第14話
警察から連絡が入ったのは、番組を終えて翌日の打ち合わせをしている最中だった。
あまりにも突然のことに動揺し、飛び乗ったタクシーの中で菜月は手の震えが止まらなくなった。
昨夜突然、どうして今の職業を選んだのかと、珍しく菜月に話しかけてきた。そして最近できた友達のことを楽しそうに話す姿が印象的で、奏斗のあんな笑顔を見たのは小学生以来だった。
菜月にも覚えがある。
好きは、言葉から溢れ出てしまうのだ。
たとえ奏斗にとってそれが友達の話でも、恋人の話でも、菜月は奏斗から話してくるまでは何も聞かないと心に誓っていた。
一体、なぜ、たった一日でこんな悲劇に変わってしまったのか。
奏斗が川に飛び込むのを走行中の車から見ていた人が複数人いた。
欄干のあたりにいた二人のうちの一人が落ち、驚いたドライバーが現場を通り過ぎてすぐに路肩に車を停め、駆け寄ろうとしたところ、もう一人はすぐに靴と着ていた上着を脱ぎ捨てて、止める間もなく、後から飛び込んだ。
奏斗の身元はその場に放置された自転車から発覚した。もう一人の身元はまだわかっていない、とのこと。
状況から見て、後から飛び込んだのが奏斗だと思われる。橋の上から様子を見守っていたドライバーの話では、後から飛び込んだ奏斗が先に水面へ上がって来て、二度ほど潜って先に飛び込んだ少年を水面に引っ張り上げたらしい。先に飛び込んだ少年は泳げず、奏斗は彼を抱えながら三十メートル離れた川岸の公園まで、なんとか泳いで辿り着こうとしていた。
力尽きそうになりながらも、あともう少し、というギリギリのところで救助が到着し、病院に搬送された。
二人とも命は助かったが、意識はまだ戻っていない。
家で待っているように伝えた和奏が、いてもたってもいられず病院に到着したのが、ちょうど警察からそこまでの説明を受けた時だった。
前髪には、キャラクターのピンが留められたままだった。
「もう一人は、伊之坂律くんです。きっと」
和奏が警察に告げた名前を菜月は聞いたことがなく、学校名と学年を伝えると、一人の警察官が情報を問い合わせに行くためか席を立った。
「和奏、奏斗から何か聞いてるの?」
和奏は菜月と正面に座る警察官の顔を見比べた後で、「本当は、私の口から伝えたくはないんですけど——」と目に涙を浮かべて、一連の出来事を訥々と語り始めた。
律という少年が、和奏と同じ中学に在学していた話を聞いて、記憶が蘇った。学校見学の際に舞台上で歌を披露した合唱部の子たちの中で、一際目立つ子がいた。独唱を任されていたその子が学校を辞めてしまった、という話は親の間でも話題になっていたが、彼の自主退学が同性愛のアウティング被害によるものだったと知り、激しく胸が痛んだ。
遅れて到着した晴臣と相談して、和奏は今晩由里子に預かってもらうことにした。病院前のロータリーで和奏をタクシーに乗せ、奏斗の元へ戻ると、見知らぬ夫婦らしき男女が廊下の椅子に座っているのが見えた。彼らは菜月たちを見て立ち上がると、こちらへ向かって深々と頭を下げた。
「伊之坂と申します」
二人は身なりが良く、体の大きな父親は威厳があったが、ひどく疲れた顔をしていた。母親は菜月よりは年上に見えたが、可愛らしい小柄な人だった。泣き腫らした目が真っ赤に充血している。
律の父親は、感情を読み取れないほどに無表情のまま、息子の自殺未遂に奏斗を巻き込んでしまったことを詫びた。律の事を心配しているようには感じなかった。取り乱す様子は何ひとつなく事務的で、その分、隣に立つ母親の憔悴しきった表情がひどく目立つ。
「奏斗さんが助けてくださらなかったら、律の命はまずなかった、と警察の方やお医者様から伺いまして……なんとお礼を申し上げたらよいか……」
律の母親の手は震えていて、今にもこの母親の方が倒れてしまうのではないかと思うほど、顔色が青白い。
「いえ、二人とも助かってなによりでした」
晴臣が当たり障りのない会話でこの場を切り上げようとしたことに、律の両親はむしろ戸惑っている様子だった。
ひと通り、うわべだけの挨拶を済ませ、お互いに気まずさが流れる前に、そそくさと律の両親は戻って行った。母親の方は律の様子を見に行ったようだが、父親は病室を通り過ぎて帰って行ったように見えた。
「……なんつーか、もし目撃者がいなかったら、奏斗と二人で心中したとでも思われてたのかな」
缶コーヒーを飲みながら、並んで座ったベンチの隣で晴臣が小さく呟いた。
「あの子、ゲイバレを苦にしての自殺だったってことだろ? 順番に落ちたのを目撃されてなきゃ、奏斗もそう思われてたってことだよな」
晴臣のその言い方がとげとげしくて、菜月は顔を顰めた。
「そういう言い方、どうなの」
「だってそういうことだろ」
「二人の関係が本当はどうだったかなんて私たちにはわからないし、それで奏斗は違うからよかった、っていう発想になる意味がわからない」
「菜月の言い方の方がトゲあるだろ。奏斗もゲイだって言いたいわけ?」
「わからないって言ってるだけでしょ。本人が何も言ってないのにここで憶測広げてどうするの」
「……そりゃ、菜月にはそういう人たちの扱い方がよくわかってるんだろうけど。こういうのって遺伝とかあるのかな」
あまりにもストレートな嫌味に胸が苦しくなる。菜月は、言い返してなるものかと静かに深呼吸をしてやり過ごした。
「オミってもっと視野の広い人だった気がしてたけど、変わったね」
「現実だよ。さっきのあの子の親を見ててもわかるだろ。子どもがそういう理由で自殺しようとするほど追い詰められて、その上他人を巻き込んで。憔悴しきった顔、してただろ。結局、周りが誰も幸せにならないんだよ」
晴臣の言葉の全てが、本来、二十五年前に自分に向けられるはずだった言葉のように感じて眩暈がした。元々彼には偏見がたっぷりとあって、それを覆い隠して味方のふりをしていてくれたことの表れだと思った。
そして、もし和奏であれば、ここまでのことは言わなかったはずだ。男同士であるが故、今まで溜めていた本音が露呈している。
どちらにしても、同じことだ。自分が晴臣を騙し続けていただけ、晴臣も菜月に隠していた本音があった。ただそれだけのこと。
「……私は、奏斗がどういうマイノリティでも、受け入れるよ。もちろん、律くんも。私たちができることは、二人がこれから先自分らしく生きていけるようにただ見守るだけでしょ」
「綺麗事だろ。俺は嫌だよ。奏斗が男連れてきても、許せない」
これ以上、この話題に触れたとて、何ひとつ良いことなんてないことがよくわかった。そしてこれが、ごく一般的な親の意見であることも。
それから二日経っても、奏斗の意識は戻らなかった。
菜月は、九月終わりに予定していた夏休みの予定を変更してもらい、翌週に代理を立ててもらうことができた。
インターネットのニュースに載ってしまった為に、奏斗の件は菜月が語るより詳細に職場では知られているようだ。幸い、律の自殺未遂の理由にまで言及されることはなかったが、少年が友人を助けるという、無駄に感動を誘う記事にされているものはあった。
すっかり落ち着いた和奏は、普段通りの生活を送り始めていた。和奏の学校では、律のことについて特段噂にはなっていないようで、それだけが救いだ。
「ねえ、ママ。にいにって、スマホも水没させたの?」
病院に向かう準備をしていると、ブランチを食べていた和奏が突然思い出したように言った。
「そういえば、渡された持ち物に入ってなかったから、川に落としたのかな」
医者の話によると、奏斗は脳に障害も起きておらず、状態は安定していて、じきに目は覚めるだろうと言われていた。現実に戻ってくるのを拒否しているのか、ただただ眠ったままの奏斗を毎日見つめているのは菜月にとっても辛い時間だった。
「あれ?」
「どうしたの?」
和奏は自分のスマートフォンを耳に当て、人差し指を口の前に立てた。
「にいにのスマホ、普通に鳴ってるんだけど」
家の中のどこかで着信音が鳴っているのがうっすらと聞こえる。
和奏は立ち上がり、菜月を手招きして階段をゆっくりと上りはじめた。着信音は徐々に大きくなり、奏斗の部屋のドアを開けると、机の上の充電スポットで大きな音を鳴らしていた。
「置いていったんだ」
和奏はスマホを取り上げると、ロック画面上に現れた通知をスクロールした。
「なんか色々通知来てるけど、もう二日も無視しちゃってて、大丈夫かな」
「やめなさいよ、人のケータイ覗くの」
「でも二日だよ? ほらこのヒナタって人から何件も来てる」
和奏はメッセージがきていることを知らせる通知画面を菜月の方に向けて見せた。
メッセージの前半部分だけが一部読める。
『昨日は何か、急な予定でも入ってしまいましたか?』
『心配しています。よかったら連絡をください』
「昨日この人と会う約束してたんじゃないのかな、にいに」
表示されたメッセージを読む限り、そのようだ。しかし相手が何者かわからない以上、奏斗が目覚めるのを待つしかない。
「仕方ないよ、目が覚めてから対応するしかない。とりあえず、持っていくから充電器も取ってくれない?」
和奏はもっと食いついて欲しそうな顔をしていたが、このままではロック解除までしかねない勢いだったので、菜月は和奏の手からスマートフォンを取り上げて鞄の中にしまった。
意識のない奏斗の病室は、まだ親しか入ることができなかった。今日もまだ奏斗は目を覚まさず、穏やかな顔で眠っていた。鼻から伸びる管が痛々しい。
手を握ってみても、頬を撫でてみても、何の反応もなくて心配が募る。うっすらと伸びて来た髭を見ると、知らぬ間に大人になってしまっていたようで切なくなった。
病室の前に誰か立っていることに気がついたのは、菜月がコーヒーでも飲みに行こうかと席を立った時だ。
入院着を着て、点滴をぶら下げたままの少年が菜月に向かって頭を下げた。ひょろっと背が高く、首が長い。今時の子の体格だ。茶色く染めたくせ毛が印象的で、菜月はすぐにこの少年が律だとピンときた。
「律くん、だよね?」
律は固い表情のまま頷いて、もう一度頭を下げた。
「本当にごめんなさい……」
今にも泣き出しそうな律にこれ以上謝罪をさせたくなくて、菜月はすぐさま律の背中を押し、わざと陽気な声を出して休憩所へ促した。
「もうすっかり体はいいの?」
「僕は、わりとすぐに目が覚めて、昨日から動いてます」
「そう、それはよかった」
休憩所の自動販売機の前で、律に飲みたいものはないかと聞くと、頑なに律は拒んだ。休憩に付き合ってよ、と菜月が言ってからやっと、躊躇いがちにホットココアを選んだ。
体が冷えた状態で運ばれて、そのままエアコンの効いた室内にいるから、夏の暑さを体が忘れてしまっているのだろうか。ゆっくりと紙コップにココアが抽出されていくのを、律は神妙な面持ちでじっと見つめていた。
自分のコーヒーを持ってテーブルに着くと、律はコップを両手で包んだままじっと座って菜月を待っていた。
「あの、奏斗はまだ……?」
律の表情は澱んでいた。背中を丸めて、上目遣いに菜月を見る。 助けられた方が先に目覚めてしまい、どれほど無念だっただろうか。その罪悪感は想像を超えるだろう。
「先生からは、じきに目覚めるだろうって言われてるから、心配しないで。きっとちょっと起きるのが面倒くさくなっちゃって寝てるだけだよ」
そう菜月が軽口を叩くと、律は笑うわけにもいかなかったのか、あやふやに口元を緩めて「ごめんなさい」と小さく呟いた。
そして唇を湿らす程度にココアを飲み込んだ。
菜月には、彼を怒る気になど到底なれなかった。晴臣に言わせれば、甘いのだろう。それでも、自分だけは理解するべきだと思った。
「あの、奏斗は、僕とは違うんです」
「え?」
「奏斗と僕は、ただの友達だから、安心してください」
俯いたまま震える律を見て、菜月は苦しくなった。
今の時代は情報に溢れ、自分が何者かを自分自身で検索できてしまう。その手軽さに身を助けられることもあれば、他人を指一本で殺してしまうこともある。世間の理解は進んでいて、菜月が若い頃よりはるかに良い時代になっているはずなのに、どうして息苦しさは増してしまうのだろう。
「そっか。でもね、私は、たとえ奏斗があなたを好きだったのだとしても、平気だったから。謝らないで」
「……自分の子どものことでも?」
「うん。気にならなかったんだよね。多分、気持ちわかるからかな。私も女の子を好きになったことがあるんだ」
律は特に驚きを見せなかった。ただ、「そうなんですか」と小さな声で呟いただけだ。あまり、こういう近づき方は良くなかったのかもしれない、と菜月は軽く唇を噛んだ。
「あの、その女の子とは、どうなったんですか?」
おかしな事を聞くのだな、と感じた。どうにもなっていないから今は結婚して、奏斗と和奏がいるわけだ。
「彼女も今頃結婚して、普通に過ごしてるのかな、とは思うけど」
息子の友達相手に話すことではないと思いつつ、するすると脳内の引き出しから日和の記憶が溢れ出る。さも、遠い過去の恋愛を語るように、思い出話として聞こえるように話せているか、心配になった。
「今も、その人に、会いたいですか?」
「うーん。どうだろう……会わない方がいいと思っていて」
「どうして?」
「不安なんだよね。会ったらきっと、年甲斐もなくまた好きになってしまう気がして」
冗談めかして言うと、律は少し顔を綻ばせた。
もしあのまま、日和との関係を続けていたら、自分がこの子だったのかもしれない、と思った。自分ではそれなりに、どんな目に遭ってもいいと覚悟はできていた。でもそれは、外部から攻撃を受けることも中傷されることもなく、辛い思いをしなかったから、そう思えていただけなのかもしれないし、そうならないように守られていた自覚もあった。
「私は、ただの恋愛に舞い上がった子どもだったけどね。相手が多分、すごく大人だったから。だから今、私はここにいるんだと思う」
いまだ忘れられていないなんて話は到底できなかった。律には、忘れた方がいいことがきっとたくさんある。
「そんな風に、思い返せる恋愛ができたらよかった」
律は窓の外に目をやり、ぼんやりと駐車場に出入りする車を眺めながら呟いた。何も気の利いたことが言えない。こんな時、日和だったら彼をうまく励ます言葉が出たのだろうか。
「生きてて。それだけでいいから」
律は俯いて「はい」と小さくつぶやいた。
その時、菜月の鞄の中でスマートフォンが振動した。「ちょっとごめんね」と律にことわりを入れロックを解除する。和奏からのメッセージが何通かまとめて届いていた。
『にいにがやり取りしてた人、わかった』
『この人だと思う』
『ねえ、にいにってやっぱり何らかの性的マイノリティで悩んでたんじゃないのかな。この人、そういう支援団体の人っぽいよ』
メッセージと共にURLが貼付されていた。和奏のメッセージは情報量が多くて、処理に苦労する。
URLを開くと、ヒナタという人のSNSのアカウントが開いた。
ピンクがかった空のアイコンが目に飛び込んでくる。
「ねえ、律くん。この人、知ってる? 奏斗がやり取りしていたらしいの。昨日会う約束をしてたみたいで」
菜月がスマートフォンの画面を律の方に向けると、律は口を押さえたまま黙り込んでしまった。丸い目が明らかに泳いでいる。
「何か知ってるの?」
「……奏斗が、色々相談してた人、て聞いてます」
「奏斗は何に悩んでたの?」
「それは、僕の口からは言えないです」
画面をスクロールする。特に自分の言葉を発信したりはしていないようだ。
「私はSNSってやらないから、よくわからないんだけど……。こういうので知り合った人と奏斗はよく会ってたの?」
普段あまり会話をしない子どもだが、賢く分別もついていれば、ネットリテラシーも高いと思っていた。いくら悩み相談をしていたとは言え、オンライン上で知り合った人と気軽に会ったりするタイプだとは思っていなかっただけに、菜月は軽くショックを受けた。
「あの、ごめんなさい。これ以上、今の状況で黙っているのが良いことなのか悪いことなのかわからなくて」
律は突然菜月に向かって手を合わせて頭を下げると、一旦強く瞼をぎゅっと閉じ、意を決したように口を開いた。
「僕たち、おば——菜月さんの事を調べていました」
一瞬話の流れが掴めず、頭の中で律が言った内容を復唱する。
菜月さんの事を調べていました?
「正確にはそのヒナタさんが、菜月さんの関係者だと思って調べていました」
「この人が?」
菜月はもう一度スマートフォンを覗き込む。これだけでは何もわからない。
「ヒナタさんは、菜月さんの同級生の、神倉日和さん、という方です」
菜月はその名前を聞いた途端、完全に言葉を失ってしまった。
なんの心の準備もできていない状態で、日和の名前を聞くことになるとは予想もしておらず、狼狽えてコーヒーの入ったコップを落としそうになった。
「さっきの、好きだった人って、日和さんのことですよね? 彼女は菜月さんに対してしたことで何か後悔している。奏斗はそう言っていました」
突拍子もない展開に、菜月の頭の中は処理の限界を超えていた。
日和が後悔? なにを?
様々な疑問が浮かび上がるばかりで、何一つ答えは見えない。
「他人の過去を掘り返したところでいい事なんてない、と思いました。二人の関係はなんとなくわかっていたから。でも、奏斗は、びっくりするくらいに純粋で、全てのことに答えを出したい。いい結果も悪い結果も、曖昧にしたまま先に進めない。そういうところがあるから」
律は、奏斗のことを良くわかっているのだなと思った。彼のいいところでもあり、悪いところでもある。曖昧なまま、悩みを解決しないまま、物事を進めていくことが奏斗は苦手だ。
菜月は大きくため息を吐いた。
「あの子のそういうところは、他人にも向いちゃうのね。モヤモヤさせたまま終わらせたものが、誰にとっても間違いだなんてことはないんだけど」
律は大きく息を吐いた後、残ったココアを一気に飲み干した。
「奏斗は、二人を無理やり会わせるつもりはなかったんです。ヒナタさんに会って、菜月さんに会わせるかどうか、考えたかったんじゃないかな」
菜月はスマートフォンの画面をもう一度覗き込む。プロフィールも特になにもない、殺風景なホーム画面。これだけで、どうしたら日和だと気付けるだろうか。菜月はアイコンの写真をタップした。
「この写真って、学校から撮ってる?」
「そうです。僕らの学校」
確かに、知っている人が見たら場所を特定できそうな写真を使うあたり、几帳面と適当が共存している日和っぽい気がする。
投稿をスクロールしてみる。自分の投稿はほとんどない代わりに、新しくできた店の美味しそうな料理の写真や、ラーメン屋のリポストが目立つ。
完全に動揺していた。これが日和のものだとわかった上で見れば、確かに彼女の人格が透けて見える。
大人として、親として、過去の恋人かもしれない人物の出現に動揺するなんてみっともない。どうして、じゃあ連絡とってみようかな、くらいのことを平気で口にできないのか。二十五年も経って何も成長していない。
そもそも日和が何を後悔するというのだ。向こうこそ、きっと今は憧れだった結婚でもして、楽しく暮らしているだろうに。
「あの、これは勝手な僕の憶測なんですけど」
律は空になったココアのカップを手持ち無沙汰に弄びながら、上目遣いで菜月の様子を窺うように口を開いた。
「セクマイの支援団体にいるっていう事は、多分、そういう事なんだと思うんです」
「この人も、なんらかのマイノリティだと?」
律は黙って頷いた。
どちらにせよ、今更だ。彼女が何かを悔いていたとしても、もう何も変わらないし、過去に戻れるわけではない。
じゃあ何を今怖がることがあるのか。こんな偶然あるなんてね、びっくり。と言って、何年そんなもん引きずってんのよ、とっくにこっちは忘れてるんだけど、と言えばいい。
いつまでも女々しく高校時代の小さな過ちに引っかかって、二十五歳も年下の高校生に心情を吐露するほど弱々しい人間じゃなかっただろうに。
「……それすらも知らないか、私は」
「え?」
無意識に口から言葉が漏れていたらしい。
「いえ、なんでもない。うん、日和のことは、なんとかするから。律くんは気にする必要ないよ」
手が震えるほどの動揺を取り繕って、菜月は残ったコーヒーを飲み干した。
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