第二十一話 炎の心臓

 火車も、炎羅童子も還ったあと。

 焔ノ峰の奥は、さらに静かになった。


 熱は確かにあるのに、炎はどこにもない。

 空気は震えているのに、風は吹かない。


 この場所は――火が生まれる前の場所だった。


「ここが……焔ノ峰の心臓……」


 沙羅が小さく息を呑む。


 火巫女である彼女は、言葉にせずとも感じていた。

 これは“火が火であるための揺らぎ”の源。


 しかし――その揺らぎは今、押し潰されていた。


『…………』


 ひかりは気づく。

 声がないのではない。

 声を出す“余白”が奪われている。


(火が……息を止められてる)


 胸の奥が、ぎゅ、と締め付けられる。


 その中心に、影がいた。


 炎でも、焔でもない。

 真紅と黒が濁った、塊の揺らぎ。


 形は人のようで、鬼のようで、獣のようでもある。

 しかし。


「……あれが、鬼王サカキ……?」


 ひかりは直感した。


 違う。


 これは “鬼王サカキだったもの”。


 名前が奪われるということは――

 形を保つ理由が消えるということ。


(ユグラと……同じ)


 森そのものになっていったユグラの、あの喪失の気配。


 ひかりは歩みを進めようとした。


 その前に、影が割れた。


 炎ではない。

 息でもない。


 存在がひとつ、立ち上がる。


 赤い羽織。

 焦げたような髪。

 目は火の揺らぎをそのまま閉じ込めていた。

 だがその炎は、燃え尽きる直前の火種の色だった。


『……』


「あなたが……紅蓮」


『然リ……』


 紅蓮はひかり達に背を向けたまま、影――サカキを見ていた。


『主ハ、マダ“生キテ”イル。

 ダガ、呼バレヌ。

 名ヲ。

 タッタ一ツノ本当ノ名ヲ』

「名前を奪われたから……」

『主ハ“名”ヲ喪ッタ。

 名ハ理ノ根。

 名ナキモノ、己ノ形ヲ保テズ』


 ひかりは息を呑む。


『名喰ラウ影が在ル。

 主ノ名ハ奪ワレ、火は泣イテイル』


 サカキの揺らぎが、苦しげに震える。


『サカキハ、火ノ守リ手ダッタ。

 火ガ暴レヌヨウニ、火ガ泣カヌヨウニ、

 コノ峰ヲ“見守ル者”ダッタ』


 ひかりは拳を握る。


「なのに……火を泣かせてる」

『泣カセテイルノデハナイ。

 泣カセテシマッテイルノダ。

 主ハ、モウ……主自身ヲ覚エテイナイ』


 影が、ゆらりと揺れた。


 その揺れは、深い、深い痛みの波。


「……泣いてる」


 言葉は、震えでも叫びでもなかった。


 ただ事実だった。


「サカキは、泣いてるんだよね」


 紅蓮は、ゆっくりとひかりの方を振り返る。

 その瞳には、火種のような光があった。


『頼ム。

 主ヲ……火ノ元ヘ還セ』


 ひかりも、迷わず頷いた。


「もちろん」


 火を泣いたままにしない。

 もう誰も、ひとりにしない。


 その時。

 影――サカキの揺らぎが、ひかり達に向き直った。


 熱が、吹き荒れる。


 怒りではない。

 悲鳴でもない。

 名前を呼ばれたい叫び。

 焔ノ峰が震える。


 ひかりは刀に手を添えた。


『助ケヲ乞ウ声ハ、理ノ底ニ沈ム。

 聞コエル者は……汝』


 ひかりの胸が強く脈を打つ。

 そして無意識に、一歩前に出ていた。


「……私が、呼ぶ」


 迷いはなかった。


「行こう」


 サカキの影が揺れ、洞穴が震えた。


『……名ヲ……返セ……』


 暴走する火が、牙を剥くように吠えた。

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