最後の夜、それが精一杯のハロウィン
天野橋立
最後の夜、それが精一杯のハロウィン
「坊ちゃま、お荷物をお持ちいたしますよ」
大陸間飛行船の船室専属の老スチュワードがにこやかに、ホーリーの小さなトランクに向かって右手を差し出した。
「ううん、僕、自分で持つんだ」
彼は首を横に振った。幼い彼には、分かっていた。もう、こんな特別扱いは終わりになるのだと。
スチュワードは、ほんの一瞬だけホーリーの両親の様子を伺ってから、
「分かりました。ご立派なお心がけです、坊ちゃま」
と、両足をきちんとそろえてお辞儀して見せてくれた。
少しだけ大人になったみたいな、得意な気分で、ホーリーはトランクを持ち上げ、船室へのタラップを上がった。
ホーリーの父は、先日の選挙で野党へと転落した政党に所属する、元代議士だった。通常であれば、次の選挙を目指して活動を続ければ、また返り咲くチャンスもあっただろう。
しかし、新たにこの国を動かすことになった最高権力者は戒厳令を敷き、かつての政敵たちを徹底的に弾圧し、警察組織を動かして逮捕することさえためらわなかった。もはや、次の選挙など行われまい。
やがて自分の番が来ると判断したホーリーの父は、最低限の財産だけを手に、妻子と共にこの国を去ることにした。幸い、祖父の代まで暮らしていた海の向こうの国に、受け入れ先が見つかった。
新しい家では、今まで暮らしてきたお屋敷でのような、贅沢はできない。
両親と一緒に、温かい
「ローザやハンナは一緒に来てくれないの?」
と、自分をかわいがってくれたメイドたちの名を挙げてたずねたが、これから住むことになる小さな邸宅では、たった一人の家政婦を雇うのが精一杯なのだった。
推進装置のプロペラを回すガスエンジンの轟音と共に、大陸間飛行船はゆっくりと地上を離れた。
個室の窓からは、この国の首都の夜景が広がって見える。かつての繁栄ぶりに比べれば、明らかにその輝きは鈍ってはいたが、まだその眺めは十分に美しく見えた。
今日は10月31日。昨年までであれば、この街のあちこちで、仮装した子供たちがおやつをねだって家々を訪ねまわる姿が見られただろう。
しかし、今や街は戒厳令の下にある。各々の家の中で飾りつけをして楽しむ、それが精一杯のハロウィンの過ごし方だろう。
「お客様、お茶をお持ちしました」
老スチュワードが、銀色に輝くポットとティーカップ、そして小さな紙箱を載せた
ソファーの前のテーブルに並べたカップに、スチュワードがお茶を注ぐと、ダージリンの香りが部屋いっぱいに広がる。
「そうそう、よければこちらもお召し上がりを」
彼がそう言って開いた紙箱を、なんだろうとのぞきこんだホーリーは、わあと歓声を上げた。
「ハロウィンのお菓子だ!」
そこに入っていたのは色とりどりの――と言っても、ハロウィンカラーの紫やオレンジ色などに限定されていたが――のクッキーたちだった。それぞれカボチャのランタンや足のないおばけ、とんがり帽子の魔女などの、おなじみの面々の姿をしている。
今年のハロウィンはあきらめないといけないんだ、と思っていた聞き分けの良いホーリーにとって、これは何よりのプレゼントだった。
「本当に良かったわねえ」
と、クッキーに夢中の坊やの頭をなでるお母さんの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。元代議士の父は、感謝のまなざしを老スチュワードに向ける。
今の一家にとっては、これがホーリーに与えることができる、精一杯のハロウィンの思い出なのだった。
飛行船が飛び去ったちょうどその後、この街では、デモ行進をする市民に対する、政府軍による発砲が行われることになった。飛行船の窓の向こう、輝く夜景のその中で、幾人もの一般市民が命を落としていたということになる。
「ハロウィンの悲劇」と呼ばれたこの事件は、長く続く独裁政治の入り口として、歴史に刻まれることになった。
その状況から脱出することができたホーリーの一家は、まだしも恵まれていたと言えるだろう。しかし、幼いホーリーがその事実を知るのは成長した後、ずっと先のことになる。
今の彼はただ、ハロウィンのおばけたちと無邪気に戯れるばかりだった。ささやかな幸せを、噛みしめながら。
最後の夜、それが精一杯のハロウィン 天野橋立 @hashidateamano
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