第11話

 波留が東京へ行ってから、三日が過ぎた。


 将司の時間は、あの朝の熊野市駅のホームで止まったままだった。


 茹だるような暑さがアスファルトを揺らし、ジリジリと肌を焼く。耳の奥で、蝉の声が狂ったように響き、世界から取り残された将司の焦燥を煽っていた。


 あれから一度も、釣り竿を握っていない。


 夜明け前に目が覚めても、身体は泥に沈むように重い。習慣で七里御浜へ向かっても、ただ果てしなく続く水平線を、感情の抜け落ちた虚ろな目で眺めるだけだった。


 寄せては返す、永遠に続く無感情な波の音。

 その不変の音が、今はひどく無慈悲に聞こえた。お前がどうなろうと世界は何も変わらないのだと、嘲笑われているようだった。


 ポケットの中には、波留に渡せなかった縁結びのお守りが一つ。


 指先で弄ぶたびに、あのホームで見た彼女の顔が蘇る。スマホの画面を見つめ、花が綻ぶように、甘く、蕩けるように微笑んだ、あの顔。


 あれは、俺には決して向けられることのなかった、全身を震わせるような歓喜と信頼の表情だった。


 その記憶が、俺の心に焼き付いていた過去の幸福な情景を、次々と焼き尽くしていく。


 このお守りは、俺の愚かさを嘲笑うかのように、ただの布切れになった。神様も仏様も、いやしない。


 いるのは、ただ、人を騙し、心を弄ぶ男と、それにやすやすと絡め取られていく……愚かな女だけだ。


 分かっている。

 そんな風に波留を罵る資格など、自分にはない。結局、俺は彼女の不安に寄り添うことも、その夢を本当の意味で理解することもできなかった。


 だから、彼女は他の男に救いを求めた。それだけのことだ。


「……将司じゃん。ひっさしぶりー」


 気怠い声に顔を上げると、いつの間にか商店街のアーケードまで歩いてきていたらしい。目の前には、波留と同じクラスの女子が二人、アイスを舐めながら立っていた。


「……おう」


 短く返し、通り過ぎようとする。今は誰とも話したくなかった。特に、波留を知る人間とは。


「ちょ、ちょっと待ちなよ。なんか元気なくない?」


「夏バテ?」


 甲高い笑い声がまとわりついてくる。断ち切るように早足になっても、彼女たちは軽い足取りでついてきた。


「ねえ、聞いた? 波留、すごいんだってね!」


 その名前に、足がアスファルトに縫い付けられたように止まった。


 心臓が、嫌な音を立てて脈打つ。

 聞きたくない。

 けれど、耳が勝手に彼女たちの言葉を拾ってしまう。


「東京でしょ? なんか有名なアニメのスタジオなんだって。夏期講習って言ってたけど、あれ、嘘なんでしょ?」


 片方の女子が、悪戯っぽく笑う。


「え、そうなの?」


「うん。なんかね、特別インターンに呼ばれたんだって。才能ある子しか声かからないやつ!」


 インターン。


 将司の頭の中で、知らない単語が不気味に反響した。予備校の、夏期講習ではなかったのか。


「すごいよねー。プロの現場なんでしょ? でもさ、大変みたいよ。無給なんだって」


 無給。


 二つ目の単語が、将司の鼓膜を殴りつけた。

 金も、出ないのか。交通費も、滞在費も、すべて自腹で。

 波留は、そんな話、一言もしていなかった。そこまでして、あの男にしがみつきたいのか。


「えー、マジで? ただ働きじゃん。ブラックじゃないの、それ」


「でも、それだけ期待されてるってことだよ。斎藤さん? だっけ。そのスタジオの偉い人が、波留のことめちゃくちゃ気に入ってるらしくて」


 サイトウ。


 三つ目のピースが、脳内でカチン、と音を立てて嵌まった。


 花火大会の夜。クライマックスの轟音の中で光った、波留のスマホ。

 人混みの向こうで誰かと話していた、あの時の彼女の横顔。

 俺が「誰なんだ」と問い詰めた時の、あの激情。


『仕事の関係者よ!』


『私の才能をちゃんと見てくれる、唯一の人なの!』


 あの時、彼女が叫んでいた名前。それが、斎藤。


「なんか、毎日連絡取り合ってるみたいだよ。夜中でも、波留が絵に行き詰まってると、すぐ電話くれるんだって」


「うわ、彼氏みたいじゃん」


「ねー。将司、大丈夫なの? 彼氏の座、奪われちゃうんじゃない?」


 友人たちの無邪気な言葉が、引き金になった。


 胃を焼かれるような、醜い妄想が脳裏を駆け巡る。


 夜中、俺の知らない甘えた声で、電話の向こうの男に悩みを打ち明ける波留の姿。


 男の慰めの言葉一つ一つに、うっとりと目を細め、俺との関係では決して得られなかった「特別な承認」という刺激的な快感に、心を委ねていく背徳的な高揚感。


 バラバラだったパズルのピースが、一瞬で組み上がっていく。


 予備校の夏期講習は、嘘。

 本当は、無給のインターン。

 斎藤という男に誘われて、東京へ行った。


 すべて、嘘だった。

 俺だけでなく、両親にまで嘘をついて、波留はあの男の元へ行ったのだ。


 全身から、急速に血の気が引いていく。

 蝉の声が遠くなる。

 目の前の友人たちの顔が、茹だるような熱気の中で陽炎のように歪んだ。


 脳裏を、あの列車の窓がよぎる。

 花が綻ぶように微笑んだ、波留の顔。


 あれは、斎藤からのメッセージだったのだ。

 「今、向かってるよ」

 「着いたら連絡して」

 そんな、甘い言葉が交わされていたのだろう。


 俺が渡そうとしたお守りを手にしながら、彼女は、別の男との未来に胸をときめかせていた。


 ホームで寂しさを押し殺して「頑張れよ」と声をかけた俺は、滑稽な道化だった。

 いや、道化ですらなかった。

 彼女の夢の舞台においては、もはや存在すらしていない、取るに足らない背景の一部。

 邪魔な、過去の遺物。


「……将司? どうしたの、顔真っ青だよ?」


 心配そうな声が、厚い壁の向こう側から聞こえる。


 ふつふつと、腹の底から何かがせり上がってくる。

 それは、悲しみではなかった。

 寂しさでも、なかった。


 焼けつくような、怒り。

 冷たく、鋭利な、憎悪。


 波留に対してではない。いや、嘘をつかれたことへの怒りはある。

 だが、それ以上に許せないのは、斎藤という男の存在だった。


 夢見る田舎の少女の純粋さに付け込み、甘い言葉で手懐け、無償で労働させる。

 それは、ただの搾取だ。

 才能を育てる、などという美しい言葉で覆い隠された、醜悪な欲望。


 あいつは波留の夢を利用して、俺から全てを奪おうとしている。

 俺が守りたかった、あの笑顔も、未来も、全て。

 あいつは、波留を「所有物」としか見ていない。自分の手柄にするための、都合のいい道具だ。


 そして波留は、そのことに気づいていない。

 斎藤が自分の救世主であると、信じ込まされている。あの男の言葉だけが、抗いがたい甘美な毒なのだ。


「ごめん、ちょっと用事思い出した」


 将司は、友人たちに背を向け、無言で歩き出した。

 背後で何かを言っている声が聞こえたが、もうどうでもよかった。


 怒りで、視界が赤く染まっている。

 今までの無力感が、激しい激情の炎に焼かれていく。


 なぜ、もっと早く気づかなかった。

 なぜ、あんな分かりやすい嘘に騙されていた。


 「将司には分からないよ」


 そう言われた時、なぜもっと踏み込まなかった。

 彼女を傷つけることを恐れて、結局は逃げていただけじゃないか。


 ぎり、と奥歯を噛みしめる。

 唇の端が切れ、鉄の味が口の中に広がった。


 待っているだけではダメだ。

 師匠の言葉が、今、まったく違う意味を持って頭に響いてくる。


『大物はな、こっちが焦ると糸を切って逃げていくもんだ』


『だがな、勝負どころで引かなきゃ、一生獲れん』


 勝負どころは、いつだ?

 今じゃないのか?


 このまま、あの男の好きにさせていていいはずがない。

 波留が、壊されてしまう前に。

 夢も、心も、身体も、すべてを食い潰されて、空っぽになってしまう前に。


 俺が、行かなければ。


 アスファルトの照り返しが、目を焼く。

 もう、迷いはなかった。


 ポケットの中のお守りを、強く、強く握りしめる。

 布の角が、掌に食い込む。

 あの朝感じた無力な痛みとは違う。


 これは、決意の痛みだ。

 奪われたものを、この手で取り戻すための、覚悟の痛みだった。


 東京。

 訳の分からない、化け物のような街。


 たとえ、そこで波留が、もう俺の手には届かない場所に堕ちていたとしても、俺は、この目で確かめる必要がある。


 ――――そして、あの男の喉元を、この手で掴んでやる。


 将司は、空を見上げた。

 熊野の空に浮かぶ入道雲は、まるで巨大な獣のように、東京のある東の空へと向かって、その頭をもたげていた。


 その獣が、波留を食い潰す前に、俺が、その喉元に、釣り針を突き立ててやる。

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