EP 3

勝利の病

1941年12月10日。

坂上(東條)がこの時代に来て、まだ48時間しか経過していない。

だが、世界は激動していた。

「号外! 号外! 帝国海軍、マレー沖にて英東洋艦隊主力、戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』『レパルス』ヲ撃沈セリ!」

官邸に響き渡る部下の声に、坂上は眉ひとつ動かさなかった。

執務室の机には、彼が要求した「東條英機の日記」と、陸海軍の膨大な作戦資料、そして粗末な紙に包まれた「珈琲飴」の山が置かれている。

(航空機だけで戦艦が沈む。これで海軍は完全に増長する)

21世紀の軍人である坂上にとって、これは「航空優勢」の重要性を証明する戦術的常識だ。だが、この時代の者たちにとっては「奇跡」であり、大艦巨砲主義の終わりを告げる「神話」の始まりだった。

そして、神話は常に、非合理的な熱狂を生む。

「総理、素晴らしい。これでシンガポールは丸裸です!」

秘書官の赤松が興奮して報告する。

坂上は、その熱狂を冷水で浴びせるように、静かにキャンディを一つ口に放り込み、硬い飴を奥歯で噛み砕いた。(この時代の粗末な飴は、坂上の知る滑らかなそれとは程遠かったが、カフェインの苦味だけが思考を研ぎ澄ませた)

ガリッ、という不快な音に、赤松が僅かに肩をすくめる。

最近の総理は、この奇妙な西洋菓子を常に口にしている。

「赤松君。浮かれるな」

「はっ…しかし、この大戦果…」

「戦果は、次の作戦の『資源』だ。消費するものではない」

坂上は立ち上がり、執務室に招集していた陸海軍の作戦課長たち、そして軍令部総長の永野修身(の代理人)を見据えた。

「本日、大本営政府連絡会議を緊急招集する。議題は『第二段作戦以降の基本戦略の再定義』だ」

「再定義、でありますか? 緒戦は計画通り…いえ、それ以上に進んでおりますが」

海軍の作戦課長が、不満げに口を挟む。

「だからだ」

坂上(東條)は、彼が3日で読み込んだ「東條英機」の口調——神経質で、甲高く、相手に反論を許さない口調——を完璧に模倣した。

「諸君は『勝利の病』に罹っておる。マレーで勝ち、真珠湾で勝った。次はどこだ? オーストラリアか? インドか? それともハワイ占領か?」

図星を突かれた海軍将校たちが息を呑む。実際に、軍令部内ではそれらの「夢想的」な計画が公然と語られていた。

「(東條)総理。海軍としては、敵が反撃の拠点として使い得る『豪州(オーストラリア)』の遮断、あるいは攻略を進言するものであります」

「却下する」

即答だった。

室内の空気が凍りつく。

「なっ…なぜでありますか! 敵の芽を早期に摘むのは戦の常道…」

「兵站だと言っている!」

坂上は、赤松に命じて持ってこさせた日本地図と、彼が徹夜で精査した「輸送船団稼働率」のレポートを床に叩きつけるように広げた。

「見ろ! 今確保した蘭印(インドネシア)の油田から、本土まで油を運ぶタンカーの数だ! これだけで我が国の全輸送力の7割が張り付くのだぞ!」

彼は21世紀の知識で、シーレーン防衛の脆弱性を正確に理解していた。

「シンガポールを落とし、フィリピンを制圧する。これが第一段作戦の『目的』だ。それ以上は『欲』だ」

「しかし、山本長官は、米機動部隊との早期決戦を…」

「それだ」

坂上は、海軍将校を鋭く睨みつけた。

(来た。ミッドウェーの地ならしか)

「山本元帥の真珠湾の功績は認める。だが、彼は艦隊決戦に固執しすぎている。戦争とは、経済と兵站の総力戦だ。賭博(とばく)ではない」

「そ、総理は、山本長官の作戦を『賭博』と!」

「そうだ。米国の工業力を知らぬ者の夢想だ」

坂上は、自分が持ち得る最大のカードを切った。

それは「陸軍大臣」としての東條の権限と、「海軍への不信感」という東條の個人的感情の利用だった。

「陸軍大臣として、明確に告ぐ。南方資源地帯の防衛に必要な兵力は出す。だが、それ以上の、オーストラリアやインド、ましてや米本土に近い島々(ミッドウェーを暗に指す)への攻略作戦には、陸軍の兵力は一兵たりとも割かん!」

「(東條)総理!それでは海軍の作戦が…」

「海軍だけでやればよかろう。兵站も、占領後の統治も。できるものならな」

海軍の将校は、怒りで顔を真っ赤にして黙り込んだ。

陸軍の兵力(占領部隊)無しに、大規模な上陸作戦など実行不可能だ。

坂上は、冷ややかに続けた。

「我々が今なすべきは、戦線の拡大ではない。確保した資源地帯を死守する『絶対国防圏』の早期確立だ。そして…」

彼は、息を吸い込んだ。ここからが、坂上真一の本当の戦争だ。

「本土防衛だ」

「本土…でありますか? 敵はまだハワイの先に…」

「甘い」

坂上は、手元の資料から一枚の紙を抜き取った。それは、彼が秘書官に命じてドイツ経由で集めさせた、米国の工業生産力に関する(不完全な)レポートだった。

「敵は、我々が想像もできぬ新型の長距離爆撃機を、すでに開発している」

(B-29。お前たちのことだ)

「そして、ドイツから不確定情報が入っている。敵は、『都市を一瞬で消滅させる新型爆弾』を研究していると」

(マンハッタン計画。広島…)

室内の全員が、総理の言葉を理解できずにいた。

「都市が…消滅、ですか?」

「御伽噺ですな」

「御伽噺で国は守れん!」

坂上は一喝した。

「これより、我が国の戦争指導の最優先事項を改める。

第一、絶対国防圏の確立と、兵站(シーレーン)の死守。

第二、高高度迎撃戦闘機の開発。

第三、新型爆弾の研究だ」

彼は赤松に向き直った。

「理化学研究所の仁科芳雄博士を、即刻、官邸に呼べ。これは『陸軍(東條)』の極秘命令としてだ」

熱狂に浮かれていた将校たちは、東條の(彼らにとっては)突拍子もない、しかし有無を言わせぬ迫力に圧倒されていた。

坂上真一は、「東條英機」という最強の仮面を被り、破滅の未来に対して、たった一人で反撃の狼煙を上げた。

彼の口の中には、すでに苦いコーヒーキャンディの欠片だけが残っていた。

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