第8話 許婚の、腕

 ……気まずい。


 口んなか変な感じする……他人の唾液が混ざったおかしな感触。


 女の子の唾液……。


 いや、背徳感がすごい。

 駄目だ、こんなこと、考えるな。


「あの、どうぞ」


 ふと、漣華さんが何かを差し出してきた。


「え? あ……水筒?」

「うがい、とか……」

「いや、別にそんな……大丈夫です。出発するときにお互い歯磨きもしてましたし……ていうかそんな気にしてないので」

「そ、そうですか」


 そう言って、膝にするカバンの中に水筒を戻す漣華さん。


 すると、また窓の外に顔を向けてしまう。


 その窓に映る顔が、ここからでも薄くみえた。


 眉を鈍角に薄く曲げた表情。何かを憂うような、そんな顔。


 言い換えるなら、何かへの不安を持ったような顔。

 真っ先に思い浮かぶ原因は……自分自身だ。


 俺が許嫁であることに、心配があるのかもしれない。


 そう、思わざるを得なかった。


 そうでなくても。そもそもほぼ初対面の許嫁。何か、不安があるのが当たり前な気もする。

 現に、俺もそうだ。


 漣華さんが、それ以上に不安になっている可能性も大いにある。


 しかし、それを確かめるのは……。

 いや、許嫁なら。


 それを聞くぐらいは、良いだろう。今後の、俺たちの中を取り持つためにも。


「あの、れんかさん」


 そう言うと、れんかさんはぴくりと肩を震わせた。

 そして、俺の方を見る。


「は、はい、なんでしょう」


 ……明らかに、作ったような、無理をしたような笑顔。


 いや、しかし、俺のために頑張って気を使ってくれている証左でもある。


 ならば、聞いてしまおう。


「あの、俺に、何か不満はありますか」


 そう聞くと、漣華さんはぱちくりと目をしばたたかせた。


「え、どういう、ことですか」

「いや、あの……俺に、至らぬ点があったら、言ってほしくって」


 すると、ますます漣華さんは、疑問の表情を形作って、首を傾げてくる。


「な、なんでそんなことを? 逆に、私に何か、ありましたか?」

「え……」


 そう聞かれると、たじろいでしまう。

 別にそんなことは一つもない。


 ただ、俺は。


「いつも、その……悲しそうな顔をされているな、ていうか」


 そう思っただけだ。


 そう言うと、れんかさんは目を少し大きく見開いた。


「……そう、ですか。そう、見えましたか」

「す、すみません、間違ってたら、その」

「いえ……ごめんなさい。考え事を、してて」


 そう言って、れんかさんは、ふ、と顔を小さく下へ伏せる。

 その表情が、よく見えなくなった。


「なんでも、ないんです。考え事をしていただけです。達哉さんに、非があることではありません」

「そ、そう、ですか」


 本当にそうなら、いいんだけど。

 でも、本人が否と言うなら、俺がこれ以上踏みよることでもない。


「それに、達哉さんは、ずっと素敵な人ですから」

「えっ……」


 不意に。

 心臓が、どきっとしてしまった。


「私が不満を持つなんて、とても」


 はは、と。

 れんかさんは顔を上げて、ごまかすように笑ってみせた。


「あ、ありがとうございます。それなら、いいんですけど」

「……でも」

「え」


 ごまかそうと、俺は窓の外をみようとした。

 そんなところに、れんかさんが続けてくる。


 俺はとっさに目だけを、漣華さんの方へ向けた。


 ぎゅっ、と。


 俺の制服の裾を、漣華さんは、その小さな指先でつまんでいた。


 その顔にある表情は。

 俺からは、重力に引かれた髪の毛に隠されて、見えなかった。


「ちょっとだけ、抱きしめさせてもらっても、いいですか」


 まるで、泣き出しそうな声だった。


 なんで、と疑問が湧いて出てくる。

 でも。

 それを聞くほどの、愚鈍な男にはなれなかった。


 なにか。


 この人の後ろに、何か大きなものがあるような気がして。


「いい、ですよ」


 俺は、頷いていた。


「すみ、ません」


 ぎゅっ


 れんかさんの体重が、俺の腕に乗ってきた。


 柔らかい。細い腕が、俺の体を抱きとめる。


「すみ、ません」


 弱く、でも切実な、強い感情の籠った抱擁。


 ふるふると、れんかさんの手は、震えていた。


 分からない。その理由は、全く分からない。

 俺はこんなふうに、泣きながら、人に抱きついたことはないから。


 でも、だから。その切実さにあてられて、俺は動くことができなかった。


 分からない。なんで、こんなに泣いているんだろう。


 ほとんど見ず知らずの俺に、抱きついて謝るほどの、大きな感情が。

 そんなに大きな理由が、この人にはあるのだろうか。


「っ、ふっ」


 よく、分からない。


 あれだけ、唇を強く奪って。


 それでも、こんなにか弱くて。


 必死に俺に、儀式をさせて。それなのに、こんなにも小さく弱い。


「ごめんなさい、ごめん、なさい」


 何も知らないのに。

 何も、わからないのに。


 どうしてこんなにも、心が痛む。

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