第10話

 あの夜から、三日。


 将司と波留の間には、一本のメッセージも、一秒の通話もなかった。


 まるで、七里御浜の波が砂浜に残した足跡を消し去るように。

 十六年間という二人の時間が、たった一夜の決裂によって、跡形もなく洗い流されてしまったかのようだった。


 八月二十日。

 波留が東京へ発つ日。


 熊野の空は、憎らしいほど青く澄み渡っていた。ミンミンゼミの合唱がアスファルトの熱気と共に町を包み、肌をじりじりと灼く。


 将司は、波留の家の前に立っていた。


 インターホンに伸ばした指が、鉛のように重い。


 約束はしていない。だが、見送らないという選択肢は、将司の中に一片もなかった。


 ガチャリ、とドアが開く。

 現れたのは、波留の母親だった。彼女は将司の姿を認めると、心底ほっとしたように表情を和らげる。


「あら、将司くん。おはよう。波留を送りに来てくれたのね、ありがとう」


「……おはようございます」


 母親は何も知らない。

 娘が嘘をついて、知らない男を追いかけて上京するなど、夢にも思っていない。

 純粋に娘の夢の第一歩を喜び、それを支える幼馴染の存在を、ただ心強く思っている。

 その屈託のない笑顔が、無垢な善意が、将司の罪悪感を抉る鋭利な刃となって胸を貫いた。


「あの子、昨日の夜からずっとそわそわしちゃって。将司くんが来てくれたら、少しは落ち着くわ。さ、入って」


 招かれるままに玄関を上がる。

 リビングから、キャリーケースの車輪が床を擦る音が聞こえてきた。


 やがて現れた波留は、将司が今まで一度も見たことのない服を着ていた。

 都会の雑誌から抜け出してきたような、少し背伸びしたワンピース。髪も、いつもより丁寧に巻かれている。


 それは、斎藤という男の影だった。

 波留を自分好みに飾り立て、新しい人形を作り変えるように、彼だけの女に染め上げようとしている証に思えた。

 熊野の海辺でスケッチブックを広げていた彼女とは、まるで別人だった。


 波留は将司と視線を合わせず、俯いたまま小さな声でぽつりと呟いた。


「……おはよう」


「将司くん、悪いけど駅までこの子の荷物、持って行ってあげてくれる? なんだかんだで多くなっちゃって」


「はい」


 将司は黙ってキャリーケースのハンドルを握った。

 ずしりとした重みが、腕に伝わる。

 それは、これから二人の間に横たわる、決して埋まらない距離そのものの重さのようだった。


 駅までの道は、地獄のような沈黙に満たされていた。


 キャリーケースの車輪がアスファルトを転がる音と、頭上から降り注ぐ蝉時雨だけが、二人の間に響いている。


 昔は、この道を何度も二人で歩いた。

 他愛ない話で笑い、時には喧嘩をして、それでも最後には自然と隣に戻っていた。

 あの時間は、どこへ消えてしまったのだろう。


 将司は、横を歩く波留の横顔を盗み見た。

 緊張、不安、そしてそれらを覆い隠す、抑えきれない高揚感。

 その表情は、将司の知らない「女の顔」だった。花火の夜に見た、あの男を想う顔だ。


 彼女の心は、もうここにはない。

 遥か遠く、東京という街へ。そして斎藤巧という男のもとへ、とっくに飛び立ってしまっている。


 熊野市駅のロータリーに着くと、波留の父親が車で待っていた。

 荷物をトランクに積み、後部座席に乗り込む。ここからの数分間だけは、両親という緩衝材のおかげで、息苦しい沈黙から解放された。


「東京は人が多いからな、迷子になるなよ」


「ちゃんと三食、食べるのよ。お菓子ばっかりじゃだめだからね」


 両親の言葉に、波留は「分かってるって」と少し不貞腐れたように返しながらも、その声には甘えが滲んでいた。


 将司は、その会話に入れない。ただ窓の外を流れる見慣れた景色を目で追うだけだった。


 駅のホームは、帰省客や旅行者でごった返していた。

 名古屋行きの特急「ワイドビュー南紀」が、すでにホームに滑り込んでいる。白い車体が、夏の陽光を弾いて眩しかった。


「じゃあ、そろそろ行くね」


 波留が、両親に向かって言った。


「身体に気をつけてな」


「いつでも電話してくるのよ」


 母親が、涙ぐみながら娘を抱きしめる。

 将司は少し離れた場所から、その光景を見ていた。

 温かい家族の別れの輪の中で、自分だけが場違いな異物のようにぽつんと存在していた。


 やがて、波留が将司の方へと向き直る。

 その目はまだ潤んでいた。


「……将司。その、……いろいろ、ごめん」


 絞り出すような声だった。

 何への謝罪だ。

 (謝るな)

 心の中で、黒い毒が滲む。

 (謝るべきは俺じゃない。あの男に弄ばれ、夢を食い物にされるお前の愚かさに対してだろうが)

 そんな言葉が喉まで出かかり、将司は唇を噛み締めた。

 ここで何を言っても無駄だ。引き留めようとすれば、軽蔑されるだけ。

 あの夜の、刃物のような言葉が脳裏に蘇る。


『もう、私のことに構わないで』


 将司は、ズボンのポケットに突っ込んでいた手を出した。

 握りしめていたせいで、汗でじっとりと湿っている。


「……これ」


 掌を開くと、そこには小さな布製のお守りがあった。

 花の窟神社の、縁結びと再生の願いが込められたお守りだ。


 花火大会の前日、一人で神社へ行って手に入れたものだった。

 本当は、あの花火を見ながら渡すはずだった。これからもずっと、二人の縁が続きますように、と願いを込めて。


 波留が、戸惑ったようにそれを見つめる。


「花の窟……」


「……別に、大した意味はない。ただ、……その……」


 言葉が続かなかった。

 お守りに込めた本当の願いなど、今さら口にできるはずもなかった。


 波留は、ためらうように手を伸ばし、将司の掌からそっとお守りを受け取った。

 その指先が、微かに将司の肌に触れる。

 一瞬の感触に、心臓が大きく跳ねた。


「……ありがとう」


 波留はそう言うと、お守りを固く握りしめ、すぐにカバンの奥へとしまい込んだ。

 まるで、将司との思い出と、わずかな罪悪感を、自分の意識の底へ無理やり押し込めるように。


 発車を促す電子音が、ホームに無機質に鳴り響き始めた。


「じゃあ、……行くね」


 彼女はもう一度そう言うと、将司に背を向けた。

 十六年間の全てを、この熊野のホームに無造作に置き去りにするように。

 そして、列車のステップへと足をかけた。


 将司は、ただそれを見ていることしかできなかった。

 言いたいことは、喉の奥で熱い塊になっている。


 行くな。

 嘘をついているんだろう。

 俺のこと、どう思ってるんだ。

 あの男は、誰なんだ。

 俺を、一人にしないでくれ。


 言葉にならない奔流を、奥歯を噛み締めて必死に堰き止める。


 プシュー、という音と共に、ドアが閉まった。


 窓ガラス一枚を隔てて、波留が座席に座るのが見えた。

 彼女は、こちらを見ない。窓の外の、遠いどこかを見つめている。

 その瞳には、もう熊野の景色は映っていなかった。


 ゆっくりと、列車が動き始める。

 将司は、動けなかった。

 ただ、遠ざかっていく車体を、その窓を、目で追い続けた。


 その、瞬間だった。


 不意に、波留がポケットからスマートフォンを取り出したのが見えた。

 彼女は画面を覗き込むと、それまで張り詰めていた表情を、ふっと緩めた。

 そして、本当に微かだったが、その口元に、柔らかな笑みが浮かんだのだ。


 それは、将司がここ数週間、まったく見ていなかった、心からの安堵と喜びに満ちた微笑みだった。

 将司には決して見せることのない、一人の女としての甘さが、男に身を委ねる悦びが、その表情にとろけるように滲んでいた。


 相手は、斎藤だ。

 直感ではない。確信だった。


『今、乗ったよ』

 そんなメッセージでも送ったのだろうか。


『待ってるよ、僕だけの才能』

 そんな、甘く支配的な返信でも来たのだろうか。


 冷たい刃が心臓を貫き、全身の血が凍り付くようだった。

 呼吸が止まり、視界がぐにゃりと歪む。

 自分との別れの直後に、別の男との繋がりに安らぎと喜びを見出す、その残酷な事実。

 あの微笑みこそが、斎藤という男が波留の心をいかに深く支配しているかの、紛れもない証拠だった。


 ズキン、と心臓が凍てつくような痛みを訴えた。

 それは、どんな鋭利な刃物で刺されるよりも、深く、冷たい痛みだった。


 波留は、もうこちらを見なかった。

 彼女はスマートフォンの画面に夢中で、ホームに立ち尽くす幼馴染の存在など、とうに意識の外に追いやられていた。


 やがて、列車は速度を上げ、カーブの向こうへと消えていった。

 ホームには、将司と、波留の両親だけが残された。

 線路の上に陽炎が立ち上り、遠ざかった列車の幻影を揺らしている。


「将司くん、本当にありがとうね。あの子のこと、これからもよろしく頼むわ」


 母親が、優しい声で言った。

 その言葉が、将司の心を無慈悲に引き裂く。

 (よろしく、だって?)

 もう、あの子は俺の「波留」ではない。あの男の所有物になりかけているというのに。

 この人たちは、娘が、そして自分たちが、どれほど残酷な裏切りを働いているのか、何も知らないのだ。


 将司は、うまく返事ができなかった。ただ、曖昧に頷くことしかできない。

 喉がカラカラに渇いて、声が出なかった。


 両親と別れ、一人で駅を出る。

 蝉の声が、まるで自分の無力さを嘲笑うかのように、けたたましく降り注いできた。

 言いようのない喪失感が、全身を支配する。


 心に、ぽっかりと大きな穴が開いた。

 そこから、大切なものが、熱や光と共に、すべて流れ出してしまったようだ。


 無意識に、自分のズボンのポケットをまさぐる。

 指先に、硬くて小さな感触があった。

 取り出すと、それは波留に渡したものと同じ、花の窟神社のお守りだった。


 本当は、ペアで買ってあったのだ。

 離れていても、心は繋がっている。そんな陳腐な願いを込めて。


 その瞬間、将司は確かに聞いた。

 十六年間、繋がっていたはずの縁が、今、決定的に千切れた音を。

 そして、その音は、自分自身の心臓が砕け散る音と、寸分違わなかった。


 馬鹿みたいだ、と自嘲の笑みが漏れる。

 繋がっているものか。

 彼女の心は、とっくの昔に別の男に繋がれていた。

 自分は、その糸がほどけていくのを、ただぼんやりと眺めていただけの間抜けなのだ。


 ぎり、と掌の中でお守りを強く握りしめる。

 布の角が、掌に食い込む。

 この痛みだけが、今の自分がまだ、ここに存在しているという唯一の証明だった。


 あの笑顔が、脳裏に焼き付いて離れない。

 斎藤という男に向けられた、あの甘い微笑みが。


 洗い流されて、たまるか。

 あの夜、心の底から絞り出した決意が、喪失感という名の濁流の中で、かろうじて形を保っていた。


「……諦めたら、終わりだ」


 師匠のしゃがれた声が、また耳の奥で響いた。


 今はまだ、何もできない。

 糸は、向こうの意のままに、どんどん手繰られていくだけだ。


 だが、いつか。

 必ず、勝負をかける時が来る。

 その時が来たら、この手に残った全ての力を込めて、全力で引いてやる。

 たとえ、その糸が彼女を傷つけようとも。


 将司は、灼けつくような太陽を見上げた。

 あまりの眩しさに、目が眩む。


 瞼を閉じると、暗闇の中に、遠ざかる列車の窓と、そこで微笑む波留の姿が、残酷なほど鮮明に浮かび上がってきた。


 将司の夏は、今日、終わった。


 そして、ここからが、本当の戦いの始まりだった。

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