第13話
『ヒナタさん。俺、一度ヒナタさんに会いたいです。団体の事務局に行けば、会えますか?』
奏斗がヒナタと連絡を取り合うようになってから、三年が経っていた。もうこれだけの時間を重ねているから、怪しんで会ってもらえないことはないのではないか、と考えてはいる。
会ってどうするつもりなのか、菜月のことを伝えるつもりなのか、決めたわけではなかった。一度会って、直接話をしてみたい。そして今ヒナタが幸せに暮らしているのかわかれば、それでいい。
『ソウくん、どうしたの? 急に』
突然の誘いに、ヒナタは困惑しているようだった。奏斗は怪しまれないように、大学生になる前に、アロマンティックの人たちのコミュニティを紹介してほしい、ともっともらしい理由をつけた。
『僕よりも、当事者の友達がいるから、紹介しようか? その方が色々と話を聞けるだろうし』
『ヒナタさんがいいです、俺初対面の人と話すのは苦手で』
完全に口から出まかせと言ってもいい言い訳だった。ヒナタに会うのが目的なのに、違う人を紹介されては元も子もない。やや強引かとは思ったものの、奏斗は引かなかった。
ヒナタはそういうことなら、と明後日の十三時に会う約束を作ってくれた。
奏斗は深く息を吐いた。自責の念を一旦抑えつけて、ベッドの下に隠した卒業アルバムを引っ張り出し、もう一度三年B組のクラスページを開く。
菜月と日和、二人が楽しそうにお弁当を食べている姿が小さく写っている。
こんな顔で笑うんだ。
こんな風に、心の底から笑う母を見たことがあっただろうか。
見そびれていた他のページも開く。二年生以前の写真は、写っていても二人ともほとんど真顔だ。二人で写る写真だけが、弾ける笑顔を見せていた。ピンボケのスナップをもう一度取り出す。
ライブハウスのマスターの話を思い出すと、途端に胸の辺りが重くなる。ヒナタは、ライブハウスでの一件をきっかけに、わざと離れざるを得なくなる嘘をついたのだろうか。
奏斗はアルバムをもう一度ベッドの下に隠すと、部屋を出てリビングに向かった。
菜月はダイニングテーブルで本を読み、和奏はソファに横になってドラマを見ていた。晴臣はまだ帰宅していない。
和奏が寝転がっているソファを背もたれにして座り、テレビを眺めた。
「奏斗さん」
後ろから突然和奏に名前を呼ばれ、怪訝な顔で振り向くと、もう一度「奏斗さん」と呼ばれて思わず鳥肌が立った。
「急に何。気持ち悪いんだけど」
「にいにって呼ばれるのと、奏斗さんって呼ばれるのと、カナトンって呼ばれるのだったら、どれがいい?」
また訳のわからないことを言い出した。本当にこの妹の考えている事は理解の域を超える。
奏斗は目を細め、体をのけぞらせて和奏の顔を訝しげに睨みつけた。
「……にいに、がいいです」
「わかった。じゃあ、にいに」
納得した様に頷くと、和奏はなぜか菜月に聞こえないように声のトーンを落とした。
「今日遊びに来てた友達だけど、学校の友達?」
「律? そうだけど」
「律」
和奏は奏斗の言葉を繰り返すように名前を口にした後、小さな声で「やっぱり」と言って口を閉ざした。
「え、何?」
「出身中学、どこか知ってる?」
「知らない」
「あの人、文国出身だよ」
「え? だって中高一貫だろ? 辞める人いるの?」
「稀にいるよ。文グリが身についてるからひょっとして、とは思ったけど」
学校内だけの略称を一般用語としてさらりと使われ、奏斗は続きを話そうとする和奏の口を手で制した。
「ちょっと待て。文グリってなんだよ」
「文鴎グリーティング。うちでは初めましての挨拶の時には握手を求める。日本人はあまり触れ合いをしないから、学校以外では躊躇われるんだよね。あの人、初対面で握手求めたし、私も慣れてるから普通に握手しちゃったけど。だから文国出身かなって思ったの」
そう言われて見れば、律も和奏と挨拶をした後、手をじっと見て学校名を言い当てていた。そういうことかと合点がいく。
「で、なんで名前聞いてやっぱり、なわけ?」
「……やっぱり、なんて言いましたかね? 記憶がないですね」
「お前ってやつは」
呆れを通り越して怒りが込み上げる。
「そういう名前の人がいたなって思っただけ」
「なんで二学年下で、上級生の下の名前聞いただけでわかるんだよ」
和奏は自分で言い出したくせに妙に躊躇いながら言った。
「——合唱部で、よくソロを担当してて、有名だったから」
そんなに隠すほどの話でもないだろうに、そのあとはやたらと口籠る。こうなると頑固な和奏はなかなか口を割らないだろうから、奏斗はただ和奏をじっと見て、次の言葉を待った。しかしこれ以上自分から話す気はなさそうで、膝を抱えたまま動かなくなった。
一旦休戦、とばかりに和奏から目を逸らし、奏斗は立ち上がって菜月の様子を窺った。読書に夢中になっていて見られていることに気付きもしない。
ついさっきまで、母親の高校時代の思い出に触れていたかと思うと、申し訳ない気分になる。
それでもつい好奇心がむくむくと湧き上がり、奏斗はわざと様子を窺いつつ前を通り過ぎた。
冷蔵庫から麦茶を取り出してグラスに注ぎ、一口飲み込んで喉を潤すと、対面キッチンのカウンター越しに声をかけた。
「あのさ」
自分が声をかけられたと気付かなかった菜月が、しばらくしてから「え? 私?」と顔を上げる。
「そう」
「何?」
「あのさ、なんでラジオの仕事、しようと思ったの?」
「何、突然」
菜月は普段ろくに口もきかない奏斗が急に真面目な話をふってきたことに驚いたのか、少し戸惑っているようだった。
「いや、いつからやりたかったのかな? って思って」
奏斗は、曇り始めたグラスの表面を指でくるくるといじりながら、軽いトーンで続けた。
「んー。高校の時に、声が良いから絶対それを活かした方がいいって言われて。やりたいことも他になかったし、いいかも、って」
「誰に言われたの?」
我ながらなんて意地悪なのだろうと思いながらも、菜月の答えに期待していた。ヒナタのことが出る訳もないのに、心のどこかでつながりを認めてほしかった。菜月は少し迷っているように見えたが、それは奏斗の思い過ごしだったのかもしれない。
あっさりと、「当時の親友」とにべもなく応えた。
何を期待しているんだか、奏斗は思わず顔の筋肉が弛んで笑ってしまった。
「へえ。お母さん、友達いたの」
「失礼な、多少はいたよ。多分、奏斗よりはいた」
「それこそ失礼な、だよ」
菜月はテーブルの上に置かれた紙袋を手に取って、奏斗の方に見せて言った。
「これ持ってきてくれた友達は、最近できた友達?」
そして小さな子どもを揶揄う様にわざとらしく笑った。
「同級生。夏休みの最初に初めて喋ったんだけど、なんとなくそこから仲良くなって。妙にうまが合うっていうか、居心地よくて」
正直に奏斗が口にすると、菜月は頬を綻ばせた。
「いいね、そういうの。大事にしなね、そういう関係。また連れておいで」
菜月の過去に気付かなければきっと何も気にならない言葉だったかもしれない。何もかも知ってしまった今、『大事にしなね』という言葉は過当な重量をもって奏斗の心に深く沈み込んだ。
翌日は朝から細かい雨が降り続いていた。エアコンで冷えた湿気が足元に溜まっていくようで、歩くたびに足がぺたぺたと床に張り付いて不快だ。ベッドの下に隠したままの菜月の卒業アルバムが、さすがに心配になった。
奏斗はアルバムを取り出すと、リビングでパソコンを抱えている和奏に気付かれないよう、そっと階段を降りて廊下に出た。和奏はキャラクターのピンで前髪を留め、大きなヘッドホンを装着している。今日は家を出ない日だ。全く奏斗の気配に気づく様子もない。物置の扉をゆっくりと開け、アルバムを元の場所に戻した。
ほっと胸を撫で下ろし、何食わぬ顔でリビングを通り階段を上がろうとした時、
「にいに」
と、和奏が突然大きめの声で奏斗を呼んだ。
狼狽えながら振り返ると、和奏はハッキリと奏斗の方を見てソファから手招きをしている。なぜだか思い詰めた顔をしていた。
「なんだよ」
完全に気付かれていた気まずさを隠すように、やや不機嫌な声を出して和奏の隣に腰を下ろす。
和奏はヘッドホンを外すと、パソコンを操作して音楽を鳴らした。
パソコンから流れてきたのは、奏斗がユーチューブに上げた律の曲だった。ついにここまで広がったのかと嬉しくなり、画面を覗き込む。驚くべき事に『いいね』は一万を超えている。突然バズったらしい。
「これ、昨日来てた律ちゃんの歌だよね?」
本人がいないところで律ちゃんと呼ぶ和奏の適応力の高さに呆れながらも、疑問を投げかけた。
「なんでわかるんだよ?」
「うちらの年代で文国にいた人は、聞けばわかる。それくらい、伊之坂律は有名だったの」
和奏はパソコンを操作して、学校のホームページから即座に過去の記事を検索し始めた。
全日本合唱コンクール中学生混声合唱の部、金賞。独唱者はどうやら全て律のようだ。
「元々合唱部は強かったらしいけど、金賞を獲ったのは伊之坂律がいる二年間だけ。それも、一年、二年で抜擢されたのは、相当珍しかったって。三年目には、もういなかったから」
「なんで律、やめたの? お前知ってんだろ?」
和奏は苦々しい顔をして一瞬手を止めた。大きなため息をついて、観念したようにユーチューブのコメント欄を表示させ、奏斗の方にモニターを向ける。画面を覗き込むと、一番上に英語のコメントが書き込まれているのが見えた。
Ain’t this dude that Twink boy who ditched that school?
「……なんだよこれ」
「これが、先輩が学校辞めた原因だよ」
「ちょっと待て、めちゃくちゃ侮辱的な雰囲気は伝わるけど、どういうこと」
和奏は口に出すのも不快、といった表情で躊躇っていた。もういっそスマートフォンで調べようかとポケットに手を突っ込んだ瞬間に、和奏は苦々しく言い捨てた。
「こいつ、学校辞めた、あの可愛いゲイボーイだろ? ってことだよ」
コメントを軽蔑するように、和奏は画面を睨みつける。
「は?」
奏斗の頭は真っ白になった。その直後、一瞬にして怒りが沸点に達して、顔が熱くなった。
「グローバル教育を売りにした学校でそんな侮辱的な言葉が飛び交ってるなんて、クソすぎるだろ⁉︎」
「和奏が言ったわけじゃないよ!」
和奏は泣きそうな顔で、淡々と律が学校を辞めることになった理由を話し始めた。
律が三年になった頃、合唱部で一年上だった高等部の男子学生に律が告白した、という噂が流れた。それが真実かどうかは和奏にはわからない。しかし噂は一瞬で学校の裏サイトに拡がった。
和奏たち中一にまで知られた頃には、律はもう学校に来ていなかった。親に辞めさせられたという噂もあったらしい。学校の華々しい記録に貢献していた生徒を不登校に追いやった首謀者を、学校は徹底的に洗い出した。結局、最初のきっかけとなった投稿を流した高校生三人が退学になっている。
「そのあとは、いかにアウティングがいけないことか、とか、セクシャルマイノリティの講演会とか、たくさん受けさせられたよ、私たちも」
和奏は深くため息をついて両手で口を覆った。
だから律は、歌を外に出す事をあんなに嫌がっていたのかと理解し、奏斗の胸には激しい自己嫌悪の感情が押し寄せた。
自分が無理強いしたせいで、律が酷い仕打ちを受けてしまった。
「結局、教育なんて関係ないんだ。どれだけ上辺を知識で覆ったって、人間がマイノリティを見下ろす心理は消えない。だからこうやって、平気で何度も繰り返すんだろ」
「私はそうは思わないよ、絶対に、いつか誰が誰を好きでも普通になる世界は来る。昔に比べたら今はよっぽど——」
「和奏にはきっとわからないよ。昔も今も、根本は一緒だ」
今の方が、むしろタチが悪い様に思えた。噂は消えても、インターネットに載れば永遠に侮辱を受けたことは消えない。隠れることも許されない。
和奏は困惑したように、奏斗の肩を優しく手のひらで叩いた。 落ち着かせようとしているのは痛いほど伝わるのに、怒りの感情があとからあとから湧いてくる。過去に律が受けたぞんざいな扱いと、自分自身への怒りだ。
「俺が律の歌をアップしたんだ。律は、学校の人には絶対見つかりたくないって言ったのに。俺のせいだよ」
「にいにのせいじゃないでしょ。悪いのはこのコメント入れてる奴だよ。通報する」
そんなことをしても、無駄だと思った。
奏斗は和奏の制止を無視して立ち上がり、階段を駆け上がった。 スマートフォンを手に取り、律のアイコンを開く。いつもは送って五秒でつく既読が、昨夜からずっと未読のままで、彼はこのコメントを見てしまったのではないか、と不安になった。
通話ボタンをタップする。呼び出し音は何度も鳴り続け、もうダメかと思った時、「……奏斗?」とか細い律の声が聞こえた。
「律?」
どこか外にいるようで、受話器越しに走行車の跳ね上げる激しい水音と、傘にポツポツとぶつかる細かい雨音が聞こえた。
「律、こんな雨の中でどこにいるんだ?」
「散歩」
ちっとも笑えない冗談で律は誤魔化した。
「俺、お前に酷いことした。曲をアップするの、嫌がってたのに」
「どうして? 奏斗は悪くない。実は結構嬉しかったんだ。どんどん『いいね』が増えて、自分の曲を良いって言ってくれる人がこんなにいるんだ、って」
「でも——」
「ああ、もう。奏斗には何にも知られたくなかった」
電話の向こうの律の声は、細かく震えていた。雨音に消え入りそうで奏斗は受話音量を最大にして耳を澄ませる。
和奏が同じ学校に通っていたと知った時から、律は気が気じゃなかったのではないか。それなのに、律は何も言わずに自分のわがままに付き合ってくれた。
「俺、律が誰を好きでも気にしないよ」
「僕がかな……て言った……る?」
けたたましい電車の走行音が律の声をかき消した。ゴーという激しく特徴的な音の後に、随分長く線路を走る列車の騒音が続く。貨物列車の音だ。律が何かを話しているのに、どれだけ耳を澄ませても聞き取れない。
「律? ごめん聞こえない」
「奏斗が、人を好きになれないって聞いた時、僕、安心したんだ」
「どうして?」
「それなら奏斗は唯乃にとられない、って。最低でしょ? 奏斗は悩んでるのに」
奏斗は思わず息を呑んだ。かき消された律の言葉を推測するのは容易だった。律に自分の話ばかりを聞かせてしまっていた事が、恥ずかしかった。どんな思いで、どんな視線を自分に向けて話を聞いてくれていたのか。何も気づけなかった自分は、バカだ。
「律、とにかく俺、今から行くから。どこにいるんだ?」
律はその質問に何も答えず、無言を貫いた。必死で場所を探ろうと耳を澄ませ、音を聞き取ろうとするが、奏斗の耳には車と雨の音が絶え間なく聞こえるだけだ。
スマートフォンを耳に当てながら、クローゼットから着替えを取り出して着替える。喋っている間なら、律も変な気を起こさないはずだ。
「普通に女の子を好きになれたら、きっと今頃歌を続けていられたんだ」
「どうして男が好きじゃダメなんだ?」
「そういう家なんだよ。男が好きなんてみっともないって。歌なんかやってるからだって。偏見がひどいよね」
今までに見てきた律の行動を思い出して、全てがここにつながっていたことに気付いた。途切れないメッセージも、母親から遠ざけたことも、自分を友達じゃないと否定させようとした素振りも。
「僕だってさ、ずっと普通になりたいって思ってたよ。普通に女の子を好きになって結婚して、って。明日朝起きたら女の子を好きになれれば良いのにって。でも無理なんだよ」
「わかるよ、俺だってそうだよ。いつか誰かを好きになるって。でもダメなんだよ。でもそれで生きてくしかねえじゃん、俺たち」
「奏斗と僕は違うよ」
「なんで」
「奏斗は、気持ち悪いって言われない」
震える言葉の語尾にかぶさる様に、遠くで鐘の音が三回鳴った。
「律、俺はお前のこと気持ち悪くなんかないから——」
突然奏斗のスマートフォンから何の音もしなくなった。画面を見ると、真っ暗だ。
「は? ふっざけんなよ!」
充電切れだった。電源がつくまで待つ事など、できなかった。
奏斗の頭の中には、律が何か良からぬ事をしようとしている想像が広がっている。あながち大袈裟ではない。それくらいの傷を律は負っていると思う。
奏斗は部屋を飛び出し階段を駆けおりた。
「和奏、ちょっと出かけてくる」
突然のことに、和奏は目を白黒させてソファから飛び起きるように立ち上がった。
「なにがあったの?」
「ちょっと説明する時間がない、帰ったら説明するから!」
律のいる場所は、おおよその見当がついていた。つい最近、電話の向こうで聞こえた音と、同じ音を聞いていたからだ。
空はどんよりと曇り、雨足は少しずつ強まっていた。奏斗はウィンドブレーカーのフードを被り、自転車を走らせた。
雨が降っているからか、人通りは思った以上に少なかった。代わりに車はひっきりなしに走っていて、国道へ流れる交差点に差し掛かるたび渋滞を起こしかけている。
この街はいつもどこかで工事をしていて、気がつくと新しい建物が建ち、古い道路は張り替えられ、小綺麗に生まれかわる。奏斗が生きているたった十八年の間にも数えきれないほどのビルが壊され、洒落た建物に変わっていった。
二十四時間、いつも死にそうに生きている。
人間も、時代に合わせて古くなったものを取り替えられたらいいのに。要らぬプライドも価値観も。古き良きものだけを引き継いで、アップデートできないものなのか。街はこんなに変わっていくのに、人間は何も変わらない。
律や、ヒナタのような人間は何十年、何百年前から存在していて、周囲に溶け込むように自分を殺して生きていた。その存在を詳らかにし、知識として彼らの痛みを知ったつもりになっても、その感覚が当人のものとして捉えられない限り完全なる理解なんて難しい。
友達が左利きだったことを初めて知った時くらいのテンションで、「そうなんだ」と皆が思える日は来るのだろうか。
律の『奏斗は気持ち悪いって言われない』という言葉が心に突き刺さったまま抜けない。
どうして他人から気持ち悪いなんて言われなくてはならないのか。
あんなに天真爛漫で、才能に溢れて優しい人間が、ただ同性が好きというだけで攻撃対象にされなくてはならないのか。将来まで奪われないといけないのか。
昨日の出来事を思い起こせば、今の学校にも律の過去を知っている人間が複数いたということだとわかる。リアルな世界でも、ネットの世界でも、律はずっと傷ついていた。
その上で、奏斗が菜月やヒナタの過去を探ったことは、律にとって恐ろしい行動だったはずだ。
奏斗は一縷の望みを抱いて見当をつけた場所へ向かった。四人で花火を見たあの場所。大きな橋のたもとに、教会を模した結婚式場があった。鐘の音はきっとここからだろう。
橋へと緩やかにのぼるカーブを曲がる。車通りの割に人の姿はちっとも見えなかった。スピードを上げる車に巻き上げられ、濡れた路面はほの白く煙る。顔を濡らす雨を払い、じっと目を凝らすと、青いチェックの傘が歩道に転がっているのが見えた。
奏斗は自転車を歩道に持ち上げ、傘を拾った。フレームに傘を無理やり括り付け、さらに漕ぎ進めていくと、欄干のそばに人影が見えた。
「律!」
自転車が倒れるのも構わず走り出した奏斗は、律まであと少しというところで急停止した。
彼が立っているのが、欄干の向こう側だと気づいたからだ。
律はゆっくりと振り向き、目を見開いた。
「ええ。なんでわかったの? 奏斗、エスパーかよ」
いつから雨に打たれていたのか、髪も服もすでにびっしょりと濡れて、茶色い癖毛を顔面に張り付かせたまま、拭うこともなく青白い顔を覗かせた。
「絶対、変な気起こすなよ、いいな?」
手を伸ばしながら、ゆっくりとにじり寄るように近づく。濡れ続けた自分の手が、小刻みに震えているのがわかった。
「ゆっくり近づいても、急いで近づいても、もう気は変わらないから大丈夫だよ」
「気は変わらないってなに? 飛び込む気?」
「そう。人生をやり直す」
律はそれっきり何も言わず、靄がかかった河口の先に広がる海の方を見つめたままだ。
手を伸ばし、欄干を掴んだままの律の腕を掴む。
びくりと反応して離しそうになる手を抑えつけ「動くなよ、落ち着いて」と言ったものの、奏斗の手の方がよほど震えていて、律に伝わってしまいそうで怖かった。
「あのさ。俺は、きっとこれから先も、誰とも恋愛はしない」
律は俯いたまま小さく頷いた。
「でも、律は俺にとって一番心を許せる人だ。それだけはわかる」
律は薄く笑いながら、小さな声で、残酷だよ、と漏らす。
「律に嘘はつけない。でも律とはこれから先もずっと一緒にいる」
「ほら残酷だよ」
「俺を利用したらいい。どこで傷ついてきたって、ここに戻ってきたら何があっても律の味方だよ。俺を都合よく使えよ。家族みたいに」
奏斗は頭に浮かんだ言葉をひたすら出し続けた。ずっと友達でいてほしい。たとえ律が誰を好きになっても、それは変わらないだろう。奏斗の律への感情は、ほとんど家族愛に近い。それが、律が望んだ答えでないのはわかっているけれど、自分にとってこの感情はきっと、何よりも強い。きっと命もかけられる。
「奏斗。ありがとう。次に生まれてくる時は、奏斗も僕も、普通の人として生まれて来たいね」
律は奏斗の瞳をじっと見つめて、妙に力強く口にした。固まった決意は揺らがないと言われている気がした。
「やめろって。ここから落ちたって、死ねない。大して高くないんだから」
奏斗の言葉を聞いて、律は声を出して笑った。そして潤んだ瞳で奏斗の目をしっかり見つめて、消え入りそうな声で言った。
「死ねるよ。だって、僕はカナヅチだから」
その瞬間、律が欄干を掴んでいた手を離し、奏斗の手を振り払って、跳んだ。
いとも簡単に、なんの躊躇いもなく、スローモーションのように落ちていった律の姿は、水飛沫に消えた。
「律‼︎」
奏斗はすぐさまウィンドブレーカーと靴を脱ぎ捨て、欄干をよじ登って向こう側へ立った。思いの外、水面は遥か下にあるように感じた。それでも、手の震えはおさまっていた。
ばかやろう。勝手に死んでんじゃねえよ。
胸いっぱいに息を吸い込み、奏斗は大きく踏み込んだ。
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