第55話「小さな一歩 前編」2

 承光楼しょうこうろうの左右には六つずつの倉庫が並び、取引商品の

保管や管理を行っている。

春燕しゅんえんが帳簿の仕事に携わるようになってから、

倉庫にもよく顔を出すようになった。

今では倉庫番たちともすっかり打ち解け、彼女が

顔を出すたびに、「春燕様、ようこそ」と笑顔で迎えてくれる。


帳場の者たちと倉庫の者たちも、よく冗談を

言い合っていて、琳家の使用人たちはどこか

家族のように見えた。


――ただ、一つだけ。

春燕の胸に、いつもひっかかる違和感があった。


凌偉りょういが倉庫に姿を見せると、その空気が一瞬で

変わり、ぴんと張り詰める。

誰もが姿勢を正し、声を潜め、息まで浅くなる。

恐怖――というには違う。

けれど尊敬とも、緊張とも、少し違っていた。

まるで“触れてはいけない痛み”を共有しているような、そんな空気。その曖昧な重さが、

春燕の胸をかすかに痛ませた。


 その日、春燕は帳簿と実物を照らし合わせるため、

穀物倉庫を訪れた。中では倉庫番の一人、景元けいげんが、

昨日運ばれた穀物の袋を確認している最中だった。


「景元。」

春燕は静かに声をかけた。

「春燕様。どうかされましたか?」

景元は慌てて手を止め、頭を下げた。

「顔色があまり良くないようだけれど。」

春燕は少し眉を寄せ、彼を見つめた。


ほんのわずか――だが確かに、いつもより

血の気が薄い。声にも張りがない。


程は小さく笑い、首を振った。

「いやあ、大したことでは…。」

「脈を見てもいい?」

「えっ、春燕様が?」

春燕はためらわず、彼の手をそっと取った。


指先が脈を探る。

静かな時間が流れた。


「……何か症状は?」

「胃が痛むんです。最近、あまり食事が取れなくて。」

「そう。」

春燕は彼の目を見て、柔らかく頷いた。

「無理はしないでね、景元。」

春燕は微笑みながらそう言い、手を放した。

その手の温もりに、景元の胸の奥がじんとした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る