第十九話 禍輪の火車

 火車が吠えた。

 炎が爆ぜるのではなく、喉の奥に詰まった声が漏れるような――苦痛の叫び。


「行くよ、沙羅!」

「うん!」


 ひかりは一歩走りだす。

 しかし、斬るためではない。


 火は敵ではない。

 火は泣いている。


「――《樹閃》!」


 刀が、音ではなく“線”を描いた。

 ひかりの斬撃が空気を割ると、その軌跡に緑の光が芽生える。


 ひかりは木の理。

 木は火を拒まない。

 火を燃やすことで成り立つ理。


 だから、火車の炎は一瞬、鮮やかに燃え上がる。


(燃えることは、痛みじゃない)

(燃えることは、生きることだ)


 火車の炎が揺れ、迷いが剥がれるように、炎の輪郭が整い始める。


 しかし、燃えるだけでは暴走は止まらない。


 ひかりは間髪入れずに踏み込んだ。


「《樹縛》!」


 樹閃で生まれた炎を包むように、

 刀の軌跡から蔓が伸び、火車の身体を抱きしめるように固定する。


 拘束ではない。

 苦しみを抑えるための抱擁。


「沙羅!」

「……うん、今!」


 沙羅は袖から札を取り出す。

 灰白の紙に朱の印が刻まれている。


 火を否定する符ではない。

 火を消す符でもない。


 これは――火が火に帰るための符。


 沙羅は火車へ手を伸ばした。


 声は祈りでも命令でもない。

 火と同じ高さの声。


「あなたは“奪う火”じゃない。

 燃える火。

 灯す火。

 生きる火」


 火車の炎が震える。

 その揺れは、怒りではなかった。

 泣きたい、という揺れだった。


 沙羅はそっと、火車の額に札を貼る。


「――《鎮火符》」


 符が、静かに、炎のように燃え落ちる。


 爆ぜるのではない。

 静かに。


 火車の炎が、形を失っていく。

 ただ、その消える刹那――

 火車はひかりと沙羅を見た。

 炎の奥に、たしかな“目”があった。


 そして――


 炎は、ゆっくりと火種へ還り――

 焔ノ峰へ、静かに帰っていった。


 苦しみも、痛みも残さずに。


 火車が火種へと還っていったあと、

 洞窟には短い静寂が降りた。


 誰も言葉を発しない。

 話す必要がなかった。


――焔ノ峰の奥で、もう一つの炎が、かすかに揺れた。


 二体目の火車だった。


 先ほどのように、吠えることもできない。

 声は、もう形にならなかった。


 ひかりは刀を構えなかった。

 構える理由が、もうなかった。

 ただ一歩、前に出る。


 火車は逃げなかった。

 襲いかかりもしなかった。

 ただ、震えていた。


(帰りたいんだ……)


 言葉でも、声でもなく。

 炎の揺らぎが、そう告げていた。


 ひかりは刀を軽く払う。

 木の理が、優しく火に触れる。

 燃えられなかった炎が、ほんの一瞬だけ“火として燃える”。


 それで十分だった。


 沙羅は歩み寄り、

 ひかりの肩越しに、火車へ手を伸ばす。


 鎮火符が指先で揺れた。

 符を貼る音は、火の息と同じだった。


 ぱちり。


 火車は崩れなかった。

 断末魔もなかった。

 炎はただ、ほどけるように消えた。


 最後に残った火種は、

 ひかりの掌ほどの大きさで、

 ゆっくりと浮かんだ。


 風は吹いていなかった。

 それでも、火種は流れていった。

 帰るべき場所へ。


 ひかりも沙羅も、言葉を挟まなかった。

 語るものは、もう何もなかった。


 ただ――

 その小さな火種が消えていくまで、二人は見送った。

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