第二十二話 焔哭の鬼王―護りの炎―①

 彼は立っているだけだった。

 動かず、何も持たず、ただ揺らいでいた。


 鬼の巨躯。

 だが、その肩は沈んでいる。


 強さではない。

 威圧でもない。


 重さだった。


『………………』


 音にもならない揺れが洞の天井を震わせる。


「……苦しいの?」


 ひかりが問いかける。


 その瞬間、影がわずかに震えた。


『……ナ……マ……エ……』


 かすかに。

 だが確かに。


『……返……セ……』


 声ではない。

 名前を求める理の悲鳴。


 ナナシが前に出る。


「ひかり、お前は斬れねぇ。

 でも“触れられる”」

「……うん」


 沙羅が一歩寄り添う。


「火は今、泣いてる。

 それに触れられるのは、ひかりだけだよ」


 ひかりは頷き、刀に手を添えた。


 サカキが、揺れた。

 揺らぎは次の瞬間、熱風に変わる。


『ォォアアアアアア―――ッ!!』


 世界が捲れたようだった。


 熱ではなく、

 燃えられない火の痛みが叩きつけられる。


「っ……!」


 ひかりは踏み込む。


「――《樹走》!」


 足元に木の根が走り、身体を地へ繋ぎ止める。

 衝撃に吹き飛ばされないための“根”。


 続けて、ひかりは刀を横へ払う。


「《樹閃》!」


 ひかりの《樹閃》が触れた刹那、

 サカキの炎は、一瞬だけ 本来の揺らぎを取り戻した。


 燃えようとする炎。

 燃えられず押し潰される理。

 それらが、ほんの一拍だけ整った。


 その時だった。


『……オレハ…………』


 洞が揺れた。


 声ではなく、理の震え。


 ひかりが息を呑む。

 紅蓮もわずかに目を見開いた。


『オレハ……焔ノ峰ヲ護リシ者……炎ヲ統ベル……鬼王※※※』


 音が切れた。

 いや、切れたのではない。

 名だけが、存在ごと削り取られた。


 まるで、そこに“本来ある文字”を

 ぐしゃりと黒い手で塗り潰されたように。


 ひかりは胸が締め付けられるのを感じた。


(言おうとしてる……

 自分で……

 自分の名前を……)


『アアアアアアアアア!!』


 燃えたい。

 でも、燃えられない。


 その矛盾が、サカキを暴れさせる。


 サカキの腕が振り下ろされる。

 ひかりは刃で受け、足を踏みしめた。


 重い。

 重い。

 重い。


 それは力ではなく――

 背負ってきた年月そのものの重さ。


『……ナマエ………返セェェェエエエ!』


 その声は怒りではなかった。

 泣きながら、助けを求めている声だった。


「サカキ……」


 ひかりが呼びかけようとした瞬間。


 空間が ひしゃげた。


 闇ではない。

 炎とも違う。


 もっと、薄く、冷たく、形を持たない“影”。


 まるで誰かの背後に立つ影をそのまま引き剥がしたような、

 輪郭のない黒い歪みが現れた。


『………………』


 声はない。

 しかし“喰う”という意思だけがあった。


 紅蓮がかすれた声で吐き捨てる。


『名喰ラウ影……!』


 影は、サカキの喉元へ絡みつくように揺らぐ。

 サカキの名を呼ぶ“権利”を奪うように。


 ひかりの体が震えた。


(名前を……

 呼ばせないために……

 “影”がいる……)


 サカキは声にならない声で叫ぶ。


『――――――ッ!!』


 暴走が再び燃え上がる。

 しかしそれは怒りではない。


 名前を取り戻したいだけの叫び。


 ひかりは刀を握り直した。


「大丈夫。

 呼ぶよ。

 ちゃんと、呼ぶから」


 影が、ひかりに向かって伸びた。


 ナナシが刀を構える。


「ひかり!

 ここから先は、“呼び合いの戦い”だ!」


 沙羅が頷く。


「火は、一人で自分の名前を思い出せない

 だから、呼んであげて!」


 紅蓮は、目を閉じる。


『……我、主ノ名ヲ本来ノ音デ呼ベズ……。

 故ニ、汝ニ託ス』


 ひかりは前に進む。


 目の前には、

 名前を奪われた鬼と、

 名前を喰らう影。


 刀を構えるのではなく――

 手を伸ばすように。


「もう一度、名を……」


 焔ノ峰が震えた。


「あなたの名前を、呼ぶ!」

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