第56話「小さな一歩 前編」3
屋敷の仕事を終えた夜。
――
心にも影響が出ている。
春燕は小さく息を吐いた。
「きっと、何か心配ごとがあるのね……。」
机の前に膝をつき、母の形見の薬箱を開く。
香木のかすかな香りが立ちのぼる。
彼女の指先は、慈しむように薬草を選び取っていく。
翌日。倉庫の裏手で、春燕は
「これを、あなたに。」
手渡したのは、丁寧に包まれた煎薬。
「これを温めて、一日三回に分けて飲んでね。」
「……春燕様?」
「飲む時は一度温め直して。食事は
少し生姜を入れても身体が温まるわ。」
柔らかい声で説明する春燕に、景元は言葉を失った。
こんな細やかに、優しく気遣われたのは
いつ以来だろう。
「これは……何とお礼を申し上げれば……。
春燕様は、薬にお詳しいのですか?」
驚きと敬意が入り混じった声で言う。
春燕はふふ、と小さく笑った。
「医師のようにはいかないけれど、母が少し教えて
くれてたの。簡単なものなら作れるだけ。」
その笑顔が、冷え切っていた景元の心を
少しだけ溶かした。
沈黙ののち、彼は意を決したように口を開いた。
「……春燕様は…妊婦の病も、診れますか?」
春燕は驚いて目を見開いた。
「妊婦?」
「妻が……腹に子を宿しているのですが、病で。
街に来た医者の薬を飲ませても、まるで効かないんです。
その医者は、“効かぬなら特別な高い薬を”と言って……。」
苦しげな顔で言葉を詰まらせる景元。
「病気はどのくらい続いているの?」
「もう一月ほど……。食も取れず、日に日に
痩せていくんだ。」
医者が渡した薬で改善されない…。
春燕は頭の中で疑問に思った。
「そのお医者様は街の方?」春燕が聞く。
「いや、市街地にくる流れの医師だ。」景元が答える。
(流れの医師は街の医師に比べ、安価ではあるが
腕も知識もかなり偏りがある…。
もし誤った薬を出していたら…。)
「それなら、一度街のお医者様に診てもらったほうがいいわ。
琳家にはお抱え医もいるでしょう?
「駄目です!」景元の声が一気に震えた。
凌偉の名を出した瞬間、彼の顔から血の気が引いた。
「凌偉様は、俺を……恨んでおられる。
俺は――旦那様と奥様を助けられなかった。
あの時、俺が……!」唇が震え、声が詰まる。
春燕は息を呑んだ。
(旦那様と奥様……凌偉様のご両親……)
彼女の知らぬ、過去の痛み。
景元の動揺をみると凌偉様にも知らせない方が
いいのかもしれない。でも…助けてあげたい。
(私にできるのなら)
春燕はゆっくりと目を閉じ、深く息を吸った。
「……景元。」
彼女の声は静かに、それでいて力強かった。
「私が、診てもいい?」
顔を上げた春燕の瞳には、確かな決意が宿っていた。
お母様が亡くなってから、ずっと言われてきた。
「薬学なんて、そんなもの何の役に立つのか」と。
幼い私は、何も言い返せなかった。何もできなかった。
けれど——今なら。
今の私なら、きっと何かできる。誰かの役に立てるはず。
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