あなたの苗字になりたかった

春風秋雄

俺には、やり残したことがある

学生時代からの友達の大野が入院した。肝臓をやられたということだった。お見舞いに行くと、意外と元気そうだったので安心した。

「大野、元気そうだな」

病室に入って俺が声をかけると、その時やっと俺の来訪に気づいた大野がこちらに顔を向けた。

「高梨か、来てくれたのか」

「奥さんからリンゴが届いたとお礼の連絡をもらってね。その時に大野が入院していることを聞いたんだ」

俺は長野のリンゴ農園のリンゴの木のオーナーになっている。20年くらい前に、家族でリンゴの収穫に行くのは楽しいだろうなと思い申し込んだ。最初の数回は家族も喜んで収穫に行っていたのだが、そのうち誰も行きたがらなくなった。収穫に行けない場合は、農園が収穫を代行して送ってくれるというので、そのまま続けていたのだが、8年前に妻とは離婚し、娘も妻について行ったので、もうリンゴの木のオーナーはやめようかと思ったのだが、年会費は大した金額でもないので、そのまま続けている。もともと送られてくるリンゴはとても一家で食べきれる量ではなく、近所や親戚、そして友人に送るようにしていた。すると、みんな楽しみにしているようなので、中元・歳暮代わりに毎年贈るようにしている。だから大野のところにも毎年贈っていたのだ。

「そうか、もうリンゴの季節か」

「退院したら食べてくれ」

「退院しなくても、そのうちカミさんが持ってくるよ」

「入院は長引きそうなのか?」

「どうだろうね。ひと月くらいはかかるのじゃないかな」

「そんなにかかるのか」

「今回入院して、改めて実感したよ。俺たちはもう若くないってことを。明らかに、今まで生きていた年数より、これから生きていく年数の方が少ない。いつどうなってもおかしくない年齢になっているということさ」

「そうだな。俺たち、もう52歳だものな」

「今回の入院は、命にかかわるようなものではなかったけど、この先、いつ何があってもいいように、やり残したことがないように、悔いのない残りの人生を送らなければいけないなと痛感したよ」

「やり残したことがないようにか」

「俺はいっぱいあるよ。こうやってベッドに寝ていると、あれもやっておけば良かった、これもまだやっていない、そんなことばかり考える。高梨も色々あるんじゃないのか?」

「そうだな」

「五月さんのこと、気になっているんじゃないのか?悔いのないようにな。こっちも年老いていくけど、あっちも年老いていくんだから」

五月かぁ。確かにずっと気になっている。大野の言うことはもっともだった。俺も年をとったが、ぐずぐずしている間に、五月も年をとっているわけだから。


俺の名前は高梨俊介。52歳のバツイチだ。俺は親父の会社を継いで、現在は宮城県下に8店舗展開するドラッグ・ストアー・チェーンの会社の社長をしている。大学は地元仙台の大学で経営を学んだ。大野は同じ大学の法学部だった。軽音楽のサークルで仲良くなった。大野も地元の人間だったので、大学を卒業してからもよく飲みに行く仲だ。

山瀬五月は、俺たちが3年の時に、新入生として軽音楽のサークルに入ってきた。五月はとても歌が上手かった。新歓で行ったカラオケで五月が歌った、岩崎宏美の「聖母たちのララバイ」を聞いて、皆腰を抜かした。プロ並みの歌唱力だった。それ以来、俺はよくカラオケに五月を誘った。メンバーは大野と大野の彼女、そして五月と俺の4人だ。大野の彼女は俺たちと同じ3年生だ。五月も先輩とはいえ、女性がいるので安心して誘いに応じてくれた。五月のことを好きになるのに時間はかからなかった。3か月ほどしたときに、俺は五月に告白して、五月はそれを受けてくれた。

カラオケは相変わらず4人で行くことが多かったが、五月と二人でデートもした。五月は新潟の出身で、この春に仙台に出てきたばかりだったので、仙台の街を案内するだけで喜んでくれた。

五月は農学部だったので、俺は聞いてみた。

「どうして農学部を選んだの?」

「うちの実家は農家なんです。私の兄弟は女ばかりで、長女の私が行く行くは家を継ぐことになるんです。私が大学へ行きたいと言ったら、将来のために農学部に行くのだったら大学へ行ってもいいと言われて、農学部しか選択肢がなかったんです」

「そうか、五月は農家を継ぐのか。そしたら婿養子をとるということ?」

「まあ、そうなりますね」

その時は、結婚なんか考える年ではなかったので、ごく何気ない会話だった。

五月と初めて結ばれたのは、五月のアパートだった。古いアパートだったが、その部屋を五月は女の子らしく綺麗にしていた。五月は俺が初めての男性だった。俺はますます五月に夢中になった。実家住まいの俺は、家に五月を連れてくるわけにもいかず、大学の授業が終わると、サークル活動もそこそこに、五月のアパートへ向かうという日々が続いた。

大学4年になり、俺は親父の会社に入ることが決まっていたので、就活の必要もなく、五月が授業を受けている時間帯にアルバイトをして、デート資金を稼ぐということをしていた。夏休みになり、五月に旅行へ行かないかと誘った。

「旅行?どこへ行くの?」

「北海道に行ってみようか?」

「北海道?高いでしょ?」

「大丈夫だよ。バイトで稼いだから」

俺たちは北海道へ2泊3日の旅行に行った。俺も五月も北海道は初めてだった。旅行雑誌などを見ながらコースを検討したが、無難に札幌、小樽、そして旭山動物園・富良野といったコースにした。食事も美味しく、北海道の大自然を堪能し、俺たちは掛替えのない思い出を作った。俺は、五月を手放したくないと思ってきた。

「五月、実家の農家は五月が継がなくてはいけないのか?妹さんに継いでもらうわけにはいかないのか?」

五月が恨めしそうに俺を見た。

「それは無理。本当は高校を出たら、すぐに家の手伝いをするように言われていたの。それをどうしても大学へ行きたいと言ったら、農業を継ぐために農学部へ行くのなら許すと言われて、必ず農業を継ぐと約束して大学に行かせてもらったの」

「そうか・・・」

何か良い方法はないだろうかと俺は考えたが、何も思いつかなかった。


俺は大学を卒業して、親父の会社に入った。覚えることが多すぎて、学生時代のときと違って、平日に五月に会うのは難しくなった。店舗は土日祝も営業しているが、本部は土日が休みだ。俺は土曜日になると五月のアパートへ行き、そのまま泊まるということを繰り返した。五月も3年生だ。あと1年半もすれば新潟に帰ってしまう。何とかならないかと思いながらも、日々の仕事に流され、ちゃんと考えることをしなかった。もちろんちゃんと考えたからといって、良い案が浮かぶわけでもないのだが。


その日も土曜日に五月のアパートに泊まり、日曜の昼近くまで二人で布団にくるまっていた。呼び鈴チャイムの音で俺は目をさました。チャイムが2回なった後、今度はドアをノックする音がした。勧誘か何かだろうと、気にせず寝ていたら、いきなり五月の名前を呼ぶ女の人の声がした。

「五月?いないの?」

その声で俺は完璧に目が覚めた。

「お母さんだ」

五月が小さな声で言った。

「お母さん?今日来るって言っていたの?」

五月は首を振る。

「どうしたんだ、いないのか?」

今度は男の声がした。

「お父さんも来ている」

それを聞いて俺は飛び起きた。慌てて服を着る。五月も同じように身支度を始めた。そのうち、声はしなくなった。

「帰ったのかな?」

俺がそう言うと、五月は悲しそうな顔をした。新潟から仙台まで、どうやってきたのかわからないが、何時間もかけて娘に会いにきたのだ。五月としては申し訳ない気持ちで一杯だったのだろう。

五月は身なりを整え、そっとドアを開けて外を見た。

「まだいるの?」

俺がそう聞くと、五月は黙ってドアを閉めた。

「いない。帰ったのかなぁ」

せっかく仙台まで来て、五月に会わずに帰ることはないだろう。しばらくしてまた来るに違いない。

「また来ると思うから、俺は帰るよ」

五月が申し訳なさそうに俺を見た。

すると、再びドアがノックされた。

「五月、いるのでしょ?お母さんだよ。開けて」

五月がドアを開けたのをどこかで見ていたのだろう。俺は五月に開けてあげなさいと合図した。五月がドアを開けると、お母さんは五月の顔をチラッと見ただけで、その後ろに視線を移した。1Kの小さな部屋だ。すぐに俺と視線が合った。

「初めまして。五月さんとお付き合いさせて頂いています、高梨と言います」

俺が挨拶をすると、お母さんはすべてを察したのだろう。キッとした顔をして、「五月の母です」と挨拶した。続いてお父さんが部屋に入ってきた。俺を見るなり厳しい顔を向けた。俺はお父さんにも同じように挨拶した。お父さんはぶっきらぼうに「五月の父です」と言ったきり、黙って部屋に上がった。

五月が「お父さん」と説明をしようとしたのを制して、お父さんは俺を見て話しだした。

「高梨さんは、今は仕事をされているのですか?」

「はい。父が経営する会社で働いています」

「ほー、そうすると、将来はお父さんの会社を継がれるわけですか?」

「ええ、その予定です」

「高梨さんは、ご兄弟は?」

「弟がいます」

「弟さんに会社は任せるというわけにはいかないのですか?」

一瞬返事に窮した。いままでそんなことを考えたこともなかった。

「弟さんには任せられない。あなた自身が会社を継ぐという気持ちが強いわけですね?」

俺は答えられなかった。

「聞いているかどうかわかりませんが、うちは農業を営んでいまして。新潟と言えば米ですから、代々受け継いだ田んぼがそれなりにあります。生憎うちの子供はみんな女でして、長女の五月がうちの農業を継ぐことになっているのですよ。ですから、五月と結婚するお相手には、うちに養子に来てもらわないかんのですよ。高梨さんは、養子に来られますかな?」

俺は返事ができなかった。どう考えても答えはNOなのだが、俺がNOという返事をした途端に、五月との付き合いが終ってしまう気がしたからだ。

「できないでしょ?だったら、五月とのお付き合いは、これまでということにしてもらえますか」

「いや、だけど・・・」

「五月も学生時代の良い思い出になったと思います。あなたもお父さんの会社を継がれるのであれば、それなりのお嫁さんをもらわなければいけない。どのみち五月とはいつかは終わるのです。ずるずると五月と付き合っていたら、辛くなるだけでしょ?それに、子供なんかできた日にゃ、目も当てられませんからね」

そのあと、俺は何を話して、どうやって家に帰ったのか覚えていない。五月のお母さんは五月の好物の稲荷寿司や揚げ物をたくさん作って持ってきていた。俺にも食べろと言っていたが、食べたのか食べなかったのか、それすら覚えていない。

その日以来、五月には連絡がとれなくなった。俺が買ってあげた携帯電話も、通じなくなっていた。仕事が忙しくてなかなか行動できなかったが、1週間ほどして五月のアパートに行ったら、五月はもうそこにはいなかった。大学も辞めさせられて、新潟に連れ戻されたのかもしれない。


その数年後、俺は親父の勧めで、店舗で働いていた薬剤師の女性と結婚した。美人でもなければブスでもない。普通の女性だ。ドラッグストアを経営するのに薬剤師の資格は必要ない。ただ、処方箋調剤を扱う以上は薬剤師を常駐させる必要がある。薬剤師の給与はかなり高額だ。そういう意味では身内に薬剤師がいると非常にメリットが高いということだ。

妻は健気に働いてくれた。子供ができてからは仕事と家庭と両立して、頑張ってくれていた。ところが、娘が高校生になった途端に離婚を切り出された。もともと薬剤師としてそれなりの給与をもらっていたのに、結婚してからは自分の自由になるお金はほとんどなく、両親とは別居しているとはいえ、長男の嫁ということで、何かと両親の面倒を見なければならないことも多く、鬱積した気持ちが弾けてしまったということだ。何より、俺の気持ちが妻に向いていないということが我慢ならなかったらしい。確かに結婚してから妻に愛情を抱いたことはない。俺の心の中には、ずっと五月がいた。だが、それは表には出さないようにしていたつもりだったのだが、一緒に暮している妻には感じるものがあったのだろう。何回も話し合って、結局俺が折れる形で離婚した。妻はうちの会社も辞め、今は他の薬局で働いている。


五月からは、年賀状だけは毎年届いた。名刺を渡していたので、会社宛てに送られてくる。最初もらったときは驚いた。ただ、印刷された定型文の後に、手書きで「元気ですか?返信は不要です」と書かれていたので、ご両親には内緒で出していることがわかった。俺からは出さない方が良いのだろうと思い、毎年簡単に書かれている近況を読み、元気でいるのだと安心していた。ところが、何年経っても「結婚しました」という報告はなかった。結婚したとしても養子をもらうので苗字は変わらない。俺を気遣って敢えて言わないだけなのかもしれないが、本当に結婚していないのかもしれない。自分は結婚したくせに、五月のことになるとモヤモヤした気持ちが俺の中でうず巻いていた。


大野が退院したので、快気祝いに飲みに行った。

「肝臓をやられていたのに、お酒を飲んで大丈夫なのか?」

「まあ、少量なら大丈夫だろう。それよりお前、何か行動したか?」

「行動って?」

「五月さんのことだよ」

「いや、何も行動していない」

「五月さんのお父さんが亡くなったというのは3年前だろ?」

3年前に五月から喪中はがきが届いた。俺から年賀状を出すことはないのに、喪中はがきを送ってきたということは、ただ単にお父さんが亡くなったと知らせたかったのだろう。

「お父さんがいないのであれば、会いに行きやすいじゃないか?もう3回忌も終わっているだろうし、会いに行ってみたらどうだ?」

「結婚しているかもしれないのだから、のこのこと会いに行くわけにはいかないだろ?もし旦那さんがいたら気まずいじゃないか」

「その時は、お前の店に直接米を卸してくれる農家さんを探しているとか、適当なことを言えばいいじゃないか」

こいつは、そういうところには頭が回るやつだ。

「いずれにしても、人生に悔いを残さないように、残された年月を大事にしないとな。俺は行動するよ」

「大野は何を行動するんだ?」

「それは内緒だ」

大野に言われて、俺はそうかもしれないと思ってきた。


抱えていた仕事がひと段落したところで、専務取締役として働いている弟の繁晴に、3日ほど会社を休むと伝えた。弟も経営のことは一通りわかっているので、俺がいなくても数日であれば会社は問題ない。

新幹線に乗って新潟まで行く。新潟駅からタクシーに乗り、年賀状の住所を頼りに行先を告げる。新潟駅から、思ったより遠かった。40分ほどかけて、1軒の農家の前にタクシーが止まった。

タクシーを降りて、呼び鈴を鳴らすが、何の応答もない。田んぼか畑に出ているのだろうか。時間をずらしてもう一度来るしかないかと思い、来た道をてくてく歩いていると、向こうから走ってきた軽トラが俺のそばで止まった。運転席に座っている女性が、ジッと俺を見ている。思わず俺もその女性の顔をジッと見た。しばらくして運転席の窓が開いた。

「ひょっとして、高梨君?」

「五月か?」

「一体どうしたの?」

「うちのドラッグストアに、直接米を卸してくれる農家さんを探していまして」

俺は思わず、大野が授けてくれた言い訳トークを口走ってしまった。

「何それ?」

五月が笑い出した。年齢なりに風貌は変わっているが、笑顔は変わらない。

「とにかく乗りなよ」

五月に促されて、俺は助手席に座った。


五月の家は、他に誰もいなかった。

「ご家族は?」

「お父さんが亡くなったことは知らせたよね?お母さんは認知症を患って、今は施設にいる。妹たちは結婚して出て行ったから、今は私一人」

「結婚してないのか?」

「うん」

「どうして?」

「親への反抗?意地?そんな感じ。せめて大学を卒業するまではと頼んだのに、無理やり新潟に連れ戻されて、俊君とも引き離されて、そんな親に対する反抗かな。お見合いも何回かしたけど、全部断った。親はあれこれ言っていたけど、あんな男に抱かれたくないって言ったら、二人とも黙り込んでしまった」

五月は笑いながらそう説明した。

「それで、俊君は?結婚したんでしょ?」

「結婚はした。子供も一人できた。でも、8年前に離婚した」

「離婚したの?どうして?」

「妻は色々言っていたけど、一番の原因は俺が妻を愛していなかったということかな」

「愛してなかったの?」

「親父の勧めで結婚しただけだから。俺は結婚相手は誰でも良かった。五月と結婚できないなら、誰と結婚しても同じだから。五月は、一人で寂しくなかったのかい?」

「寂しいよ。寂しいに決まっているじゃない。でも、一人でいるのが寂しいのではなくて、俊君と一緒にいられないのが寂しかった」

俺は言葉がでなかった。

「今日はゆっくりしていけるの?」

「会社には3日間休むと言ってある」

「ホテルはとった?」

「いや、まだどうするか決めていなかったから」

「じゃあ、ここに泊まりなよ。ちょうど今買い物をしてきたから、夕飯の準備ができるまでテレビでもみていて」

五月はそう言ってテレビのスイッチを入れた。


30年という歳月は長い。お互いに顔は老けて、体型もかなり変わった。俺もお腹が出てしまったが、五月もふっくらと、オバチャン体型になっていた。それでも、話しているうちに、30年前の二人に引き戻されていく。五月の笑顔が20歳の五月の笑顔に見えてきた。

風呂から上がると、二組の布団が並べて敷いてあった。

「布団、並べて敷いたけど、よかった?」

「うん。うれしい」

「私もお風呂入ってくるね」

五月はそう言って風呂場へ向かった。

下着姿になって布団に入っていると、五月が風呂からあがり、パジャマ姿で隣の布団に入った。

「なんか、久しぶりすぎて、ドキドキするね」

五月が少女のようにつぶやいた。

「俺もドキドキしている」

俺はそう言いながら、五月の布団に入って行った。

「私、あれ以来全然してないの」

「本当に?」

「私の生涯の男は俊君ひとりと決めていたから。だから、ちゃんとできるかどうかわからない」

「あの時はごめんな。ずっと後悔していたんだ。弟がいるんだから、俺が会社を継がなくても良かったんだ。どうしてあの時、お父さんに婿養子に行くと言わなかったんだろうって、後悔した」

「そう思ったのは、ずっと後でしょ?あの頃はまだ若かったから、社会の事なんかわからないし、親に言われた道筋を進むしかなかったもの。それを言うなら、私だって家を飛び出して俊君のところへ行けば良かったって、何年も経ってから後悔したもの」

「そうか・・・」

「もう、何も言わなくていい。こうやって、やっと会えたんだもの」

俺たちは静かに唇を合わせた。


弟に伝えていた休みの最終日に、五月が聞いてきた。

「ねえ、最初に言っていた、お店に直接米を卸す農家を探しているというのは本当の事?」

「あれは、五月が結婚していた場合、旦那さんが出てきたときのために大野が考えてくれた言い訳」

「なんだ、そうだったんだ」

「米を卸したかったのか?」

「そうすれば、ちょくちょく俊君に会えるかなと思って」

「そうか、そうだな」

「でも経営に関わることだから、無理しないで。本当に余裕のある時に、たまに会いにきてくれたら嬉しいけど」

「五月は農業を続けていくのか?」

「代々引き継いだ田んぼだからね。私が元気なうちはやって行こうと思っている。その後は妹たちが誰かに任せるなり、売り払うなり、好きにするでしょうけど。結婚に関しては反抗したけど、農業を継ぐことはお父さんとの約束だから」

「そうか。先のことはわからないけど、とりあえず来月もう一度来ようと思っている」

「本当?」

「うん」

「来る前に連絡してね。ご馳走を準備しておくから」

「気を使わなくていいよ」

「私がそうしたいの」


翌月俺は弟の繁晴を伴って新潟へ行った。今度は新幹線ではなく、車で行くことにした。五月に弟も一緒に行くと言ったら、驚いていた。しきりに「どうして?」と聞いてくるので、会ってから話すと伝えておいた。

五月の家につくと、五月は緊張した面持ちで俺たちを迎えてくれた。

居間に座るなり、繁晴を五月さんに紹介する。

「弟の繁晴です。これから兄のこと、よろしくお願いします」

繁晴がそう言って頭を下げたので、五月はキョトンとしていた。

五月さんの表情を見て、繁晴が俺の方を見た。

「ひょっとして、まだ言ってなかったの?」

「うん、まだ言っていない」

二人の会話を聞いて五月が聞いてきた。

「どういうことですか?」

「実は、うちのドラッグストア、新潟に進出しようと思っている。さっきここに来る前に、候補地の視察もしてきた。ここから車で30分くらいのところだ」

五月はわけがわからないと言った顔をしている。

「それで、第1号店の店長を俺が務めることにした。1号店がうまくいけば、仙台の本社はこの繁晴に譲って、新潟地域の店舗は別会社にして、店舗展開をしていこうと思っているんだ。そうなったら、俺はずっと新潟で暮らすことになる」

五月は言葉も出ないようだった。

「それで、俺はここに住んでもいいかな?」

俺がそう言った途端、五月の目から涙がポロリとこぼれた。

「もちろん」

「それで、1号店がうまくいって、別会社を作ったら、俺と結婚してくれないか」

「嫌です!」

「え?」

「1号店がうまくいったらなんて、嫌です。そんなの関係なく、いますぐ結婚してください」

「でも、一応経営だから、店舗がうまくいかなかったら、撤退するしかないから」

「撤退しても俊君は新潟に残ってください。俊君ひとりくらい、私が養います」

俺も繁晴も言葉がなかった。

「30年ですよ?30年経って、やっと俊君と結婚できるかもしれないと思ったのに、やっぱり駄目でしたなんて、そんなのひどすぎます。悲しすぎるじゃないですか。何が何でも結婚してください」

五月の勢いに俺は何も言えなかった。

「兄さん、これは何が何でも新潟店を成功させるしかないね。俺は予約してあるホテルへ行くので、あとはお二人さんでよく話し合ってください」

繁晴はそう言って車で行ってしまった。


残された俺たちは、何も言わず、ずっと見つめあったままだった。すると、五月の目からポロポロ、ポロポロと、涙が溢れてきた。五月はそれを拭おうともせず、ジッと俺を見ている。

「五月、明日婚姻届けを取りに行こう」

五月がウンウンと頷いた。

俺は五月のそばに寄り、そっと抱きしめた。すると、五月は堰を切ったように泣き出した。

「二つだけ、お願いを聞いて」

五月が俺の腕の中で、泣きながら言った。

「何だい?」

「もう一度、北海道に連れて行って。私の人生で、一番幸せだったあの時間を、もう一度味わいたい」

「わかった、必ず行こう。もう一つは?」

「結婚後の苗字は高梨にして。30年間、ずっとずっと憧れて、そうなりたかった苗字だから」

俺はもう一度五月を抱きしめた。

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