第7話
画面越しの斎藤は、指を組んでゆっくりと息を吐いた。その仕草一つが、波留の知らない都会の洗練を体現しているように見える。
「ワークショップ、お疲れ様。相生さんの吸収力には、正直驚かされたよ」
穏やかな、しかし芯のある声がスピーカーから響く。それは、大勢に向けられた講師の声ではない。たった一人、相生波留という個人に向けられた、男の声だった。
「いえ、そんな……! 皆さんのレベルが高くて、私、ついていくだけで必死でした」
波留は慌てて首を振る。心にもない謙遜ではなく、本心だった。あの空間にいた誰もが、自分よりもずっと先に進んでいるように思えたのだ。
「そこだよ」
斎藤は、人差し指をすっと立てる。細いフレームの眼鏡の奥の瞳が、真っ直ぐに波留を射抜いた。
「他の子たちは、確かに技術的には安定している。でもね、彼らの絵はどこか『まとまって』しまっているんだ。小さく、綺麗に。でも、君の絵は違う」
彼の言葉が続く。その声は、耳元で囁かれているかのように甘く、思考の芯を痺れさせる。
「荒削りだけど、枠からはみ出そうとするエネルギーがある。他の誰も持っていない、強烈な『何か』を僕は感じる」
心臓を直接掴まれたような、強い衝撃。
自分がずっとコンプレックスに感じていた部分だった。熊野の自然しか知らない視野の狭さ、都会的なセンスの欠如、洗練されていない線。
それら全てを、彼は「エネルギー」という言葉で肯定してくれた。
将司も、いつも「波留の絵はすごい」と言ってくれる。でも、彼の言葉は優しいだけだ。この海と山に囲まれた、心地の良い檻。彼の褒め言葉は、この小さな世界でしか通用しない。
でも、斎藤の言葉は違う。
東京で、プロの世界で戦っている人間の言葉だ。それは、波留が今まで渇望してやまなかった、客観的で、絶対的な価値を持つ「評価」だった。
「君は、磨けば光るどころじゃない。とんでもない原石だ。……ただ」
斎藤は言葉を切り、少しだけ残念そうな表情を浮かべた。その計算された沈黙が、波留の不安を巧みに煽る。
「このままじゃ、宝の持ち腐れになる」
冷たく、断言された。
「オンラインで教えられることには限界がある。本当に大切なのは、知識じゃない。プロがどんな空気の中で、どんな締め切りに追われ、どんな熱量で一枚の絵を仕上げていくのか……その『現場の匂い』を肌で感じることなんだ」
彼の言葉の一つ一つが、波留の心の乾いた部分に染み込んでいく。
そうだ、私が知りたいのはそれだ。教科書にも、ネットの記事にも載っていない、本物の世界の空気。
「だから、君にだけ提案したい」
斎藤は、まるで秘密を打ち明けるように、少しだけ声を潜めた。その共犯者のような親密さが、波留の理性を麻痺させる。
「夏休み、東京に来ないか?」
時が、止まった。
窓の外で聞こえていた波の音が、遠ざかっていく。自分の部屋の、鉛筆の芯の匂いも、潮風の匂いも、全てが現実感を失っていく。
画面の中の、斎藤のいる世界だけが、唯一のリアルになった。
「うちのスタジオで……スタジオ・エリュシオンで、プロの現場を体験させてあげる。僕の直属でね」
特別インターン。選ばれた者だけが参加できる、夢への登竜門。
その言葉が、脳裏に閃いた。
「え……で、でも、そんな……私なんかが……」
「君だから、だよ。相生さん」
斎藤は、波留の躊躇いを一瞬で見抜き、優しい声でそれを打ち消した。その声には、彼女が将司を裏切ることなど、取るに足らない障害だと確信している絶対的な自信が満ちていた。
「これは、誰にでも与えられるチャンスじゃない。僕が、君の才能を本気で買っているからこそのオファーだ。もちろん、無理強いはしない。熊野でのんびり絵を描き続けるのも、一つの幸せな生き方だと思う」
その言葉は、優しさの仮面を被った、残酷なナイフだった。
『熊野でのんびり』。
その一言が、波留の抱える焦燥感を的確に抉った。このままここにいたら、将司との穏やかな日常に埋もれて、私の才能は腐っていく。この、斎藤さんだけが見つけてくれた輝きは、誰にも知られることなく、七里御浜の石ころみたいに、波に洗われて丸くなっていくだけなんだ。
「彼氏さん……だっけ? 漁師になるのが夢の。いい人そうだよね」
不意に将司の名前を出され、波留は息を呑んだ。どうして、そのことを。斎藤が口にする「彼氏さん」という響きは、どこか他人行儀で、将司の存在を過去のものへと追いやる冷たさがあった。
「彼は、君の才能の本当の価値を、理解できるかな? 彼が愛しているのは、熊野の自然を描く君だ。でも、君が描きたいのは、それだけじゃないだろう?」
図星だった。
将司は、波留が描く熊野の風景が好きだ。海の男である彼にとって、それが世界のすべてだから。でも、波留が本当に描きたいのは、この世界にはない空想のキャラクターが、見たこともない都市を駆け抜ける、躍動感のあるアニメーションだった。
将司には、分からない。
分かってもらおうとすることも、もう諦めていた。彼の世界と、私の目指す世界は、潮目みたいに、決して交わることはない。
「行きたい、です……」
声が、震えていた。
「行かせてください……!」
ほとんど懇願するような響きだった。斎藤は満足そうに頷くと、待ってましたとばかりに話を続ける。
「よかった。君ならそう言ってくれると信じてたよ」
彼は少しだけ姿勢を正した。ここからが、本題だ、と空気が変わる。
「ただ、いくつか条件がある。これは遊びじゃない、仕事の現場だからね。まず、期間は夏休みの後半、二週間。もちろん、プロの現場だから、甘えは一切許されない。泊まり込みの作業になる日もあると思っておいてほしい」
「はい、覚悟しています」
波留は前のめりに頷いた。望むところだ。自分のすべてを、このチャンスに賭けたい。
「それから、これはあくまで君の『学び』の機会だ。だから、報酬は出せない。交通費や、東京での滞在費も、自己負担になる。それが、この業界の厳しさであり、君の『本気度』を測る、最初のテストだと思ってほしい」
無給。交通費も滞在費も自己負担。
冷静に考えれば、それはあまりにも一方的で、搾取的な条件だった。
だが、今の波留には、それが搾取だとは到底思えなかった。
むしろ、『テスト』という言葉が、彼女の心を燃え上がらせた。
これは試練なのだ。夢を叶える資格があるかどうか、斎藤さんに試されている。お金を払ってでも手に入れたい経験を、無償で提供してくれる。交通費や滞在費なんて、そのための必要経費に過ぎない。
「大丈夫です。やらせてください」
何の迷いもなく、波留は答えた。
頭の中では、アルバイトで貯めたお年玉と貯金の残高を計算していた。ギリギリ、足りるかもしれない。足りなければ、親に頭を下げよう。
「そうか。覚悟は決まっているようだね」
斎藤の口元に、一瞬だけ、狩人が獲物を手中に収めた時のような、冷たい笑みが浮かんだのを、波留は見逃した。画面越しの彼は、ただただ、自分の才能を信じてくれる、信頼できる指導者にしか見えなかった。
「詳しいスケジュールは、また後で送るよ。ご両親には、上手く説明するんだよ? 『東京のすごいアニメスタジオで、特別な研修を受けられることになった』ってね」
「はい……!」
「じゃあ、東京で待ってる。未来の、すごいアニメーターさん」
最後の言葉は、所有物への愛称のように、とろけるほど甘い響きを持っていた。
通信が切れる。
画面が暗転し、ノートパソコンのモニターに、紅潮した自分の顔が映り込んだ。
心臓が、破裂しそうなほど速く鼓動している。
やった。やったんだ。
私の絵が、この熊野の町を飛び出して、東京に届いた。プロの目に留まって、認められた。
抑えきれない興奮で、部屋の中をぐるぐると歩き回る。
ふと、机の上の写真立てが目に入った。去年の夏祭り、浴衣姿で将司と撮ったツーショット。彼の腕に照れながら寄り添う、幸せそうな自分が写っている。
その笑顔が、なぜかひどく色褪せて見えた。
波留は、無言でその写真立てを手に取ると、パタン、と裏返しに伏せた。
ごめん、将司。
心の中で、小さく呟いた。
罪悪感が針のように胸を刺す。でも、その痛みさえ、今はどこか甘美な快感に変わっていた。夢を掴むために誰かを裏切るこの痛みこそが、私が特別な人間であることの証なのだ。
この話を、彼にどう説明しよう。
『東京の男の人に誘われて、夏休み、会いに行くことになった』
正直に言えるはずがない。彼が、どれだけ心配するか。どれだけ、反対するか。目に見えている。
彼はきっと、私の夢を理解できない。斎藤さんが言った通りだ。彼は、この熊野という小さな世界で、その土臭い優しさで、私を繋ぎ止めようとするだろう。それは私の可能性を奪う、足枷でしかない。
嘘を、つかなくちゃ。
波留の頭に、その考えがはっきりと浮かんだ。彼を傷つけないため、という建前で、私の夢を守るために。
そうだ。『東京の美術予備校の、夏期講習に受かった』とか。
それなら、将司も、両親も、きっと応援してくれる。
一度決めてしまえば、罪悪感は急速に薄れていった。これは、未来のための、必要で、正しい嘘だ。
波留はスマホを手に取った。迷わず、将司とのトーク画面を開く。
カーソルが点滅している。
窓を開けると、むわりとした夏の夜の空気が流れ込んできた。遠くで響く、一定のリズムを刻む波の音。いつもは心を落ち着かせてくれるその音が、今夜はやけに退屈で、単調なものに聞こえた。
東京は、どんな音がするんだろう。
電車の走る音。雑踏のざわめき。眠らない街の喧騒。
そのすべてが、今の波留にとっては、輝かしい未来へと続く交響曲のように思えた。
もう、後戻りはできない。
ううん、後戻りなんて、するつもりもない。
波留は、まだ見ぬ都会の蜃気楼に向かって、固く、固く、拳を握りしめた。その掌の中で、将司との穏やかな日々が、砂のようにこぼれ落ちていく。
そのことに気づきながら、もはや惜しいとすら思わなかった。
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