第9話 許嫁と学校と赤面

 バスに揺られること十数分。それから駅について、二駅分。


 礼鵬高校は、それくらいの距離にある場所だった。


「ここが……」


 とても閑散とした場所。

 屋根もないような小さな駅のプラットホーム。

 

 そこに立っていると、朝の涼しい風がひゅうと吹き抜けてくる。


 見渡す限りの緑の園だった。

 線路を守る柵の向こうに、それ・・を見ることができる。

 緑に包まれた小さな丘の上に、小さな塔がぽつんと立っていた。


 こんな自然があったのかと思った。俺の知らない場所に、こんなに広い場所が。

 制服に身を包んだ自分が少し場違いにすら思えてくる。


 肺を動かすと、吸った空気がとてもおいしく感じた。


「行きましょう」

「あ、はい」


 一言を言って歩いていく漣華さんと、俺たちは駅のホームを出た。


 じゃりじゃりと、靴の下で舗装されていない道路の音がする。


 当然のように舗装されていない道を、俺たちは歩いて行った。


 とても閑散としている。俺たち以外に人の音は聞こえない。

 スマホを見てみると、今はまだ八時少し前。この学校の開校時間がいつかはわからないが、それなりに早いのではないのだろうか。


 丘の急な坂を上ってすこし行くと、すぐそこはもう校舎だった。


 赤いレンガで作られたお城のような様相。

 赤い石で建てられた塀には、『私立礼鵬学園高等學校』と書かれていた。


 ここがこれから俺が通うことになる学校か。

 思ったより大きいわけではない。丘の上にある、ちょっとしたお城のような。

 学校というには、少しメルヘンチックにも思える。


 門は既に開いていて、一応入ることができるみたいだ。


「あの、漣華さん、これ入ってなんですか?」

「あ、はい。大丈夫、です。……あの」

「はい?」


 ふと、漣華さんが俺の方を見上げてくる。


 その目線が、ちらと俺の腕を見た。


「すみません、あの、涙、つけちゃって」

「あいや、別に。乾いてますし。漣華さんの方こそ、大丈夫ですか? 何かあったとか……」

「……だいじょうぶです。少し、ため込んでいただけです」


 そう言うと、漣華さんはそのまま入口の方へと歩いて行った。


「行きましょう」

「あ、はい……」


 ……やっぱり、何かあるんだろうな。

 でも、明らかに言いたくなさそうだ。なら、無理に聞くこともできない。


 とりあえず、今は学校に集中するしかないか。


 入り口に入って、漣華さんは靴箱で靴を履き替える。


「あの、俺は靴、どうしたら」

「あ……そうでしたね。番号とかまだわからないですもんね」


 すると、漣華さんはうーんと唸った。


「上の方においておくのはどうでしょうか」

「あ、確かに」


 言われたとおりに脱いだ靴を靴棚の上に置いて、それから持ってきていた新品の上履きに履き替える。


 なぜかこちらもサイズがピッタリ。制服といい、ほんとに誰が測定したのだろうか。足のサイズなんて今時学校でも測らないだろうが。


「では、まずは職員室に」

「あ、はい」


 返事をして、二人で一緒に木製の廊下を歩いて行く。

 木製……木製の廊下ってすごいな。教室だと木製の床はあるだろうけど、廊下で木製というのはあまりなじみがない。


 歩いていると、『職員室』と看板の掲げられた場所にはすぐについた。


 漣華さんはそのドアをこんこんとノックして、手をかけて少し開きながら口を開く。


「三年二組の安曇宮漣華です。富山先生お見えですか」


 すると、すぐに返事が返って来て、若い男性がやってきた。

 背は俺より少し高いくらいか。年齢は三十代前半のように見える。目には黒縁の太めの眼鏡をかけていた。

 若い、好印象の先生だ。


 すると、すぐにこちらに気が付いて、話しかけてくる。


「ああ、宇藤くんですか」

「あ、はい。宇藤です。あの、転校生で」

「うん、わかってるよ。ちょっと待っててね。いろいろ用意するから」


 そう言って、先生は少しだけ席を外して、それからすぐに戻って来た。

 今度は、腕にいっぱいの段ボールを抱きながら。


「じゃあ、行こうか」


 どうやら三年生の教室は一階にあるらしく、そこにはすぐについた。

 目的地は三年二組。


 ということは、俺と漣華さんのクラスは同じになるらしい。


「ちょっと持っといてくれるかな」

「あ、はい」


 渡された段ボールを手にすると、ずっしりと重かった。

 何が入っているんだろうか。

 そう思っていると、先生はガチャリと教室の鍵を開く。


 どうやらまだ空いていなかったらしい。


 ガラリと開いた教室に先生に続いて入ると、ものすごく木の匂いがした。


 席の数はおよそ三十くらいだろうか。俺のいた高校よりもかなり少ない。

 前には黒板、後ろにも一つ黒板、しかし鞄を置く場所はない。


 たぶん、鞄などは机の横に掛けるスタイルなのだろう。


「よし、宇藤くん、君の席はここだ」

「あ、はい」


 と、先生が指し示すのは、かなり後ろの方にある机だった。


 窓側の、一番後ろ。

 転校生の定位置といった場所だった。


 そこに段ボールを下ろすと、先生はそそくさとした手つきで開け始める。


 のぞき込むと、中にはいっぱいに教科書類がつまっていた。


「持ち帰るのはすぐじゃなくてもいいから、少しずつお願いね。起き勉は基本的に禁止だから」

「はい、分かりました」

「今日の授業は数学、社会科目二つ、英語、国語。とりあえずこれだけは机の中に仕舞っといて」

「は、はい」


 そう言って、先生はてきぱきと、その荷物を俺の座席の中にしまい込んでいく。


「じゃあ、後は机の横に置いておくから。大丈夫?」

「大丈夫です」

「それじゃ、後は頑張ってね」

「え、あはい」


 そう言って、先生はそそくさと教室から出て行ってしまった。


 ……これで終わりなのか。


 漣華さんの方に目を向けると、隣の席で何やら準備を始めていた。


「どうしましたか」

「あ、えと」


 視線に気づかれた。微妙に恥ずかしい。


「ちょっと不安で。意外と先生、説明してくれなかったし」


 すると、漣華さんは一瞬だけ目を伏せて、愛想笑いをした。


「富山先生は忙しいんです」

「そ、そうですか」


 まあ、よくわからないが、漣華さんがそう言うのならそうなんだろう。

 漣華さんは続けて口を開く。


「授業まで時間あるので、少し授業のこと教えましょうか。進み具合とか、違いますよね」

「あ、はい。ぜひ、お願いします」

「じゃあ、とりあえず数学から……教科書、出してください」

「わかりました」


 先ほど席の中に入れられた教科書を机の上に出すと、漣華さんはぱらりとそれを開く。

 ページ数は、まだ十ページ目。

 まだ四月だから、授業進度はそれほどなのだろう。


 よかった。これなら、まだ追いつけそうな気がする。


 すると、漣華さんは椅子を俺の席の隣に移動させて、着席するように促してくる。


 席に座ると、漣華さんは説明を始めた。


 ……少し緊張するな。

 女の子と、こんな感じで勉強会か。


 男として思わず頬が緩んでしまう。


 誰もいない教室の中でこういうのも悪くはないだろう。むしろいいかもしれない。


「じゃあ、まずは――――」


 そんな感じで、漣華さんは説明を始めてくれた。


 そして、俺も熱心に耳を傾けた。


 のは、一〇分ももたなかった。


「……? …………??」

「ですから、この連立方程式のxの求め方は、ここで求めるaが必要になります。なので、先にこの式をたてて、それからまずここを解く必要があるんです」

「えっと、aを求める必要性は分かるんですけど、なんでこの式をたてる必要があるんですか……??」

「え? えっと、ですので、先ほど言った、この問題文の関係上、三つ以上の式が必要じゃないですか。だから、なんです」

「なんで三つ以上の式が必要って分かるんですか……?」

「え、分かりませんか……?」


 ……どうやら、美少女と二人きりで勉強会は、そううまくいかないようだ。


 そして、二人目の来訪者がやってくるまでに、俺の脳みそショートはずっと続くことになった。


「あれ? 安曇宮さん? その人……誰?」


 と、その男の声で、俺と漣華さんは厳しい沼の中から目を覚ましたように、ぐっとそちらに顔を向けた。


 俺と漣華さんの首の動きが、見事なまでにシンクロして、油を指し忘れた機械のようにギギギと動く。


「うわっ、どうした」

「あっ、希和原きわばらさん……」


 そう言う漣華さんの声は、聴いたことないくらいに疲れていた。


「大丈夫安曇宮さん……? 三年間の中で一番見たことない顔してるけど」

「えっと、達哉さんに、勉強を教えていて……」


 すると、その希和原と呼ばれた人の目が、俺の方に動いた。


「……転校生の人?」

「あ……どうも、こんに、はじめ……あ……すみません、宇藤達哉です」

「自己紹介で言葉出てこなくて謝った人初めて見たよ」


 その人は頬に汗を垂らして、『ええ……』というように見てきていた。


「だ、大丈夫? 初対面だけど……水やり忘れた盆栽みたいな顔してるよ?」

「すみません、ちょっと……集中してて。すみませんこんな枯れかけの盆栽みたいな顔で」

「ごめん、冗談だから忘れて」


 すると、その人は気が付いたような顔をして、また言ってきた。


「ああ、君が……安曇宮さんの婚約者の人か」

「え、知ってるんですか」

「知ってる、って、みんな知ってるよ。たぶんこれから来る人も、ていうかこの学年はみんな知ってるんじゃないかなぁ」

「え、そんなになんですか……?」

「そりゃあ……だって、ここらへんで一番有名なお嬢様、だし」

「そ、そうなんですか」


 まあ、薄々想像はしていたが。やっぱりすごい家なんだな、安曇宮家って。

 前の学校でミリも話題にならなかった俺とは全然違う。


「そういう君はもっとすごいんでしょ? 安曇宮家と袂を別った本家、って話だけど」

「え、そこまでわかってるんですか?」

「そりゃぁ。まあ、誰が情報源か聞かれるとそれはわかんないんだけど。正解な感じ?」

「はい、本家、らしいです」

「らしいです、って。大丈夫なのそれ?」


 そう言って、その人は俺の机にぎっと手を付け体重をかけてきた。


 長めの金髪がゆらっと揺れる。

 ファンタジーみたいな人だった。


「一応、家系図とかもあるみたいなんですけど……まあ、俺の家は歴史だけ重ねたみたいなもんですから、そんなにすごくはないですよ」

「……」


 すると、その人は、すこし難しい顔をした。


「あれ、なんか……まずい事でしたか」

「いや、ちょっとね。耳貸して」

「え? どういう……」

「来たのが自分で良かった。ちょっと」

「あ、はい」


 手招きをされて、言われるがままに耳をそちらに向ける。

 すると、小声でこんなことを言われた。


「君は安曇宮さんよりすごい、ってもう噂になっちゃってるから、結構気を付けたほうがいいかも」

「えっ……!? そうなっちゃってるんですか」

「うん。そもそも安曇宮さん、超勉強もできるからね」


 目を向けると、漣華さんは不思議そうな目つきでこっちを見てきた。


 すんません、こんな目の前で内緒話して。


「だから……結構頑張ったほうがいいかも。たぶんこれから来るヤツラにも結構ヨイショされることになる。だから、まあ……うん、頑張れ!」

「ええ……?」

「あの、達哉さん、何を話して……?」


 すると、漣華さんが聞いて来た。


「大丈夫、安曇宮さん。こっちの話」


 希和原さんがそう言うと、漣華さんは首をかしげる。


「初対面でそんな話できるほど、希和原さん、積極的な性格でしたっけ」

「えっ……安曇宮さん、たまに痛いところ突くね」

「えっ、あ、すみません、間違ってましたか」


 すると、漣華さんはわたわたとした様子で手を動かし始める。

 それに、希和原さんは弁明した。


「いや、間違ってない。転校生でテンション上がっちゃっただけ。いつもはこんなんじゃないから」


 すると、希和原さんは再び俺の方に小さな声で言って来た。


「見ての通り、安曇宮さんはちょっとズレたりもしてるから。婚約者として気を付けて」

「……気を付けて何とかなるものなんですかね……?」

「わからん。俺は安曇宮さん婚約者にしたことないし」

「……それはそうですけど」

「でもまあ、さっきの安曇宮さんの発言が嫌味とかじゃなくて、本気で思ってのこと、ってのは自分も分かってる」


 そう言って、希和原さんは小さく息を突いた。


「それに、クラスの他の人間も分かってる。でも、まれにそれを良く思わないやつもいる。それに気を付けたほうがいい、っていうことだけ。オッケー?」

「……オッケー……たぶん」


 ……たぶんオッケーじゃないけど。

 こういうことなら、前の高校でもちゃんとコミュニケーションとかがんばっときゃよかった。


 漣華さんの身にまつわるあれこれも、俺は婚約者として気にしなければいけないのか。

 当たり前だけど失念していた。でも難しすぎる。

 まず、俺は漣華さんの人となりもよくわかってないのだから。


 難しい表情を作っていると、目の前に、すっと手が出てきた。

 希和原さんの差し出した手だ。


「というわけで、自分の名前は希和原友二きわばらゆうじ。よろしく」

「あ……はい」


 手を握ると、いきなりぎゅっと何倍もの力で握り返された。

 一瞬だけ冷たいなとか思った感情はどっか吹き飛んでしまった。


「っ、いっ……! えっ、と、俺は、宇藤達哉。よろしくおねがいします。希和原さん」

「友二でいいよ。こっちも達哉って呼ぶから」

「あ、はい……友二……」


 それから、希和原……友二は、俺の前の席に、どすんと腰を下ろした。


「じゃあ、この三人組で、末永くよろしく!」


 にかっ、と、友二は笑って見せた。

 気持ちの良い笑みだった。


 ていうかイケメンだなこの人。


 まあなんとか、初めての友達はできたらしい。

 とてもいい人そうで良かった。


「じゃあ授業まで時間あるし、勉強と一緒に達哉のいろいろ聞かせてよ」


 椅子に顎を預けながら、そんなことを友二は言う。


「まあ……はい、いいですけど。あの、漣華さんは」

「別に、私も、大丈夫……ですけど。やっぱり希和原さん、初対面の相手にそんなにアクティブでしたっけ……」

「ゔっ、また痛いところ突かれた……曇りなき眼から繰り出される杭が痛すぎる……」


 苦しげな声を出して、友二は胸をわざとらしく抑えた。


 かなり鍛えてるようで、剣道部か何かだろうか、大胸筋にその指がぐっと入り込むほどだった。


 身長は俺より低くて、顔も体もかなり細く見えるのに、すごいな。めっちゃ鍛えているのだろう。


 すると、友二は俺の机に目を向けた。

 そして、ぐっと覗き込んでくる。


「あれ、ここか。あー、これ難しいよね。なるほど、さっきはこれに苦戦してたわけか。こりゃ、安曇宮さんじゃうまく教えられないぞ」

「……あの、気にしてることをはっきり言うのは希和原さんも同じでは」


 遠慮がちに、ちょっと細い目をして漣華さんは言う。


「まあまあ、そんなに気にするな安曇宮さん! そんな気にしてたら将来結婚できないぞ!」

「いやっ、もう婚約してますっ」

「あ、もうしてたか!」


 友二の高い笑い声が、あっはっはっと響いた。


 思わず、俺もふっと笑い出してしまった。


 というか、漣華さんが、一言でもこんなに必死になって言い返すのを初めて見た。いや、顔合わせの夜もあったような気がするけども。


 ともかく、よかった。初めての友人が、こんな明るい人で。


「まあ、天才の思考は天才に任せて、自分らは凡人らしく頑張ってきましょうよ達哉くん」

「え、まあ、はい」

「というわけでここの問題ね。きっと安曇宮さんのことだから、いきなり『式三つ立てましょう』とか言ったんじゃないの?」

「えっ、なんでわかったんですか、希和原さん」


 驚いたように、目を丸くする漣華さん。


「ははっ、ほんとにそうなんだ」


 と、また友二は笑った。


「あの、友二、言いすぎじゃ……? なんか漣華さん、見たことない顔してるし……」


 目を向けると、ぐっ、と唇を結んで、顔を赤くして震える漣華さん。


「お、久々に見たなぁ、お嬢の怒り顔」


 友二が嬉しそうにそう言うと、漣華さんは、俺の聞いた限り、一番大きな声で、でも結局小さく口にした。


「怒って、ませんっ……!」


 また、初めて見るような顔だった。


 そして、ぶわっと友二がまた笑い声をあげる。


 よくわからないが、少しだけ、漣華さんの新しい顔が見れたのが嬉しいように感じてしまった。


 それから、俺は友二と漣華さんの三人で、ずっとわちゃわちゃと話を続けていた。

 見れないところまで、沢山の漣華さんの顔を見れた。友人に向ける漣華さんの日常の顔、うまく教えられないと苦悩する漣華さんの顔。


 それに笑う友二と、それから早口に否定する漣華さん。


 新鮮で、とても楽しい会話で。


 あと、友二の説明はめっちゃわかりやすかった。

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