第12話

『彼女は、声を届ける仕事をしています。だから僕は、彼女が今どうしているか、なんとなくは知っています』


 ヒナタからこのメッセージを受け取った時、奏斗は思わず声を上げた。

 そんなに世間が狭いわけがないと思いつつ、予想もしない場所で繋がる線が見えたのだ。確証を得たくて、つい踏み込んだ質問をしてしまった。

『ヒナタさんは、その人に今、会いたいですか?』

 ヒナタからの返事はだいぶ時間が経ってから返ってきた。ただ一言『僕は彼女には会えないよ』それだけだった。

 これはいわゆる、パンドラの箱というものだろうか。

 触れてはいけない予感はひしひしと感じていた。それでも、奇跡的なまでの偶然があるのなら、その箱は開くべきなのではないか。

 自分は人と違うから、と思うと、いつも多くの事を諦めがちで、奏斗自身も、もしかするとヒナタもそうだったのかもしれない。

 前向きに一人でいることと、何かを諦めて一人でいることは別物だ。もし奏斗が思った通りなら、ヒナタに前を向かせられるのは自分にしかできないことなのではないか。

 いてもたってもいられず、奏斗はスマートフォンを手に取り、律とのメッセージを立ち上げだ。時間は0時を回ったところだった。 律ならまだ起きているはず、そう信じてメッセージを打ち込む。

『律、相談したいことがあるから明日うちに来て欲しい』

 律からはものの五秒で返信が届いた。

『なになに? 遊びに行っていいの? いくいく!』


 律は着くなり、銀座の名店の菓子折りを奏斗に手渡した。

「なんか、気を遣わせてごめん」

「いいの、いいの。それ、いただきもの。どうせ食べきれなくていつも誰かにあげちゃってるから。貰ってくれると助かる」

 やはり世界が違うなと思ったが、奏斗は何も言わずに受け取ってキッチンカウンターの上へ置いた。

 冷蔵庫からペットボトルの麦茶を二本取り出し、律を階段へ促す。 何が珍しいのか、きょろきょろと家の中を見まわしてから「なんかいいなぁ、奏斗んちって感じ」と弾んだ声で言った。

 階段を上がりながら、ニッチに飾られた写真や、菜月の好みであるどこかの国の置物に対して、「可愛い」とか「センスいい」とか、ひとつひとつにコメントを述べていた。見慣れた奏斗にとっては、もはや壁の一部になっているものばかりだ。

 部屋に入ると奏斗は早速パソコンを開き、まずは律のユーチューブチャンネルを表示させた。

「とりあえず、その辺適当に座って」

 奏斗はベッドの上に転がっていたクッションを律に手渡し、部屋の中央に置かれたテーブルの上にパソコンを置いて律の方に向けた。

「え、話ってそれ?」

 律は完全に存在を忘れていたのか、ぽかんと口を開けている。

「これじゃないんだけど、いいねが二千超えてたから」

「えー、まじで? 世の中の人間、病んでるなぁ。僕の曲にいいねするなんて、病んでる証拠!」

 律はたいして興味もなさそうに手の甲でしっしっと追い払う仕草をした。

「なんで自分の歌に対してそこまで評価低いかな。コメントも結構つくようになってるぜ。あとでちゃんと見ておいてよ」

「興味なーし。そんなことより、奏斗の話って何よ」

 律は本心から興味がないのか、早く話を終わらせたがった。奏斗としては自分の大好きな曲の評価が鰻登りになっていることは喜ばしいのに、当の本人に興味がないなら仕方がない。奏斗はXのアカウントからヒナタのページを表示させて、律の方に向けた。

 やっと律はまともに画面の方に興味を示し、表示されたページをまじまじと見つめた。

「これ、誰のアカウントなの?」

「ここをちょっと見て欲しいんだ」

 奏斗はピンク色の空のアイコンをクリックし、拡大表示させた。

 どこかの建物の中から空を撮ったものだ。

「これ、どこだか見覚えない?」

 律はパソコンの画面を食い入るように見つめた。しばらくして、何かを発見したかのように「あ」と小さく呟いた。

「これ、うちの学校から撮ってない?」

「そう。だよね、これ、あの神社だよな?」

 写真の左下に小さく鳥居が写っている。窓の外にこの角度で神社が写る場所は、学校の中でも一箇所だ。

「三年のフロアだね」

「だよな」

 この写真が撮られた場所に気が付いたのは、ヒナタからビーナスベルトの話を聞いた時だった。奏斗の高校から見えるこの神社の鳥居の両脇には、樹齢何百年とも言われる大きな杉の木が生えている。

 教室から神社を見おろすと、まるで鳥居を守るように左右全く同じ高さの杉の木が後ろから突き出しているのが特徴だ。奏斗はそれに気が付いて、ヒナタに運命的なものを感じた。ヒナタ本人に言えば、警戒されてしまうだろう。だから奏斗は気がついてからも何も言わずに黙っていたが、彼が何かしら、自分の高校に関わっている人間だということは早い段階で気付いていた。

 最初は、教師のうちの誰かだと思った。しかしヒナタはセクシャルマイノリティの人たちを支援する団体に所属していて、広報業務を担当している。であれば教師ではなく、卒業生の可能性が高い。何かの行事で偶然訪れたにしても、教室まで入れてもらうには余程の縁があったはずだ。

「まあ、うちの高校の関係者じゃなければ、これを見ただけで撮られた場所は特定できないかも。で、この人がなんなの?」

「俺が、恋愛感情ないかも、って悩み始めた時期から、ずっと相談相手になってくれてる人なんだ。もう三年近い」

「へえ、そうなんだ」

 律はヒナタの投稿やリポストをスクロールし始めた。

 ヒナタのこのアカウントでは、彼が性同一性障害であることは公表していないし、性別が特定できる投稿もない。稀に料理の写真が載るくらいで、コメントすらない。律に、ヒナタの情報をどこまで言えるか、奏斗は頭の中で何度も繰り返した説明を口に出した。

 ヒナタが昔、お互いに思いは通じ合っていたのに、嘘をついて別れた同性の恋人がいたこと。それは、話の流れからも大学入学以前の出来事だということ。

 そして、相手は自分の母親ではないかと思っていること。

 律は息をのんで何度も瞬きを繰り返した。そして、「そんなに世間が狭いこと、ある?」と眉を顰めて独り言のように呟いた。

「俺だって信じられないよ。本当の年も知らないし。でも、言ったんだ。彼女は今、声を届ける仕事をしている。だから、彼女が今どうしているかは、なんとなくは知っている。幸せだと思う、って」

 律の目が、だんだんと真剣味を帯びてきたのがわかった。

「ちなみに、奏斗のお母さんって、何してんの?」

 半信半疑な様子で律が尋ねるのを合図にするように、奏斗はスマートフォンのラジオアプリを立ち上げた。

『——がとうございました。でね、これすごく可愛いんですよ。商店街の共通ポイントカード。こちらを持って行くと三十一日まで、かき氷二百円オフとなるそうです。それでは——』

「これ、俺の母親」

「ええ! ラジオパーソナリティ、ってこと?」

「てこと」

 目を見開いてのけぞる律を尻目に、奏斗はアプリを切った。部屋にはしばしの静寂が訪れた。律は顎のあたりをさすりながら考え込んでいるようで、なかなか奏斗と目を合わせなかった。しばらくして、ゆっくりと口を開く。

「まずさ。大前提としてね。奏斗は、どうしてこのヒナタさんとお母さんが繋がっていたかどうかってことを暴きたいの?」

 暴く。その強い言葉に奏斗は一瞬面食らった。律はそれくらいセンシティブなことだと暗に示しているし、奏斗自身もその言葉の重みは理解しているつもりだった。しかし実際言葉として受け取ると、想像以上に深刻な響きを持っていた。

「お母さんがさ、同性愛者だった、ってことになるわけだよね? で、ヒナタさんは会いたがってるの? お母さんに」

「いや。今でも会いたいですか? って聞いたら、会えない。って返ってきた」

 律は膝を抱えたまま俯いて、じっと言葉を選んでいるようだった。 そして意を決したように奏斗を見て、躊躇いがちに口にした。

「奏斗は、自分がアロマンティックだって、誰かに知られたらどう? 勝手に誰かにバラされたり」

「それは、嫌だと思う」

「でしょ。じゃあ、そっとしておくべきなんじゃないの」

 律の言うことは、寸分の狂いもなく正しい。他人が介入していい問題ではないことは奏斗自身が痛いほどわかっている。

「あとさ、親のそういう話って、ちょっと気持ち悪くない?」

 律は自分を抱きしめるようにして両腕をさすって苦々しい顔をした。残念ながら奏斗にはその気持ち悪さはさっぱりわからなかった。しばらく考えてから首を傾げると、律もそれを理解したようだ。

「俺さ、この先どうやって生きていこうか、考えたいんだ」

 律は何も言わずにただ頷いて、奏斗が次の言葉を話し出すのを待ってくれている。奏斗は頭の中をフル回転させながら、ペットボトルが汗をかいてテーブルに水たまりを作る様を見ていた。

「誰にもわかってもらえなくていい、ってずっと一人で居続けるべきなのか。それとも、理解してくれて信頼できる人を見つける努力をすべきなのか。普通の人を装って……誰かを騙して家族を持つべきなのか」

 律の眉毛が最後の言葉にぴくりと反応するのがわかった。

「ヒナタさんは、きっと誰にも言わずに一人を選んで、そしてうちの母親は……普通の人を装った」

「いやいや、奏斗。結論が早いよ。お母さん、バイだったのかもしれないし。たまたまそのヒナタさんのことを好きになっただけで、基本はヘテロだったのかもしれない。そういう人はいくらでもいるから」

 律は必死に菜月を庇い、なんだか焦っているように見えた。ペットボトルの半分ほどを一気に飲み込んでから、「で、理由はそれだけ?」と尋ねた。

「ヒナタさんは、相手の人をすごく傷つける嘘をついてしまったって。多分、ずっと後悔してる。前に進めてない気がする」

「それはさぁ、奏斗の一方的な思い込みでしょ? 下手したら、奏斗の家庭終わるよ?」

 律の顔は呆れていたし、当然の態度だった。ヒナタは奏斗に何も望んでいないし、全て奏斗の思い込みかもしれない。律は奏斗が思ったよりずっと現実を見ていて、いかに奏斗がしようとしていることが愚かであるか、わかっている。

 でも——

「どうしても気になるんだよ。こんな偶然あるわけがない。うちの親となんの関係もなければ、そこまでだよ。でもさ。普通と違うからって、なんでも諦めなきゃいけないって、自分だって本当は思いたくないし、誰にも思って欲しくないんだよ」

 無茶苦茶な理論で、単なる自己満足だと奏斗はわかっていた。律は眉間に皺を寄せてじっと俯き、テーブルの上を凝視している。返事は何も返ってこないままだ。律が乗ってくれると思ったのが間違いだったと思いながらも、奏斗は最後のひと押しをした。

「会わせるべきかどうかは、その結果考えるよ」

 奏斗の覚悟に律はため息をついて、もう一度麦茶を飲んだ。残り三分の一まで一気に飲み干し、咳払いをひとつする。

「無茶だと思ったら、止めるよ」

 律は厳しい顔で奏斗をじっと見つめてそう言った。


 探るなんて大袈裟なことをせずとも、二人がもし同級生であるなら、卒業アルバムを見ればいい。どこかに一緒に写っているページがあれば、それだけである程度絞り込めるはずだ。

 ほんの一週間前、菜月が夜に卒業アルバムを引っ張り出しているのを奏斗は見かけていた。ラジオ番組に俳優になった同級生が出るからだと言って、顔を確認していたのだ。確か、見終わってから、一階の廊下の奥にある物置にしまいにいったはず、と思い出して奏斗は階段を駆け降りた。

 扉を開けると、アルバムのありかはすぐにわかった。背表紙に高校の名前が書かれているのを確認し、それを持って二階に駆け上がった。

「よしよし、とりあえず第一関門突破だな」

 律はテーブルをティッシュペーパーで拭き、目を凝らして確認した。万が一、汚れたり濡れたりしたら大変だから、と口では言っているが、なんだかんだと楽しそうにしている雰囲気が見え隠れする。

 厚紙のブックケースからアルバムを抜き取り、指紋を付けないよう慎重にページを捲った。

 奏斗は早々に高校時代の菜月を発見した。

「これ」

 三年 B組の個人写真のページで、一番左上にいる『相村菜月』を指差す。

 笑っているようには見えるが、表情がぎこちない。こういうところが自分は母親似だとしみじみ思う。

「へー、可愛い。ってか、奏斗に激似」

「そうか? あ、これ。父親」

 そして『久瀬晴臣』を指差す。大きな口を開けて笑っている写真だ。

「お父さん、見るからにザ・陽キャ。モテそう」

「きっと幼馴染じゃなきゃ一緒にいないだろうね、あの二人」

「幼馴染なの⁉︎ すごい。漫画の世界じゃん。隠キャ女子と陽キャ男子だけど、実は家が隣同士で、ってやつ」

「そんな漫画読んだことないし」

 ぶっきらぼうに言うと、律は不満げな顔をした。

 気を取り直してクラス写真を見る。見開きのページにたくさんのコラージュ写真があるが、どこにでも顔を出している晴臣に比べ、菜月の写真が極端に少ない。一人一人の生徒の写真から線が引かれ、その生徒の特徴や性格が手書きで書かれている。晴臣はクラスの男子達と変顔をしている写真に『クラス一の盛り上げ役』と書かれている。小さな写真を必死で探して、菜月の写真には『実は超歌がうまい』と書かれているのを見つけた。

 自分と同じ年の両親の写真を見るのは不思議な感覚だった。彼らにも若い頃があったのかと、当たり前の事が妙に感慨深い。

「お母さん、歌が超うまいんだって。聞いてみたい」

 律がもう一度個人写真ページを開いて、菜月の写真をまじまじと見つめる。

「幼馴染同士でバンドやってたんだよ。母親はもう出てないけど、父親はいまだにやってる」

 パラパラとアルバムをめくっていたら、一番最後の空白ページに挟まっていた紙が滑り落ちた。

 テーブルの下に潜り込んだ紙切れを拾い上げてめくると、それはピンボケの写真だった。菜月と、ニット帽を被った誰かと自撮りした写真だ。観覧車か何かに乗っている時に撮られたものだろう。

 奏斗は急いでクラス写真のページに戻った。菜月の隣に写っていた子ではないか? 制服姿とはだいぶ雰囲気が違うが、同じ人物だ。

 個人ページに戻り、写真と同じ顔を探す。

 指でなぞりながら、全員の顔を見比べる。一瞬通り過ぎそうになってから、奏斗は指を戻して一人の女子生徒を指差した。

「この子だ。神倉日和」

 意志の強そうな、澄んだ目をしたショートカットの少女。口元は笑っているが、目は笑っていない。菜月と同じく、カメラの前で笑うことに慣れていないのだろう。

「綺麗な人……」

 律は小さな声で呟いた。自分の意思で声に出したというよりは、頭に浮かんだ言葉が漏れてしまったようだった。

 菜月と映るピンボケ写真の中の彼女は心の底から湧き出る笑顔で、アルバムの表情とは雲泥の差だった。

「ひより、ヒナタ。わからなくもないネーミングセンスかな」

 律の言葉に奏斗は頷いた。たった一枚だけ二人で映る写真を隠していた事を考えると、可能性は高いように思えた。

 思いがけず、奏斗の頭に、当時の彼らのことを知っていて、話を聞けそうな人物の顔が思い浮かんだ。まともに話をしたことはないが、思いがけずなにか教えてもらえるかもしれない。

「律。出かけよう」

「どこに」

「話を聞きたい人がいるんだ」

 奏斗は律を急かして、慌ただしく出かける支度をはじめた。

 アルバムを一旦ベッドの下に隠し、玄関で靴を履いて出ようとすると、ちょうど同じタイミングで和奏が帰宅した。

 この暑さでも崩れずに、前髪は眉毛の上でまっすぐに揃っている。何なら汗すらほとんどかいていない。

「和奏、ちょっとでかけるわ」

 和奏は律をちらっと見てから「こんにちは」と頭を下げた。

「どうも、律でーす! 律ちゃんて呼んでね」

 律が右手を差し出すと、和奏は何の躊躇いもなく握手を交わした。

「じゃあ、私はわかちゃん、って呼んでください」

 玄関先で簡単に挨拶を済ませた後、和奏は「じゃ」と言ってあっさり扉を閉めた。

「変わってんだろ、妹」

「わかちゃんの学校って、文鴎国際?」

「そう。あいつは中学からずっと」

 律は、どおりで、と呟いてじっと自分の手を見つめた。


 夕方のラッシュアワーの前でも横浜駅はごった返していて、奏斗ははやる気持ちで人の波をすり抜け階段を駆け上がり、地上に出た。未だ衰えることのない日差しがアスファルトを照り付けている。行き交う人々が皆日陰を選んで歩くために、道の片側だけがやたらと混み合っていた。

 菜月や晴臣が高校時代から出入りしていた場所の中で、奏斗が唯一知っている場所がある。奏斗は記憶をたどりながら、そこへ足早に向かっていた。

「伊之坂くんじゃん、何してんの」

 ゲームセンターの前を通り過ぎた時、後ろから聞いたことのある声がして、奏斗は振り向いた。

「今日はいつもの仲良し、くっついてないんだ?」

 知らぬ間に二メートルほど離れていた律が、制服姿の男子三人に囲まれていた。

 近づいて行くと、取り囲まれた学生達の隙間から、律は一瞬こちらを向いた。歯を食いしばり苦々しい顔をしている。その視線に気が付いた一人が、振り向いた。

「あれっ、奏斗じゃん。なんでいんの?」

 三人のうちの一人が、大袈裟に驚いて声をかけた。

 クラスメイトの男子だった。サッカー部の元レギュラーで、律が言うところの、いわゆる一軍男子だ。

「おう。お前ら、何で制服? まだ部活やってんの?」

「いや、もう引退してんだけど、今日は後輩の練習見に行って、今帰り。え、奏斗って伊之坂と友達なの?」

 律は奏斗を上目遣いで見て、小さく首を振った。花火大会の日に聞いた律の言葉を思い出し、奏斗はその動作を見て見ぬふりして答えた。

「友達だけど。なんで?」

「ええ、マジで⁉︎」

 三人は奏斗の言葉を聞いた途端に互いの顔を見合わし、「伊之坂、じゃ」と律の肩を叩いて歩き出した。

 すれ違いざまにクラスメイトの一人が「奏斗、気をつけろよ」と小声で耳元に囁いた。

「何を?」

 彼にとって聞き返されること自体が意外であったのか、慌てふためき、曖昧に口を歪めて仲間を追いかけていった。

「なんだあれ。律、あいつらと友達?」

「友達じゃない」

 律は奏斗の言葉にほとんど被せるように言い捨てると、さっさと前を歩き出した。追いかけて覗き込んだ横顔が青白い。

「体調、悪い?」

 自分の唇をつまんでいた手をさっと離し、律は顔を左右に大きく振った。まるで迷子になった子どものようだ。

 奏斗はリュックの中から冷却ウェットシートを数枚取り出し、律の首元に押し付けた。

「暑いから。少し冷やして」

 律はサンキューと力なく笑った。


 中学生の頃、一度だけ晴臣に連れていってもらったことがある。

 その馴染みのライブハウスの名前は忘れてしまったが、検索結果に出てきた数件のうち、道に覚えがある場所は一件だけだ。

 深緑色に澱んだ川を越え、居酒屋ビルに囲まれた細い路地を何度か曲がったところにそのライブハウスはあった。

 雑居ビルの地下への階段には人気がなく、平日の夕方前だからかライブが予定されている気配もない。

 奏斗と律は恐る恐る階段を降りていった。入口のドアには鍵がかかっておらず、照明もついていた。ドアを開けさらに階段を降りていくと、たばこの匂いと黄ばんだ壁が徐々に奏斗の記憶を呼び戻す。

 一度来た時と何も変わっていない。うっすらとギターの音が聞こえてきて、奏斗は重たい扉に手をかけて力を込めた。

 機材のチェックをしている音だったようだ。薄暗い真っ黒な空間の奥、舞台の照明だけに照らされて一人でギターを鳴らしていた長髪の男が、奏斗の気配に気づいて振り向いた。

 一見たじろいでしまいそうな、長髪のいかつい風貌の男性、奏斗はその男に見覚えがあった。

「今日はまだ準備中なんだけど」

 もちろん相手は奏斗のことなど覚えておらず、訝しげな顔でぶっきらぼうに言った。

「お忙しいところすみません。久瀬奏斗と言います。こちらでよくライブをやっている、久瀬晴臣の息子です」

 奏斗は一気に自己紹介をすませると、その場で頭を下げた。晴臣の事はさすがにわかるだろう。

「おお、オミの息子か。デカくなったね。そっちは?」

 一重瞼の鋭い視線で律の方を見た。

「僕は、奏斗の友達で律って言います」

 マスターは警戒心を一気に解くと、ギターをスタンドに置いて舞台から飛び降り、二人の方に歩み寄った。髪は白髪混じりのグレーヘアで、近くで見るとお爺さんと言っても良さそうな見た目だった。それでも背筋はしっかりと伸び、足取りも軽い。

「突然すみません。聞きたいことがありまして」

「なになに? コーラ飲む? 外暑かっただろ?」

 マスターはガラスの冷蔵庫からコーラの瓶を二本取り出すと、流れるように栓を抜いてカウンターの上にトン、トンと瓶を置いた。

「飲みなよ」

「すみません、ありがとうございます」

 二人でありがたく瓶に口をつけた。弾ける泡が身体中に広がるようだ。水分をほとんど摂らないままだったせいで、血液が糖分で満たされていく感覚に囚われる。

「聞きたいことって?」

「母の、菜月のことなんですけど」

「おお、なっちゃんね」

 菜月がこの場所で気軽になっちゃん、と呼ばれているのが意外だった。晴臣のライブにも、菜月が行く事はない。彼の趣味の領域と割り切っているのかと思っていた。

「母が父とバンドをやっていた当時の話なんですけど。母の友達って来た事はないですか?」

「おう。日和ちゃんね。来てたよ、いつも」

 考えるそぶりもなく、マスターは一瞬で名前を出した。

「えっ⁉︎ 二十五年も前のことなのによく覚えてますね」

 奏斗は驚きのあまり素っ頓狂な声を出してしまい、恥ずかしさを誤魔化すように口を押さえた。

「いやあ、なっちゃんが来なくなっちゃったの、多分あれが原因だなってことがあってさ。だからあの二人のことはよく覚えてんだよね」

 そう言った後、苦い顔をして自分のドリンクをジョッキに注いだ。透明の炭酸水がパチパチと音を立てて弾ける。

「何があったんですか?」

 隣にいた律が、カウンターに少し身を乗り出し、尋ねた。

「なっちゃんはとにかく歌が上手くてさ。声も、なんとも言えない独特の空気感があって、当時なっちゃんにはいっぱいファンがいたんだよ。それこそ大学生くらいから、三十過ぎの奴までさ。今なら高校生相手にキモい、ってすぐに通報もんだけど、昔って女子高生と付き合いたがる男、いっぱいいたんだよな」

 奏斗は律と目を合わせ、思わず顔を顰めて無言になった。

 恋愛感情がわからずとも、それが気持ち悪いと感じる感情はきちんと備わっている。

「で、さすがにやばいから、俺と、当時の店員と、オミで、変なのがなっちゃんに声かけないようにいつも見張ってたんだわ」

 菜月の高校時代に、そんなアイドルめいた時期があったなんて奏斗には想像もできなかった。どちらかというと、地味で、特別明るいイメージもない。子どもながらに、付き合っても楽しくなさそうだと思う。自分もそういうタイプだからこそ菜月のつまらなさはよくわかる。

「日和ちゃんが見に来るようになって、出番が終わるといつもそこの隅で楽しそうにおしゃべりしてたんだ。なんていうの? 掃き溜めにツル。っていうのは、ここの客に失礼だけど、まさにそんな感じ。触れちゃいけない神聖なもの、って雰囲気だったんだわ」

 マスターはホールの左隅の方を指さして、懐かしむように遠くを見た。そして、クリスマスに起きたという事件の事を話し始めた。

 皆が目を離した隙に、酔っ払いが菜月に絡み、助けようとした日和が殴られた。

「あんな華奢な女の子をさ、矢面に立たせちゃったこと、俺はいまだにどうしても自分が許せないんだ」

 華奢な女の子。

 卒業アルバムで見た写真が奏斗の頭に思い浮かんだ。類い稀な美人で、もし心の中も女の子だったら、きっと全く別の人生を歩んだだろう。

 しかし、周囲からその言葉をかけられるたび、彼はどんな気持ちで受け止めていたのだろうか。

「あの、俺が今日ここに来た事は、父には言わないでほしいんです。ちょっと内緒で来てて」

「おお、いいよ。なんか訳ありか」

「まぁ、ちょっと」

「じゃあ内緒ついでだけどさ」

 突然、歯を見せてイタズラっぽく笑うと、マスターは腕を組んで、何かを思い出すようにじっと奏斗の目を見つめた。。

「なっちゃんが初めてここで歌った日、日和ちゃんも初めてここに来たんだよね。一人でふらっと現れて、ずっとそこに立っててね」

 奏斗のいる場所をマスターは指差して、話を続けた。その日、菜月が歌を歌ったのがイレギュラーだった事。全員が一瞬で菜月の歌に引き込まれた事。いろんな人の歌を聴き慣れているマスターでさえ、手を止めて聴き入ってしまった事。

 この場所に立っていた日和は、『このバンドのボーカルは、あの男の子なんじゃないんですか?』と興奮気味にマスターに話しかけたらしい。晴臣が風邪を引いて代打である事を伝えると、日和は、二人が自分の同級生で、菜月の声が普段からいかに良いかという事を熱く語り始めた。

 菜月の声を校内放送で初めて聴いた時から、ずっと彼女の声が好きなのだと。

「俺ね。今だからもう時効なのかなと思って言うけど。日和ちゃん、なっちゃんに惚れてたと思うのよ。もう目がさ、恋してる目だったんだよね」

 カウンターに肘をついて、マスターはホールの左端を眺めながら口にした。皮肉な棘は含んでいない、優しい言い方だった。

「それって、母もそうだったんですか?」

「あー……」

 マスターは一瞬目を泳がせて考え込んだ後、奏斗の目をじっと見つめた。頭の中まで覗き込まれている気がして、奏斗の方が気まずくなり目を逸らしそうになった。

「俺、日和ちゃんと出会う前からなっちゃんを知ってるからさ。これはただの友達同士じゃないかもな、って思ってたよ。君があまりに真剣だから、証拠もないことペラペラと喋っちゃってるけど、なんでこんなことしてるの?」

「……お世話になってる人がいて、その人が日和さんじゃないかと思って」

「ふぅん。そっか。よくわからないけど、日和ちゃんは元気してんの?」

 奏斗はなんと答えるのが適切かわからず、「はい」としか答えられずにいた。

 マスターはカウンターの椅子に腰掛けてジョッキに入った炭酸水をぐいっと喉に流し込むと、「俺は仕事柄、昼職の人に比べたらいろんな奴を見るけどさ」と前置きしたあと、「あの子は、結婚とかしてないでしょ?」と言った。

 奏斗も頭の中で、してないだろうなと思い「そう思います」と答えた。しかし、『訳あって戸籍は変えられていない』と言っていたことを思い出し、「多分ですけど」と付け足す。

「あの子は、多分、男ダメなんだろうなって。ていうか、あの子自身が男なんじゃないかって、事件の後ずっと思ってたんだよね」

 奏斗は面食らった。そうです、と言いたいのをグッと堪えて、奥歯を噛んだ。

「オミには絶対言えないけどさ。あの二人がせめてあと十年、いや十五年かな。遅く生まれてたら、二人でずっと一緒にいられたんじゃないかなって思うことがあるんだよね。応援してたんだわ。二人がダメになるきっかけがあの日だったとしたら、俺のせいだなって。まあ二人が今も一緒にいたら、君はいなかったわけだけど」


 ライブハウスをあとにした奏斗は、自責の念に苛まれていた。

 それは律も同じだったようで、二人はひとことも話さないまま駅までの道を歩き続けた。

「怖いな……。簡単に、わかっちゃうものなんだね」

 電車の中で、律がぼそっと呟いて、奏斗はただ頷いた。

 あまりにも簡単に、ヒナタと菜月のきっと知られたくなかった過去は顔を出してしまった。

 高校生の自分が少し探せば見つかるくらい、二人は近くにいた。

 それでも敢えて、二度と会わない道を選んで、今を生きている。

 奏斗が見つけたものは、ヒナタのそういう覚悟だった。

 菜月は、久瀬菜月という名前でラジオに出ている。相思相愛の、自分が必死で守ろうとした人が、自分の知る別の男と結婚しているのを知るのは、どれほどやるせなかっただろう。

 これ以上関わるべきではない。それでも止めたくなかった。

 ヒナタに会ってみたい。

 奏斗はスマートフォンを手に取った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る