第11話
「こんにちは。八月二十日火曜日、お昼十二時をまわりました。久瀬菜月のウィークデイ・ランチタイム・スタジオ、お楽しみください。本日のゲストは、俳優の橋本健吾さんです」
菜月は正面に座る筋骨隆々としたポロシャツ姿の男に小さく会釈をして微笑んだ。相手の男も同時に会釈し、軽く手を挙げる。声だけしか放送されないラジオ番組でも案外フレンドリーな雰囲気は伝わるものだ。
菜月はガラス張りのブースの外をちらりと見て、スタッフの反応を待つ。指先の合図で流れていたBGMの音が絞られた。
「橋本健吾さん、二〇〇二年大学在学中に芸能界デビュー、以降数々のドラマや映画に出演され大活躍ですが、なんと、ね」
菜月が橋本に目配せをすると、橋本は大きく頷き、「ね」と相槌を打った。
「私と橋本さん、高校の同級生なんですよね」
「いやー、びっくり。こんなところで会えるとは」
「ご活躍の様子はね、もちろんずっと存じ上げていたのですが、会う機会はなかなかなくて。今回二十五年ぶり? ですかね」
「あっはっは! 怖いですね、四半世紀!」
いかにも俳優、といった自然に聞こえる大きな笑い声で、橋本は手を叩いて大袈裟にアピールをした。
「本当に、あっという間で。でも橋本さんもお変わりなく」
「久瀬さんもね。本当に可愛いままで」
「いやいや、そんなことはないですけども」
「覚えてます? 僕が告白したの」
「あ、はい、そうですね」
ブースの外のスタッフが、突然の橋本の話に目を丸くして驚いている様子が見てとれた。絶対この話を出してくるだろうとは想像していたものの、公共の電波でネタにされるのはあまりいい気持ちはしない。
「彼氏がいるって断られちゃって。で、ねえ。違うって言ってたのに、結局、当時噂されてた人が旦那様ですよ。やっぱりあの時から付き合ってたの?」
彼氏がいるとは言っていない、付き合っている人がいる、と言ったのだ。話すならちゃんと覚えておけ、と心の中で悪態をついてみたが、この場でそんな指摘をすることにはなんの意味もないので、曖昧に微笑んで流した。
「いえいえ、あれはね。また別の人です。私の話はこの辺にして、橋本さん、主演映画『運命の人』が今週金曜から公開されます。二十歳年下の大学生に恋をする同性愛者の役、とのことですが——お話を伺う前に、ここで一曲お送りします。私たちの青春時代の曲ですねえ。オアシスでドント・ルック・バック・イン・アンガー」
まさか、E組の橋本が俳優となり、二十五年の時を経て自分のラジオ番組で再会したと思ったら、同性愛者の役の映画の番宣とは。
菜月は心を抉られた気分がした。昨夜橋本の顔を確認するために、高校の卒業アルバムをうっかり開いてしまってから、喜怒哀楽のコントロールがうまくいかない。
自分の声は武器になる。
それだけを信じて、菜月は大学で学内のラジオ番組を制作した。
在学中からトレーニングやオーディションを受け続け、地元のローカルラジオ局に就職する事ができた。子育て期間でもゆるく続けさせてもらえる地元密着型のラジオ局で、菜月はそこでの仕事をとても気に入っていた。
ある時、地元出身のアーティストが出演する番組のナビゲーターを務めることになった。菜月の声をえらく気に入ったそのアーティストが、とあるキー局のディレクターを紹介してくれた。そんな縁でたまに仕事をもらえるようになり、平日の昼の一時間番組を持つまでになったのは、運はもちろん、何かに夢中にならずには生きていられなかった数年間が役に立ったのだと思っている。
番組が終了した後に橋本の楽屋へ挨拶に行くと、橋本は嬉しそうに菜月を迎えてくれた。
「いやー、しかし今日は本当に楽しかったよ。相村さん、僕のこと本当に覚えてた?」
「もちろん。あんなこと初めてだったので。でも橋本くん、あの後すぐに後輩と付き合い始めたって聞きましたよ」
橋本は気まずそうに後頭部を撫でて「あの頃はとにかく彼女が欲しくてね。必死だったよ、情けないね!」とはにかんだ。
不自然なほど白い歯が光って見える。頭を掻きつつ、立ち姿もまるでポーズをとっているようだ。
さすが、人気俳優だけあって、一挙手一投足に余念がない。
「オミは? 元気にしてるの?」
「はい。今となっては見事な社畜ですよ。毎日遅いし、大変そう」
「外資のコンサルだっけ? オミっぽいよねえ」
外資のコンサルが晴臣っぽい理由は菜月にはさっぱりわからなかったが、適当に笑って話を合わせた。彼が社交性の塊だということを言いたいのだろうか。それであれば確かに晴臣は外資のコンサルっぽい。
橋本は「今度オミとも会いたいよ!」と社交辞令を述べて、颯爽と事務所が用意したアルファードの後部座席に乗り込んでいった。
昨日の夜までほとんど顔も覚えていなかったけれど、間違いなく、同期一番の出世頭だろう。
高校時代の記憶を呼び起こされて、菜月の足は懐かしい場所に向かっていた。
息子の奏斗が、自分たちが卒業した高校を進学先に選ぶとは思わなかった。親としての贔屓目を抜きにしても、奏斗は菜月や晴臣とは比べ物にならないくらい成績が良かったからだ。しかしながら誰に似てしまったのか、常識に縛られて向上心も冒険心もなく、その上に自己肯定感がやたらと低い。
自由奔放な上に向上心と冒険心と自己肯定感の塊である和奏と、足して二で割ったらちょうどよかったのに、といつも菜月は思う。
同じように育てているのになぜこうも違うのか、本当に子どもは不思議だ。
駅の改札を出ると、まるでタイムスリップしたかの様に平成の光景が広がっていた。小さなロータリーを横断し、細い路地を右に曲がると、懐かしい赤い看板が見える。
隣の喫茶店もまだ健在だ。建物の老朽化はひどく、店に入るのに勇気がいるのは二十五年前の比ではない。
立て付けの悪くなった引き戸を開くと、すっかり背中が曲がり、おじいさんになった店主が「らっしゃい」とくぐもった声を上げる。
いつ火を噴いてもおかしくない旧式の業務用エアコンが、室内を冷蔵庫のように冷やしていて、身体中の汗が一気に冷えるのを感じる。温度調節機能は完全に壊れているだろう。生麺の粉っぽい匂いが記憶を揺り起こす。
店内には客が二名ほどいて、こちらをちらりと一瞥するとまた丼に視線を落とした。
「こんにちは」
菜月が声をかけると、店主が目を見開きカウンターから身を乗り出した。
「菜月ちゃんじゃないの」
「どうも、ご無沙汰してます」
「何年ぶり? 二年くらいか」
「そう、息子の高校に行った帰りだったかな」
「いやあ、びっくり。どうぞ、座って。今日は塩? 味噌?」
「味噌で」
「あいよ」
店主はもう八十歳になるらしい。いつまで店ができるのか、さすがに限界が近そうだと菜月はその背中を見て感じた。この町に来る目的を失ってしまってからも、菜月は数年に一回店を訪れた。この店の味と思い出は誰かと共有することができないままだ。
懐かしい味と香りに記憶を揺り動かされたとて、何をするわけでもない。ただ取り出して懐かしみ、もう一度元の場所に鍵をかけてしまいこむだけだ。
「菜月ちゃんのとこ、もう二人とも高校生だっけ? 早いねえ」
先客が一人帰り、二人帰り、誰もいなくなったところで店主はカウンターの端に座って菜月に話しかけてきた。
「そう。息子はもう、私が初めてここに来た年になっちゃった」
「もうそんなになるの。懐かしいね」
店主は壁にかかった雪まつりの写真を遠い目で眺めた。写真の色は褪せ、鮮やかさを失った代わりに青い色がやたらと強調されている。おまけに長年かけて気化した油を何重にも纏って、触るのが躊躇われるほどベトついているようだ。
「日和ちゃんとは? その後も全然?」
「ええ。一度も会ってないです。元気だといいけど」
ここに菜月が来ると、店主は必ず同じことを聞く。菜月は台本を読み上げるように同じセリフを言う。このセリフに心が揺れてはいけない。
「菜月ちゃん、ここね。今年いっぱいで締めるのよ」
想像していたこととはいえ、いざその決断を聞くと、菜月は動揺した。
「さすがに建物も古いでしょう。オーナーさんが、土地を売るんだって。最近じゃこの町もどんどん人が増えてね。ここ、駅から近いし、高く売れるみたいよ」
「まぁ、そうでしょうね……そっか。なくなっちゃうんだ」
「俺ももう、八十だからさ。ちょっと働きすぎちゃったよ。もう味もわかんねえ」
「そんなことないのに。この町からは? 離れるんですか?」
「市内に息子が住んでるのよ。そっちの方にね」
こんなに長いこと通っていた割に、息子がいたことを初めて聞いて菜月は目を丸くした。奥さんが早くに亡くなっていたことは聞いていたから、てっきり一人なのかと思っていた。
「そっかあ。息子さんがいるなら良かった」
「頼りにはしたくなかったんだけどね。でも、面倒臭いから同居はしないんだよ。そばに住むだけ」
「それがいいよ。この歳になって親と住むなんて考えられないもの」
「でしょう? 付かず離れずがちょうどいい」
店を出ると、菜月は看板を見上げて小さくため息をついた。
二年ぶりに耳にした日和の名前。その名前を聞くとまだ刺さったままの棘を押し込まれたようにチクリと痛む。
菜月はここで、踏み絵をしている。
居心地の良さだけで晴臣と家族になることを選んだ自分を許すことができない。許せないまま、ここはなくなってしまう。
数ヶ月ぶりに実家を訪れると、すでに玄関前には由里子の自転車が停まっていた。
今日は、菜月の母親の命日だ。
母の友達だった由里子は、今でも毎年線香をあげに来る。彼女が友達から親戚に変わる前に、菜月の母は旅立ってしまった。せめて結婚式までは生きていてほしかったな、と仏壇の母の写真を見るたびに当時の気持ちが蘇る。
「奏斗は、菜月にそっくりだな」
膝を抱えてスマートフォンを操作する奏斗の様子を見て、父の誠はぼそっと呟いた。
「顔も、何考えてるのかわからないところも、よく似てる」
「それ、褒めてんの? けなしてんの?」
誠は奏斗を見るたびに同じことを言う。正直、ボケ始めているのではないかと思うほど、何度も。
「友達付き合いが下手くそなとことか、そっくりだよな」
寿司をつまみながら、晴臣も同調した。
「あらあ、なっちゃんも奏斗も、狭く深く付き合うタイプってことだね。いいことだよ」
すかさず由里子がフォローに回る。
この構図は菜月と晴臣が結婚して以来、ずっと変わっていない。
由里子はだいぶ歳をとったが、相変わらず派手な服を着こなすファンキーなお婆さんになった。七十歳になった今でも、電動自転車を乗りこなしてどこへでも行ってしまう。
先ほどから何か言いたそうに菜月の顔をちらちらと見ていた誠が、箸を置いて姿勢を正した。
「菜月、俺もそろそろこの家を売って、老人向けのマンションに入ろうかと思うんだ。元気なうちに」
「そんなこと考えてたの」
「お前の世話になる気はないんだよ」
晴臣と顔を見合わせると、彼はそれほど驚いていない様子だった。由里子からすでに何か聞いていた節がある。問い詰めたい気持ちをグッと抑えた。
何も考えてなさそうだった誠も、いわゆる終活をしていることを知ってふいに寂しくなった。菜月だけでなく、晴臣だって一人っ子であり、いずれは同じ立場だ。まるで他人事みたいな顔をしつつ、大きな耳だけはしっかり会話に集中しているようだった。口は動いているが、箸は止まったままだ。
子どもたちがやっと手を離れたかと思えば、今度は親の老後の心配か、と言いそうになるのを菜月は堪えた。
「ジジがここから出るなら、私が住みたいのに」
興味なさげに部屋の隅に座っていた和奏が、突然口を挟んだ。
「ここ、駅近いしさぁ。結構好きなんだけどなぁ」
「わかちゃんが住みたくても、ここを売らなきゃ、ジジも引越しできないんだよ」
誠は和奏に自分の家を好きだと言われたことが嬉しくて、顔を綻ばせていた。和奏は個性的でいて社交性が高く、特に高齢層からやたらと人気がある。オチも山もない、取り留めのない無駄話でも聞いてくれるからだろう。人の話を聞いているようで、いい具合に取捨選択して頭に残さない。この器用さが菜月は羨ましかった。
「ジジさ、あと十年待っててよ。私がどうにかするから」
和奏は唐突に、残り十年のうちに彼女がやり遂げる未来予想を早口で語り出し、誠も由里子も、唖然としてその様子を何度も頷きながら聞いていた。
こうなると和奏の話は止まらない。晴臣と菜月はすでに慣れているため、話半分で寿司をつまみ続けた。
晴臣が小声で「和奏は結婚出来なさそうだな」と呟いた。菜月はその言い方に若干苛ついたが、ここで言っても仕方がないので「そうだね」と頷いた。
食事を終えてからずっと黙り込み、スマートフォンをいじっていた奏斗が、「俺そろそろ行くわ」と立ち上がったのを合図に、食事会はお開きになった。親戚の集まりが苦手なところも、奏斗は菜月にそっくりだ。顔や体は徐々に晴臣に似てきているのに、中身はまるでその要素がない。
晴臣は、奏斗のそういう覇気のなさが目について仕方がないようで、事あるごとに文句を言う。
つまり、自分が男だったら、晴臣の腹が立つ対象だったのだな、と菜月は常々感じている。
「ほんっとに奏斗は、うんともすんとも言わないんだな。ジジや由里ちゃんに会っても」
運転をしながら、晴臣はいつものように奏斗の態度について愚痴を溢した。
菜月を真似して子どもたちも由里子のことを『由里ちゃん』と呼ぶせいで、いつの間にか晴臣まで母ちゃんではなく『由里ちゃん』と呼ぶようになってしまった。菜月にはすごく違和感があるが、それを追及したところで結局『由里ちゃん』に戻ってしまうので、今日もまた口を噤んだ。
「十八歳の男の子が、おじいちゃんおばあちゃんとそんなに仲良くお話しする方が普通じゃないでしょ」
「そうかあ? 俺は喋ってたと思うけど」
「オミみたいに誰とでもペラペラ話せる人ばかりじゃないの。基準を自分にしないで」
「なんだかな。暗いよ、アイツ」
そんなに不満か、とうんざりする。まるで自分が言われている気がした。
「でも今日は、友達と花火大会に行くんだって。いいじゃん、楽しそうにしてるんだから」
「お。彼女でも出来たのか?」
晴臣はこんなに凝り固まった感覚の持ち主だっただろうか? どうにも中年になった晴臣の前時代的な感覚が時折苦痛になる。
菜月が今、言葉遣いに気を遣わなくてはいけない職業に就いているからなのか。昔と違い、今はパートナーを異性と決めつける言い方をすることですら問題になる。
「パパ、マジでそういう内容を脳直で言うの、やめた方がいいよ」
後部座席で黙っていた和奏が運転席のシートにしがみついて口を出した。
「外資系企業でそんな昭和の感覚を持っていたら、いずれ出世への道は閉ざされますよ」
独特な説教に菜月は思わず吹き出しそうになった。
「何がだよ」
「もし、にいにのパートナーがいたとして、男か女か中性か、はたまたアンドロイドかもわからないんだから、『彼女』なんて決めつけた言い方やめるべきです」
晴臣はバックミラー越しに、宇宙人でも見るような目で和奏を見た。
「じゃあ和奏も今日から『にいに』って呼ぶの、やめな。にいには実は『ねえね』なのかもしれないし、『奏斗さん』って呼んだほうが適切だな」
「それもそうだね。にいにと呼ばれることに苦痛を感じていたら偲びない。奏斗さんに確認しますわ」
晴臣にしては適切な返しだった。和奏はすっかり納得して、深く腰掛け、腕を組んで頷いている。
とはいえ、「彼女でもできたのか?」の方が彼の本音であることを菜月は知っている。
奏斗に対する愚痴のほとんどは、『長男である奏斗にはしっかりと正しい道を歩み、結婚し、家を引き継いでいくこと』を前提としたものだからだ。
晴臣は、何も考えていないように見えていた子どもの頃から、実ははっきりと行く先を定め、それに向かってぶれずに進んできていた。それが分かったのは、思いの外早く、あっさりと結婚相手に菜月を選んだ時だ。彼が一度道を踏み外しているとすれば、『女と付き合っていた女を好きになったこと』くらいだろう。
それすら、彼の中では一時の気の迷いで片付けられ、菜月は気の迷いと思ってもらえた事を利用した。ごく一般的な普通の人間として生きるために。
「奏斗はああ見えて、結構繊細なんだよ。あまり文句を言わないであげてよ」
「ほんと、菜月は奏斗に甘いよな」
晴臣はため息をついて不満そうに言った。
本当は、菜月にも奏斗が何を考えているかなんてわかっていない。
それでも無遠慮に踏み込まないでやって欲しい。綱渡りみたいに、踏み外したら終わりだと思わせないで欲しいだけだ。
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