言い放った。
「海軍の夢(ミッドウェー)のために、陸軍の兵も、国民の命も、これ以上無駄に使う気は、俺にはない」
執務室を出ていく山本の背中は、真珠湾の英雄のそれではなく、自らの「夢」を打ち砕かれた、一人の男のものに見えた。
坂上は、最大の障壁(ミッドウェー海戦)を、ひとまず回避したことに安堵しつつも、新たな危機を予感していた。
(これで海軍は、俺(東條)を完全に敵とみなした。そして陸軍内部でも…)
「合理的すぎる」指導者は、狂信的な時代において、最も暗殺されやすい存在であることを、彼はまだ知らなかった。
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