第12話

 東京駅のホームに降り立った瞬間、相生波留は生暖かい空気の塊に全身を包まれた。


 人の声、アナウンス、電車の発着音。あらゆる音が混ざり合い、意味を失った巨大なノイズとなって鼓膜を揺らす。


 熊野の駅に響いていた、のどかな蝉時雨とは全く違う、無機質かつ暴力的な音の洪水。


 人の波は、まるで意思を持った巨大な生き物のようだった。誰もが早足で、隣を歩く人間の顔さえ見ずに、それぞれの目的地へと突き進んでいく。


 少しでも立ち止まれば、たちまち流れに飲み込まれてしまいそうだ。


 キャリーケースのハンドルを握る手に、じっとりと汗が滲む。


 高揚感と、それと同じくらいの不安が胸の中で渦巻いていた。


 ここが、私の夢が始まる場所。斎藤さんが待っている、選ばれた者だけが集うスタジオがある街。


 脳裏に、熊野大花火大会の夜の、将司の傷ついた顔が蘇る。


『あいつ、誰なんだよ』


 あの問い詰めるような声。私の夢を理解しようとしない、彼の瞳の奥の絶望。


 違う。


 波留は、ぶんぶんと首を振って記憶を振り払った。


 分からないのは、将司の方だ。あの穏やかで、変化のないぬるま湯のような日常に浸かっていては、決して理解できない。


 この世界で生き抜くことの厳しさも、千載一遇のチャンスを掴むことの本当の意味も。


 彼の優しさは、ただの甘さだ。私の足を引っ張るだけの、無知な感傷にすぎない。


 私は、進むんだ。自分の足で。自分の力で。


 そう自分に強く言い聞かせ、斎藤から送られてきたメッセージの地図アプリを開く。画面に表示された目的地は、都心にある「スタジオ・エリュシオン」。


 神話に出てくる楽園の名を冠したその場所に、波留は自分の未来のすべてを賭けていた。


 電車を乗り継ぎ、指定された駅で降りる。地上に出ると、空は四角く切り取られていた。


 見上げるほどの高層ビルが、隙間なくひしめき合って天を突き刺している。熊野で毎日見ていた、どこまでも広がる青い空とはまるで違う、窮屈な空だった。


 地図が示す場所は、大通りから一本入った、薄暗い路地にあった。


 波留の足が、思わず止まる。


 そこに建っていたのは、彼女が想像していたような、ガラス張りの洒落たオフィスビルではなかった。


 壁には薄汚れたタイルが貼られ、いくつかの窓にはひびが入っている、古びた雑居ビル。一階にはシャッターの閉まった居酒屋があり、ビルの入り口はオートロックもなく、誰でも入れるようになっている。


 ――ここ?


 何度もスマホの画面と目の前のビルを見比べる。間違いはない。


 ビルの入り口脇にある、古びた集合プレートの一つに、テプラで印字されただけの『402 スタジオ・エリュシオン』という文字が、かろうじて読み取れた。


 心臓が、嫌な音を立てて脈打つ。


 エレベーターは、大人二人が乗ればいっぱいになりそうなほど狭く、蛍光灯がチカチカと不気味に点滅していた。密室に漂う、埃とカビが混じったような匂いに、波留は息を詰める。


 四階で扉が開く。目の前には、スチール製の簡素なドアがあった。ドアには、プレートと同じ『スタジオ・エリュシオン』の文字。


 ここまで来て、引き返せるはずがない。


 波留は一つ深呼吸をして、冷たいドアノブに手をかけた。


 ドアを開けた瞬間、流れ込んできたのはむっとするような熱気と、電子機器が発する独特の匂いだった。


 そして、目に飛び込んできた光景に、波留は息を呑んだ。


 そこは、「スタジオ」と呼ぶにはあまりに狭く、乱雑な空間だった。


 ワンルームマンションを無理やりオフィスに改造したような部屋には、いくつものデスクが詰め込まれ、足の踏み場もないほど資料や段ボールが山積みになっている。


 窓は黒いカーテンで閉め切られ、部屋を照らすのは天井から吊るされた、血の気のない白い蛍光灯の光だけ。


 そして――そこに、何人もの若者たちがいた。


 五人、いや六人だろうか。波留と同じくらいの年齢に見える男女が、皆一様に液晶タブレットに向かい、黙々と手を動かしている。


 画面に反射する彼らの顔は、一様に疲れ切っていて、覇気がない。まるで、命を削って作業をしているかのように、その背中は小さく丸まっていた。


 波留が呆然と立ち尽くしていると、部屋の奥から一人の男が立ち上がった。


「やあ、相生さん。よく来たね」


 計算された無造作ヘアに、細いフレームの眼鏡。画面越しに何度も見た、斎藤巧だった。


「斎藤さん……」


「長旅、疲れただろう。ようこそ、スタジオ・エリュシオンへ。君が最後の『原石』だ」


 斎藤は、いつものように人好きのする笑みを浮かべた。しかし、その目は笑っていない。


 値踏みするような冷静な光が、波留の頭のてっぺんから爪先までをなぞるように動く。その視線に、まるで新しい手駒を手に入れたかのような、かすかな愉悦が滲んでいるのを波留は見逃さなかった。


「さ、荷物はそこに置いて。すぐに席を案内するよ」


 斎藤はそう言うと、波留の返事を待たずに、部屋の隅にある空席の一つを指さした。


「ここが君の席だ。他のインターン生を紹介するよ。……まあ、みんな忙しくて自己紹介してる暇もないだろうけどね」


 斎藤が軽く手を叩くと、作業をしていた数人が億劫そうに顔を上げた。


「彼女が、俺が言ってた相生波留さん。今日から参加するから、よろしく」


 ぺこり、と頭を下げる波留に対し、彼らは無言で会釈を返すか、あるいは興味もなさそうにすぐに視線をタブレットに戻してしまう。


 その瞳には、新しい仲間を迎える歓迎の色など、どこにもなかった。


 ただ、疲労と諦観だけが、淀んだ沼のように沈んでいる。


「さて、と。早速だけど、君にも仕事をやってもらおうかな」


 斎藤は、波留のデスクに置かれたタブレットを起動させると、慣れた手つきでファイルを開いた。


「まずは、これ。今やってるテレビシリーズの動画なんだけど、このキャラクターの髪の毛のハイライト部分、これを指定された線画に合わせて、ひたすらトレスしてクリンナップしていってほしい」


 画面に表示されたのは、何枚も重なったラフな線画。波留に与えられた仕事は、その中の一部分の、特定の線をなぞって清書するという、ただそれだけの作業だった。


 創造性のかけらもない、機械的な作業。


「あの、斎藤さん。これは……」


「ん? ああ、まずはプロの現場のスピード感に慣れてもらうためだから。どんな天才アニメーターも、最初はこういう地味な作業から始めるものだよ。黙って手を動かす。それが、この業界で生き残るための一番の近道だ」


 斎藤は波留の肩を軽く叩くと、「期待してるよ」という言葉を残して、自分のデスクに戻っていった。


 取り残された波留は、呆然と目の前の画面を見つめるしかなかった。


 これが、プロの現場?


 これが、斎藤さんが見せてくれると言った、「夢への地図」の第一歩?


 疑問が渦巻く。しかし、周りのインターン生たちは、誰一人として不満を口にせず、ただひたすらに手を動かし続けている。その無言の圧力が、波留の言葉を飲み込ませた。


 ここに来るために、私は将司を傷つけた。嘘をついて、あの優しい時間を捨ててきた。


 今さら、「思っていたのと違う」なんて、口が裂けても言えなかった。


 波留は、ぎゅっと唇を噛み締めると、震える手でペンを握った。


 それから、地獄のような時間が始まった。


 休憩時間らしい休憩もなく、ただひたすら線をなぞり続ける。斎藤は時折、部屋の中を巡回し、何人かの肩越しに画面を覗き込むだけ。波留の背後を通り過ぎる際には、「いいね、その調子。相生さんはやっぱり筋がいい」と囁いたが、それは具体的な指導とは到底呼べないものだった。


 昼食は、コンビニで買ってきたパンをデスクでかじるだけ。他のインターン生たちも同様で、誰かと会話を交わす者はいない。スタジオの中は、ペンの走る音と、空調の低い唸りだけが響いていた。


 一度だけ、勇気を出して隣の席の、眼鏡をかけた気弱そうな青年に話しかけてみた。


「あの……皆さん、ずっとこんな感じなんですか?」


 青年は一瞬、驚いたように顔を上げたが、すぐに視線を落とした。


「……斎藤さんに、『君は特別だ』って言われて、来たんだろ?」


「え、はい……」


「俺もだよ。ここにいる全員、そう言われて来た。選ばれたのは、自分だけじゃなかったってわけ」


 彼の言葉には、乾いた自嘲の響きがあった。


 別の休憩のタイミングで、女子たちがひそひそと話しているのが聞こえてきた。


「もう三日、まともに寝てない……」


「斎藤さん、昨日、高橋さんだけ別室に呼んで『特別指導』してたらしいよ。なんか、お気に入りみたい」


「うわ、また? えこひいき、ひどすぎ……」


 嫉妬と、諦めと、疲労が混じり合った、澱んだ空気。それを耳にした瞬間、波留の胸にチクリと小さな棘が刺さった。屈辱と、そしてほんのわずかな羨望。


 自分も、あんな風に特別に目をかけられたかった。大勢の中の一人ではなく、特別な一人になりたかったのだと、今さらながら思い知らされた。


 全身の血が、冷たくなるのを感じる。


 特別なんかじゃなかった。自分は、大勢いる「原石」の一人にすぎなかった。


 いや、原石ですらない。ただの、使い捨ての労働力。


 ――騙されたのかもしれない。


 その言葉が、初めてはっきりと、頭の中に形を結んだ。


 熊野の、あの青い海が見たい。七里御浜に打ち寄せる、力強い波の音が聞きたい。


 将司の、不器用だけど、いつも私を一番に考えてくれる、あの温かい手に触れたい。


『将司には分からないよ』


 自分が吐き捨てた言葉が、鋭い刃となって胸に突き刺さる。


 分かっていなかったのは、私の方だった。夢という言葉に目が眩んで、一番大切なものが見えなくなっていた。


 無意識に、ジャージのポケットに手を入れる。指先に、硬くて小さな布の感触が触れた。将司がくれた、花の窟神社のお守り。


 ぎゅっと握りしめると、彼の体温がまだ残っているような気がした。その温もりが、この無機質で冷え切った部屋の現実を、より一層、残酷に際立たせる。


 だがその温かささえ、今は重かった。この優しさが、夢を追う自分の邪魔をする感傷なのだと、冷たい自分が囁く。将司の存在そのものが、今の自分を過去に縛り付ける鎖のように感じられた。


 涙が、滲みそうになるのを必死で堪えた。ここで泣いたら、本当に終わりだ。自分で選んだ道なのだから。


 その夜。時計の針がとっくに深夜を指しても、作業は終わらなかった。


 斎藤が、コンビニの袋を提げて戻ってくる。


「お疲れ様。みんな、もうひと頑張りだ。エナジードリンク、買ってきたから」


 彼は、疲弊しきったインターン生たちのデスクに、一本ずつ缶を置いて回る。


「プロの世界は厳しい。でも、この山を越えれば、必ず次のステージが見えてくる。才能を咲かせるためには、これくらいの無理は必要な投資なんだよ。君たちならできる。俺は、そう信じてる」


 その甘い言葉に、何人かの目が、ゾンビのように虚ろな光を宿した。承認に飢えた心が、麻薬のようにその言葉を欲している。


 波留のデスクにも、冷たい缶が置かれた。


「相生さんも、期待してるからね」


 耳元で囁かれた声は、ねっとりと熱を帯びていた。ぞわりと鳥肌が立つ嫌悪感。


 だが同時に、疲弊しきった心の隙間に、その言葉が甘い毒のように染み込んでくる。誰かに認められたい。特別だと思われたい。その歪んだ欲求が、ほんの一瞬、満たされるような快楽への戸惑いが芽生えた。


 斎藤が去った後、彼女はプルタブに指を添えたまま、動けずにいた。


 夢を叶えるためには、これくらいの犠牲は必要なんだ。斎藤さんの言う通りだ。


 そう自分に言い聞かせようとする。だが、その度に将司の顔が幻のようにちらつき、お前は本当にそれでいいのか、と責める声が聞こえる気がした。


 窓の外は、熊野では考えられないほど明るい。眠らない街、東京。無数の光が、まるで巨大な生き物の鱗のように、不気味にきらめいている。


 あの光の一つ一つに、私と同じように、夢を抱いてこの街に来た人々の孤独が滲んでいるのかもしれない。


 そして、斎藤のような捕食者の影が、その夢を喰らうために潜んでいるのかもしれない。


 ペンを握る指は、もう感覚がなかった。心の奥で、信じていた何かがポキリと折れる音がした。


 再び、背後に人の気配が立つ。斎藤だった。


 彼は周りのインターン生たちには聞こえないように、しかしはっきりと、波留の耳元に唇を寄せた。


「お疲れ様、相生さん」


 吐息が耳にかかる。波留はびくりと肩を震わせた。


「……君にだけは、本当の特別を見せてあげたいと思っているんだ。みんなが帰ったら、少し残ってくれるかい?」


 斎藤の手が、そっと波留の肩に置かれる。拒絶できない、重い圧力がかかった。


「二人きりで、君の未来について、じっくり話そう」


 その誘いを、今の彼女に、断る術はなかった。

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